LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

3.1 人類の存続可能な条件を人類に教えてくれるのは《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》

この国は、少子化を止められない中、人口は減少し、高齢化の中で国の活力を失い始め、しかも国の借金(政府債務残高)はGDPの2.4倍も抱えたままです。このままでは、若者や子供たちさらにはまだ見ぬ世代に、そのツケは全て負わされてゆくような事態になりかねません。 

そしてこの国の国会や政府の総理や閣僚を含めた政治家たちは、難題だらけの現状の中、この国のゆくべき方向も、目指すべき国の姿も、まったく描こうとさえしていません。というより、国民を裏切り、もっぱら官僚任せでいるだけです。

 

そんな中、菅総理大臣は先の国会の施政方針演説の中で「2050年には日本も温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」と宣言しました(2020年10月26日)

しかし、同氏のこの宣言も、それを実現する具体的な方法があるわけでもなく、単に願望を述べたものに過ぎないものです。

しかも、東京電力福島第一原発の水素爆発による廃炉作業があれほど難航して遅々として進まない一方では、被災して間もなく10年が経とうというのに、そしてまだ1万人以上の人たちが郷里に帰還することさえできていないというのに、さらには再稼働した原発から出るいわゆる核のゴミも、予定地において間もなく満杯になり、その代替地も未だ定まらないという状況なのに、相変わらず原子力発電行政の方はやめようとはしていません。全く無為無策です。

もし菅氏が、真剣に母国を持続可能な国にしようとの覚悟と決意があるなら、そして日本固有の自然的条件をもっともっとよく見渡すならば、他の国々にはない日本独自の自然エネルギー確保の道があるというのに、です(拙著第11章を参照)。

 

そこでここでは、私は、今、人類の存続の最大の脅威の一つとなっている地球温暖化を阻止するための具体的な方策について、通常考えられている観点とは異なる観点から考察してみようと思います。

それは、温暖化をもたらしている最大の原因とされる温室効果ガスの排出規制の仕方そのものを考えるというのではなく、ある物理学的な原理の観点から考える、というものです。その原理とは、拙著の副題の中に言う2種類の原理のうちの最初のものである《エントロピー発生の原理》です。

 

なお今回の「3.1節」と次回公開を予定している「3.2節」を包括する第3章を公開するに際しては、読者の皆さんに特にお願いがあります。

それは、ここで著者である私の提案する考え方は果たして正しいのだろうかということを、それぞれご自身の問題として置き換えて考えてみていただきたい、ということです。

また、続く「3.2節」では著者独自の発想に基づく計算の過程も出てきますが、そこでは特に読者の皆さんには、できましたら、ご自身でも計算してみていただきたい、ということです。

それをお願いするのは、ここでのこうした考え方が正しいか否かということがまず鍵になりますが、正しいということになれば、温暖化阻止に向けて、これまで「パリ協定」で言っているような「2050年までに、温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」といった漠然とした温室効果ガス排出規制による温暖化阻止対策ではなく、より具体的で説得力ある対策の手を打てるようになると考えられるからです。いえ、それだけではなく、より積極的に予防の手まで打てるようになるはず、とも考えられるからです。

すなわち、後は、より正確な最新データを関係科学者や研究者に採集していただき、それを用いて、より詳細に計算すればいいだけの話になるからです。

もしそうなれば、「パリ協定」の中身も、もっときめ細かく具体的になり、それぞれの国ごとの、場合によっては各地域ごとの具体的な対策の仕方を定めることができるようになるかもしれません。

 

第3章 人類の存続可能な条件

3.1 その条件を人類に教えてくれるのは《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》

今、私たち地球上に住む人類は、その存続の危機に直面している。その危機をもたらしているのは他でもない私たち人間自身である。その危機とは、大きく分けて2つある。1つは核戦争勃発の危機。もう1つは、広義には環境問題と言われている問題がもたらす危機である。

後者の危機はさらに2つのものから成っていて、その1つが地球温暖化あるいはそれが主原因となって起っているとされている気候変動がもたらす危機である。もう1つは生物多様性の消滅がもたらす危機である。それは、地球上に生きる生物の種の激減と、それぞれの種の中での個体数の激減とがもたらす危機である。

この節では、主に、上記の核戦争勃発による危機と広義の環境問題のうち、後者にのみ限定して考えてみようと思う。前者の危機については、本節の最後に少しだけ触れるつもりである。

そこで、先ずは地球温暖化問題ないしは気候変動問題について考え、次いで生物多様性の消滅危機の問題について考える。

IPCCによると、地球温暖化ないしは気候変動をもたらしているのは人間の経済活動であることはほぼ間違いないとしている。さらに絞れば、その現象をもたらしている直接的で最大の原因は、人間が産業活動や日々の暮らしの中から排出しているCOやメタン、フロン等のいわゆる温室効果ガスであろうとしている。なおそれぞれのガスの温室効果度については、例えばメタンガスについては、CO2の28倍どころか80倍を超えると言う科学者もいる(「スペースシップアースの未来」NHKBS1 2013年11月25日からの三回シリーズ?!)。

IPCCとは、気候変動に関する政府間パネルの略で、気候や気象の問題に関する世界の科学者およそ2000人からなる、世界で最も権威ある国連の専門家集団のことである。

世界全体におけるその排出総量は、とくに産業革命以降急速に増大し、しかもその増大の仕方も加速度的だ。たとえば主たる温室効果ガスの種類ごとの排出量をすべて二酸化炭素の量に換算すると、概略的には、1990年には380億トン、2000年には403億トン、2005年には475億トン、2010年には498億トンとなる。ただし、この場合、とくにメタンガスを炭酸ガスに換算する際には、重量換算ではなく、温室効果という観点から炭酸ガスの28倍としているIPCC AR5 WGⅢ 図SPM.3より)

この増加傾向のうち化石燃料を燃やして発電する際に発生するCO2の総量の全温室効果ガス発生量に占める割合は年ごとに増加しているのである。たとえば、1970年には55%だったものが、1990年には59%、2010年には69%となる。

ここで注目すべきは、この増加傾向は、今のところ、世界における一人当たりのGDP国内総生産)の増加傾向と一致しているという事実である。

そしてそのことと関連してもう一つ注目すべきは、 IPCCは、そうした温室効果ガスの発生量の変化に対応して、産業革命時に比較しての地球表面上の気温上昇量は、2050年には3℃を超え、2100年の今世紀末には最悪の場合、4.8℃上昇するであろう、と予想していることである。ただしその予想値とは、世界が連携して何の温暖化対策を施さないで時間が過ぎて行った場合の最悪と最低の気温上昇値の平均値のこと、としている。

これに対して、IPCCラジェンドラ・パチャウリ議長はこう訴えている。「早く手を打たなければ取り返しのつかないことになります」。またクリス・フィールド共同議長もこうも訴えている。「今世紀末、4℃気温が上昇した世界は、2℃上昇した世界とはまったく異なります。4℃上昇した世界では、対策をとっても適応することが難しいでしょう」(2015年10月24日NHK

地球温暖化が人類と他の全生物にとってどれほど恐ろしいか、それはたとえば実際に生じた次の事態を知ることによって幾分かは理解できるのではないか。

それは2億5250万年前の地球の「ペルム紀」に起ったことだ。

それまで地球上に増えて溜まり始めていた炭酸ガスにより温暖化が徐々に進行し、その結果、深海のメタン・ハイドレートがあるとき爆発してメタンガスが大量に大気中に放出されたのである。それによって地球温暖化が急激に進み、自然のメカニズムによる制御は不能となり、当時の生物がほとんど一気に絶滅したのである(「スペースシップ・アースの未来」第3回 NHK)。

実際、今、地球が温暖化していることによって、とくに北極海や極地の陸地や湿地帯からは、これまでの永久凍土とされていた凍土がゆるみ、その結果、その中に長いこと閉じ込められていたメタンガスが、いたるところから噴出し始めているのである。

そして今後、温暖化がもっと進むと、このメタンガスの噴出が今度は極地だけではなく海中からも急速に増えてゆくだろうことが予想され、そうなれば、私は、IPCCの気温上昇量についてのその予測値は、「最悪の場合」とはしているが、それもかなり控えめなものなのではないかと危惧するのである。

とにかく今、地球表面は、年々暖まっており、その結果、地球規模で気候変動が生じ、そのことにより世界中に、過去に見られなかった現象が「異常気象」という言い方の下に次々と生じ、またそれが常態化してさえいる。そしてそのことについては、既に地球上のほとんどの人々は気付き始めているのである。

大干ばつ、大寒波と大熱波の異なる地域での同時発生、海面上昇、海水温の上昇、海面の上昇、台風(ハリケーン、サイクロン)の巨大化と頻発化、高潮の襲来、高波の襲来、ゲリラ的局所集中豪雨、竜巻や落雷の多発等がその代表例だ。またそれによって、被害の程度や規模も指数関数的に拡大している。

こうした現実を踏まえ、パリで行われたCOP21、すなわち第21回気候変動に関する締約国会議では、それまでの経緯からすれば画期的とされる次の3つに要約される内容が、いずれも法的拘束力のある協定として締結されたのである。パリ協定と呼ばれる国際協定である。

これは、文字通り、温室効果ガスの排出を全世界が責任をもって減らそうという国際社会の決意表明である。

産業革命前からの気温上昇を2℃を十分に下回る1.5℃に抑える努力をする。

◎今世紀後半には温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする。

◎5年ごとに削減目標の見直しを義務づける。

 

しかし、である。たしかにパリ協定とその内容は、既述の異常気象による異常事態の続出の急増を知れば知るほど画期的なものといえるが、私は、この地球温暖化という問題への対処の仕方について、とくに関係科学者たちの対応の仕方について、かねてから疑問に思っていたことがある。

それは、地球温暖化をくい止めよう、そのためには温室効果ガスの排出を抑えよう、そのためには再生不能資源である化石資源の利用も採掘も止めよう、とは地球温暖化に危機感を持つ人は誰もが口にするのであるが、奇妙なことに、その場合、では、温室効果ガスの地球上での排出を一体どれほどの量に抑えれば地球規模の温暖化は抑制できるようになり、人類は存続できるのかという量的観点からこの問題を提起する人がいないことである。つまり少なくとも現状を見渡す限り、定性的な言い方はするが、定量的な言い方を持って問題とする者は、私が無知なだけなのか、IPCC関係者を含めて、誰もいないように見えるのである。

そしてそれが私には不思議だし、不可解なのである。

関係科学者・気候学者の誰も、“とにかく、今後も温暖化の推移は、観測して行かねばならない”とか、“今後温暖化がどう進むかは継続的に観測してみないと判らない”とは言う。つまり、ひたすら観測や測定を続けるしかない、といった態度なのだ。 

しかしそれでは世界の人々に温室効果ガスの排出制限への協力を訴えるにも、具体的な目標が定まらないし、また定められないのではないか。つまり、一般の人々にとってはもちろんのこと、産業界にとっても、“ここまで温室効果ガスの排出総量を抑えればいい”といった各分野ごとの具体的な排出許容限界量が示されないと、どこまで排出規制したらいいのか判らないから、結局は、社会全体に対して、漠然とした努力を要求するだけとなってしまうからだ。

実際のところ、市民も産業界も、“とにかく出来ることを、出来るところからやればいい”、あるいは“思いついた時に思いついたことをすればいい”といった程度に、漠然と対処するしかなかったのではないか、と私には思われるのである。

それに、これまで、「省エネ」が必要だとか、温室効果ガスの排出量を抑える必要がある、あるいはこうすれば温室効果ガスの量をこれだけ排出削減できるということはよく聞かれても、ではそのことによって温暖化防止に対してどれだけの効果があるのかということについては明らかにされたことはなかったのだ。

いずれにしても、今のところ、地球の温暖化阻止について、定量的に議論ができ、予測を可能とさせる理論は、私の知る限り、提示されたことはなかったし、今もなおなされてはいないように見える。そしてそのことは言い換えれば、今もって人類は、人類の存続を可能とさせる定量的条件を見出せないままにある、ということを意味するのである。

ところが、である。私は、本書を執筆する過程で、この困った状態に回答を与えてくれそうな理論に、全く偶然に巡り会えたのである。

それが次節にて詳しく紹介するエントロピー発生の原理》であり、それに基づく理論である。

その理論は、今からおよそ150年も前の1865年、ドイツ人科学者R・クラウジウスによって打ち立てられたもので、物理学の分野では、熱力学の第二法則または「エントロピー増大の法則」として知られているものである。

次節ではその原理の概略説明をすると共に、その原理を用いて、地球の温暖化対策というよりも、究極の、人類の存続を可能とさせる定量的条件について考察してみたいと思う。

ただし、私がそこにて展開するエントロピー発生の原理》に基づく理論は、もっぱら日本の誇るべき、そして科学者としての良心を持つ槌田敦に拠るものである(同氏著「熱学外論」)朝倉書店)

科学界の歴史と現状に疎い私ではあるが、同氏は、エントロピーという名称を持つ物理的な量による具体的な数値をもって、「エントロピーの総排出量がここまでであったなら、人類の存続は可能となる」と示して見せてくれた世界で最初の科学者なのではないか、と私は想う。

同氏は、その著書の中では、自然界も人間社会も本質的には共に熱化学機関として捉えられるとした上で、自然環境や人間社会の蘇生のさせ方ないしは持続のさせ方を物理学的立場からきわめて説得力ある形で、しかも簡潔に説いてくれている。そしてその「エントロピー的観点からすると、自然界も人間社会も本質的には共に熱化学機関として捉えられる」とする考え方は、私が本書の中で提案している生命主義(後述)に基づく持続可能な国家、それも統治体制の上で本物の国家を実現させる上で備えられるべきと考える政治的かつ社会的仕組みのありようを考える上で、どんなに有益だったか知れないのである。

 

ところで私は、人類の存続を可能にしてくれる、あるいは存続を保障してくれる原理には、もう1つあると私は考えている。それが先に触れた生物多様性の原理》である。

もっともそれも、地球上におけるエントロピーの総排出量がエントロピー発生の原理》が教える総量を超えた状態にしたままであったなら、やがて生物多様性の維持も不可能となるだろうから、そういう意味では、エントロピー発生の原理》こそが人類の存続可能な条件を一番根本のところで明示してくれる原理ということになるのである。しかし、それだけではやはり人類の存続を保障することにはならないので、そういう意味でエントロピー発生の原理》と《生物多様性の原理》とが両者備わって初めて人類存続可能条件となるのである。

ではその「生物多様性」とは何か。なぜそれが人類の存続を可能にしてくれるほどの条件の1つとなりうるのか。

それは次のように考えることによって理解できるのではないだろうか。

そもそも人類が地球上に誕生したとき、地球上には一体どれほどの数の生物種が生存していたのか、そして人の暮らし方が大きく変化するようになったきっかけとなった産業革命が起こった時、その数はどうであったのか、もちろんそれぞれの正確な数など判ってはいなかっただろうとは思うが、少なくとも次のことは何人も真理として認めざるを得ないのではないだろうか。

地球上に大小無数に存在している「生態系」の中では、C.ダーウインが見出したように、その生態系が形作る環境に適応し得た生物どうしで、いつでも、互いに「喰って、喰われて」という関係を維持している。そしてそれは、そこに介在している生物の種の数とそれぞれの種に属する個体数が十二分であれば、ちょうど円卓会議のように、どこが端でどこが終わりなのか判らないままに、食物循環についての閉じた環を構成し続けられる。そしてその場合、そのそれぞれの環を構成する一つひとつの要素である生物種の間の関係は、上もなく下もなく、また強者もなく弱者もなく、互いに平等なのだ。

あらゆる生物種のそうしたつながりに対して、一見その閉じた環の外にあって独立して君臨しているかのように思い込んでいるヒトも、所詮、生物種の1つである以上、その閉じた環の中のいずれかの生物種をつまみ食いしなくては生きられないのである。

あらゆる生物種は互いにそうした閉じた環を構成しながら特定の生態系の中で生きているのであるが、その場合、生物種Aが喰っていた隣の生物種Bが、ある時、何らかの理由で突如絶滅していなくなったなら、Bを食って生きていたAもその直後には生きられなくなる。Bがいなくなったことによる新しい環境に適応できる時間は少なすぎるからだ。そしてそのAが生きられなくなれば、それまでそのAを喰って生きていた環の中の隣の生物種も、たちまち生きられなくなる。一旦そのような連鎖現象が環の中のどこかの一部でも始まれば、後はそれこそドミノ倒しのように、そこから一気に、環を構成していた生物種群の消滅が加速度的に進むことになる。

つまり、つい最近まで「万物の霊長」などと思い上がって、文明の力を借りて自然界に対して勝手放題を重ねて来たヒトではあるが、何のことはない、生態系の中に環を構成して生きる他生物がいなくなれば、自動的にヒトという生物種も絶滅するのだ。

ヒトという生物種は、他の生物が多様に生きることで生かされて来たのだし、その状況はITだAIだなどと、どんなに文明が進んだ今日でも少しも変わってはいない。つまり生物多様性の原理》とはそのことを言い表しているのである。

人類は、今も昔も、決して単独・自力・独力で生きて来たわけでもなければ、生きてこられたわけでもない。むしろ、多様な他生物によって生かされて来たのだ。

考えてもみよう。私たちが日々口にして生きる糧としているものは、一つの例外もなく、全て、それぞれが命を持った他生物なのである。米、野菜、肉、魚、海藻類、果物、・・・・。

そして私たちは、それらの種類が豊富であればあるほど、その状態を「豊かだ」と呼んできたのである。

つまり多様性が維持されていればいるほど、自然界は「豊か」になり、私たちの食生活も「豊か」になるのである。

そもそも「生物」とは、学問的にどのように定義されるのかは私にはよく判らないが、しかし、今日、人類が直面しているこの、多様な生物種の存続の危機に対しては、どれが生物に属し、どれが属していないかということは本質的な問題ではない。それが生物と定義されようがされまいが、そしてそれらのうちのどれが自然界にあってどのような位置を占め、どのような役割を果たしているかということが人間に判っていようがいまいが、そんなこととは全く無関係に、どの一つも、自然界を構成する一員として、掛け替えのない位置を占めると同時に、かけがえのない役割を果たしているであろうことは間違いないのである————そういう意味でも、自然界や社会にあって、無用な命など一つもない、と言えるのではないか————。

そして次のことも真理として受け入れられるであろう。

それは、生態系の中で生物の種の数が多く、そしてその各種に属する個体数が多ければ多いほど、その生態系は安定して存在しているということになるということであるし、逆に、生物の種の数が少なくなればなるほど、そしてその種に属する個体数が少なくなればなるほど、その生態系は不安定で脆弱である、と。

つまり生物の種の数が少なくなればなるほど、そしてその種に属する個体数が少なくなればなるほど、内外からの少しの撹乱に対して耐性は乏しくなり、復元力も弱くなる。反対に、生態系が安定な状態であれば、少しぐらい個体数が減ったところで、その生態系内部での「喰って喰われて」という関係は少々のことでは崩れることはないし、崩れかかってもすぐに復元されるのである。

結局、そうやって、生態系がかつての安定した状態から不安定状態へと移行してゆけば、やがては、それらの関係を外から眺めながら生殺与奪の権を握って来たと思い上がっている人類も、自ら生存不可能な事態を招き寄せることになる。

このように生物多様性の原理とは、「自分は生物の一種に過ぎない、生物種のつくる枠組みからはみ出すことは所詮できないのだ」と認識できる人ならば誰もが判る、ごく当たり前のことを言っているに過ぎない真理なのである。そしてそれは、人間の都合では絶対に変更できない、そして証明の必要を要しない自然界の理であり掟なのである。だから原理なのだ(「原理」については、5.1節の再定義を参照)

 

ではどうして生物多様性が消滅して来ているのか。

私は、農業を実際にやっていて確信を持って言うのであるが、そうなる最大の原因は陸上での化学合成農薬の広域での大量散布と、自然界における生物相互間での多様性や共生そして循環を考えずに行われる「開発」という名の破壊行為であろうと思う。つまり彼らが生きられないようにし、また彼らの住処を破壊してしまうためだ。

実際、私の周辺でも、幼少の頃、ごく身近に見られた昆虫や野鳥の種類や、それらの個体数も明らかに激減している。それに、20年前に農業をはじめたときと比べても、今、目に見えて種類も数も減少していることを気付かされる。とにかく、私の周辺でも、農業者のほとんどは、営農に当たり、日々、当たり前のように農薬を散布しているのだ。

もちろん、中には、生物種間の均衡が崩れた結果、あるいはある種の生物種にとっては天敵がいなくなった結果、特定の種の個体数だけが異常繁殖しているという現象も見られる。私の身の回りで生じているその典型が、カラスであり、シカであり、イノシシである。

しかしそれも、結局のところ、生物の多様性が衰えてきていることによる現象なのではないか。

次いで抗生物質を含む化学薬品と化学合成洗剤、人の食べる食品中に添加される合成保存料や着色料と化学合成物質であり、原子力発電所から漏れ出る核廃棄物・核汚染物質なのではないか、と思っている———本当はこうしたことの実態をこそ、日本の環境汚染や破壊を訴える科学者は、せめて日本国内については、手分けして協力し合い、体系的かつ総合的に調査し検討し、明らかにすべきなのではないか———

とにかくそれらは下水を通じ、河川を通じて、周囲の土壌中に拡散しながら最後は海に注ぎ込む。そして海に注ぎ込んだそれらは、海流や潮流によって広域に広がると同時に、海面が太陽熱で暖められることによって深さ方向にも海中を循環して、最終的には地球表面全体を覆い巡ることになる。

しかも化学薬品や核物質はあらゆる生命体に対して、遺伝を通じて奇形等を生みながら、何世代にも影響を及ぼす。

今、人の世界にはさまざまなアレルギー症状や癌が多発し、認知症アルツハイマー、その他、今のところ対処の仕方を見出せないいわゆる難病を発症する人も多くなっているのも、私はこれらの環境汚染物質の複合的な効果であろうと推測する。

実際、国連の会議「IPBES(イプベス)」は、既に680種の脊椎動物が絶滅したとし、保全の取り組みが世界で進まぬ場合、今後数十年間で100万種の動植物が絶滅の危機にある、と世界に向って警告を発しているのである(2019年5月7日)。

実はこの辺のことを世界で最初に実証的に明らかに、こうなることを予測したのがアメリカの発生遺伝学者で海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンだ。彼女は、既に1960年代に、その著書『沈黙の春(青樹簗一訳 新潮社)で世界に警告を発していたのである。

人の寿命が延びたからそうした現象が目立つようになって来たのだとする向きもあるが、そして確かにそうした見方も成り立つかもしれないが、それは主たる理由ではないどころか、ほんの小さな理由でしかない、と私は考える。圧倒的な理由は、やはり近代化学という学問の成果に基いて合成された、自然界には存在していなかった物質だと考える。

既述のように、私たちが日々口にして生きる糧としているものは、一つの例外もなく、全て、それぞれが命を持った他生物であり、そしてそうした食生活を人類は、その誕生以来、少しも変わることなくつい近代の初期、すなわち近代化学が生み出されるまで続けてきたのだ。つまり、その全ては、もともと自然界に存在していたものばかりだ。ヒトは、それぞれ、それで頑健な肉体を作り、また維持し得てきたのである。

そう考えれば直ちにわかるように、化学によって合成され創り出された物質というのは、もともと自然界には存在していなかったものであるだけに、それは、あらゆる生命体にとっては、例外なく異物でしかないのである。

であれば、あらゆる生命体は、その異物から身を守るために、あるいはその異物の持つ元々の体とは調和し得ない性質(毒性)に耐えられるように肉体は変化せざるを得ない。生き抜くために、である。それが偶然の産物である「変異」ということなのであろう。その変異がその種にとって自然の中で適応できなければ淘汰されるし、生存競争の上で有利に働いた場合には、その変異は次世代に引き継がれ、やがてそれが固定化されて別の種が作られてゆくということになる。そしてそのことこそがダーウインが「種の起源」で明らかにしている進化論の主眼とするところなのである長谷川眞理子「100分de名著『ダーウイン種の起源NHKテレビテキスト2015年8月号」p.51)

つまり、アレルギー症状、癌、認知症アルツハイマー、その他の難病等々は、そうした様々な異物が摂取されたことに対する、あるいはそれらの複合的影響に対する生命体の反応として現れた、現象としての人間の変異の姿なのではないか、と私は思うわけである。

 

生物多様性が崩壊して来ている背景には、もう一つ大きな理由があると私は考えている。

それは私たち人間の側の他生物に対する接し方だ。

結論から言えば、それは、日本人について言えば、その大多数が今もなお、草や身近な小魚やテントウムシやスズメなどを“雑草”、“雑魚(ザコ)”、“害虫”、“害鳥”と無意識に呼び、それらを目の敵にして、排除しようとするその姿そのものに象徴されている。

その一方では、生物多様性の意味をきちんと考えもせず、国連という権威ある機関の言い方をただ真似して「絶滅危惧種」などという表現をして、特定の種だけの保存にこだわったり、ペットだけは自分の分身ででもあるかのように溺愛したりしている姿に象徴されている。

つまり、人の側の、あくまでも自分の価値観や主観に基づいて他生物を見、接するその姿こそ、私は、地球上の生物多様性を消滅させているもう一つの根源的原因なのではないか、と見るのである。

そもそも、近代の幕開けとなった市民革命に立ち上がった当時の人々でさえ、彼等が訴えたスローガンはあくまでも「市民の」 “自由・平等・友愛”であって、その彼らの視野の中には他生物はいなかった。

 

ここまで、私は、人類の存続を脅かす最大要因と考えられるものとして、地球温暖化生物多様性の消滅について言及して来たが、現状を見回してみるに、今のところ、「COP(気候変動に関する国連の締約国会議)」だけが回数が重ねられていることに象徴されるように、表立っては、温暖化とその阻止ということだけが全世界の関心を集めているように見える。

それは、気候変動も異常気象も、そしてそれによる影響や被害が、誰の目にもはっきりと見えるまでになって来たからであろう。

その反面、生物多様性が崩れていることにはあまり衆目が集まらない。警告しているのは、特定の科学者だけのようだ。

そうなるのは、その現象が目に見えにくいし、今のところこれといった不都合な事態が人類の目先に現れていないからかもしれない。

しかし世界の人々がこの生物多様性の崩壊を食い止めるためのこれといった有効で思い切った手を何も打たなかったなら、絶滅危惧種どころか、絶滅する種が今、加速度的に増えて来ているという実態が示すように、それはある時から加速度的というより爆発的に進行するのではないか。その理由は既述した通りである。

そうなれば、人類がこれはマズイと気づいたときにはもはや万事休すという事態になっている可能性が高い。しかもそのときには、温室効果ガスの場合ならばその排出を人間の側の「我慢」とか「辛抱」で何とかブレーキをかけることもできるかも知れないが、生物多様性の崩壊の方は止めようがないのである。

そう考えると、人類が生きられなくなるという事態は、温暖化によるよりも生物多様性の消滅という事態に因って、早く現実化するかも知れないのである。

 

こうしたことから人類の存続を可能とさせる条件とは、大きくいえば、核戦争を起こさせないことと同時に、温暖化を阻止出来る条件と、生物多様性の崩壊をこれ以上進ませないための条件であることがわかる。

温暖化を阻止できる条件は次節で考えるとして、生物多様性の崩壊をこれ以上進ませないための条件とは既に明らかであろう。これまで述べてきた「化学」がもたらす近代文明のあり方に急ブレーキをかけながら、それに取って代わりうる文明と文化のありようを探ること、となる。そしてそれは、原油あるいは石油に依存する文明から脱却することと軌を一にするはずである。

とにかく石油に基づく化学合成農薬、化学合成薬品、抗生物質、プラスティックに代表される化学合成物質は本質的に生物の生存とは、すなわち生態系とは相容れないのだ。

したがって、それらの製造については、人間の暮らしにどうしても必要な道具や資材をつくらねばならない場合に限定する、そしてその管理や廃棄の方法は厳格に規制する、というようにすべきなのではないだろうか。

なぜなら、どんな物でもそうであるが、社会の中に留まっているならともかく、一旦自然界に拡散させてしまったなら、科学と技術がどんなに進歩しても、それをすべて回収することは、絶対に不可能だからだ。そしてそれらは、生態系を汚染し、また破壊もしながら、やがて必ず、姿や形を変えて、人間社会に巡り戻ってくるからだ。

実際、例えば、世界から吐き出され、最終的に海に流れ込んだ膨大な量のプラスティックは、今、海で「マイクロプラスティック」化して、あるものは海洋生物に摂取され、またあるものはバクテリアに分解され、大規模な食物循環の環の中を循環し始めているのであるNHKBS1世界のドキュメンタリー「海に消えたプラスティック」2017年10月20日)。そしてそれは当然ながら、既に人間の胃袋に入り始めているのであるNHKBS1世界のドキュメンタリー「        」2018年  月  日

「開発」という名の総合的計画に基づかない自然破壊行為ももう直ちに止めると同時に、私は、もう「開発」の概念そのものをも根本から再検討する必要があるとも考える(4.1節の「これからの開発」の定義参照)

なお、こうしたことを実現できるようにするには、現行の資本主義あるいは市場原理主義をそのままにしておいたのでは本質的に不可能なため、「経済」という概念も、この際、同時並行的に根本から再検討し、新しい概念に転換することが不可欠となっているのではないか、とも私は考える。

本書の別の章(第11章)にて「新しい経済」の概念を打ち立てるのは、そうした動機に基づくのである。

 

なお、本節を終えるに当たり、核兵器について、ほんの一言だけ言及してみようと思う。

核の拡散を抑える根拠と共に、核兵器保有国どうしで協力して同時に全面廃棄する必要性の根拠は、次の真理と真実に基づけば、中学生や高校生でも判るのではないだろうか。

それは、核兵器一発の持っている破壊力の大きさを考えれば、それはどちらが何発の弾頭を所有しているかはもはやさほど重要なことではなく、また先制攻撃するか否かもさほど重要なことではなく、たとえ偶発的にでも、一発でも対立する両者のどちらかが敵対する相手に発射してしまったなら、必ず報復攻撃を受けることになり、結局双方の国民が壊滅的事態を被ることになる、という必然性である。つまり「相手に使わせないために、こちらも持つ」とする核抑止論も、「核の傘の下に入ることに拠る国土防衛」という考え方も、もっと広く言えば、「核に拠る抑止力」あるいは核戦略理論そのものが最初から破綻しているからである。ひとたび核戦争になれば、どちらが先制攻撃したところで、どちらがどれほど大量に核兵器保有していたところで、勝者はいないことははっきりしているのだ(豊田利幸「核戦略批判」と「新・核戦略批判」共に岩波新書。それだけに、そうした考え方にしがみつくことは、かえってそれぞれの政府が、自国国民と国そのものを、破局の淵に陥れることにしかならないのだ。

もう1つは、私たち人類が「裸の状態」でも生きることができるのは、宇宙広しといえども、またどんなに宇宙開発が進んだとしても、奇跡とも言えるこの「水の惑星」でしかないという真実である。

それについては、暗殺されたケネディが、生前、全人類にすでにこう訴えていた。

ソ連への対応を省みましょう。

両国には悲しい溝がある。

違いを認め合えば多様な人々が共存できるはず。

突き詰めれば、我々は皆、この小さな惑星で暮らし、同じ空気を吸って生き、子の幸せを願

い、いつか死にゆく限りある命なのです。”

 

(「オリバー・ストーンが語るもう1つのアメリカ史」、第6回)

とにかく、核戦争は、ヒトを含む「生物多様性の保護」はもちろん、地球温暖化を阻止しようとの世界の人々の努力をも瞬時に無意味化させてしまうのである。

核の拡散を抑えると共に、それ以前に核兵器を全面廃棄させる必要の根拠がここにあるのである。

それに、第一次大戦や第二次大戦のような大戦はもちろん、国家間の戦争も、もはやほとんどそれをする意味はなくなっている、と私は考える。

それは、戦争をしてどちらが勝っても負けても、そしてたとえ領土を拡張し得たところで、国民にもたらす不幸な事態や両国国民同士の憎しみ合いからくる代償はあまりにも大きいというだけではなく、領土の拡張自体がかつてのような意味を持ちえなくなっているからだ。

原油や石油が文明を支えていた時代ならいざ知らず、温室効果ガスの大量発生やその拡散によって温暖化が進み、また石油に基づく化学合成物質の大量使用とその廃棄によって生物多様性が急速に消滅しつつある今、人類にとってはもちろん、原油や石油のそれぞれの国にとっての価値もどんどんなくなっているのだからだ。むしろこれからは、どこにでもある太陽エネルギーに基づく自然エネルギーの有効活用こそがその国と国民の暮らしを支えてゆくことになるだろうからだ。