LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

16.4 私案としての新憲法の「前文」

 

16.4 私案としての新憲法の「前文」

 私たち日本国民が自身の手で憲法をつくろうとするとき、予め確認し、また考慮しなくてはならないと私には思われる事柄については前節にて述べた。

 そこで次は、いよいよそのとき確認した事柄を簡潔明瞭に盛り込んだ自主憲法の草案をつくるのであるが、その本文としての条文の作成に入る前に、その憲法を読み、それを活用しようとする人のために、その憲法を制定するに当たって私たち国民はどんな思いと決意をもってこれを制定したか、そしてその憲法の全文を貫ぬいている理念とはどのようなものか、を簡潔に明らかにしておく必要がある。

 その文章がいわゆる憲法の前文と言われるものである。

 今、ここでは、私なりに考えるその前文の試案を提案してみようと思う。

その際、要点として少なくとも次の点については触れないわけにはいかないように思う。

 1つは、書き換える必要があると考えられるついこの間までの「日本国憲法」ができる前までの日本の状況についてである。とくに日本が「アジア・太平洋戦争」という侵略戦争を起し、結果、それに無条件に降伏して、GHQ憲法草案を与えられ、それを少し修正した形でこれまでの日本国憲法が成立したこと。

 1つは、そのようにして成立した日本国憲法だったが、それは、日本国民の多くの人が、自分たちの手で作ったものではなく「与えられたものである」と考えたこと。また、特に当時の文部省そしてその後継としての文科省による学校教育では、憲法というものの持つ役割をきちんと教えなかったために、国民の大多数はそれを日常生活に役立てようとはせずにきてしまったこと。さらにまた、歴代自民党政権が条文そのままを読んで適用するのではなく、自分たちに好都合な解釈を挟んでは、従来の解釈を変更するだけで改憲をしたことにしてしまったこともあること。こうした事実からも判るように、条文の表現が一義的に解釈出来ないもの、あるいは曖昧なものが多く、その結果、私たち日本国民は、いっそうのこと日本国憲法を頼ることもせず、そしてそれを日常生活における判断基準ないしは原器として充分に役立てようともしなかったこと。

 1つは、人類は既に二度までも愚かとしか言いようのない大戦を経験し、その第一次世界大戦では1000万人以上の人々が、第二次世界大戦では7000万人以上の人々が死に、日本について見るだけでもおよそ320万人もの人々が死んだ。そしてその後遺症は、今なお、様々な面に見られる。このことから判るように、戦争というものは、ひとたび起こせば、その悲惨さとその影響は、戦争中だけではなく、後々、実にさまざまなところに及んでしまうこと。

そしてもしこの次、米ロ間あるいは米中間を中心に偶発的にでも戦争になれば、それは互いに核兵器を大量に保有する大国同士の戦争なために間違いなく第三次世界大戦に発展してしまい、そうなれば地球の自然を壊滅させながら、これまで人類が築いてきた文明を消滅させるとともに人類自身をも滅ぼしてしまうこと。

1つは、今後、科学がどれほど進歩しようとも、そして宇宙がいかに広く、いかに無数の星々があろうとも、日本を含む世界の国々の人々が、裸で、のどかに生きることができるのは、奇跡の星、水の惑星であるこの地球しかないこと。

そしてもう1つは、ここで提案する新憲法は、もはや世界のこれまでの資本主義経済とそのシステムを支配的経済システムとしてきた「近代」という時代を止揚して、まったく新しい時代に突入しているという時代認識を前提としているものであること。

その時代認識とは、世界の誰もが裸で、のどかに生きることができる地球とその自然こそが人類全体の至上の価値であると認識しながら、近代市民・人間のためだけの「自由・平等・友愛」を超えて、生命一般の「多様性・共生・循環」を実現させ、またそれに基づく経済システムを実現させることこそが私たち人類を真に存続可能とさせるものである、そしてそう確信して生きることこそが人類共通の至上の大義にそう生き方であるというものである。

 そこで以上の諸認識に基づいて、日本国新憲法の「前文」は次のようになるのではないか、と私には思われるのである。—————————

『 日本は、その歴史の中で、大いなる恩恵を受けて来た中国や朝鮮をはじめ、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイ、ビルマ(現在のミャンマー)の国々に対しても、合計およそ2000万人以上の人々には、当時の軍国主義の日本の起こした資源確保・労働力確保・領土拡大のための戦略戦争によって、殺戮、虐殺、凌辱、拷問、迫害等、人間として耐え難い苦痛と屈辱を与え、またその尊厳を傷つけてきてしまった。

その総数は、この戦争で死んだ日本人のおよそ320万人、そして広島・長崎に投下された原爆によって亡くなった今日までの総数43万人(厚生労働省に2014.1.17に確認済みの数字)の比ではない。

 その結果日本は、アメリカによる原子爆弾投下とそれに続くソ連軍の侵攻により、無条件降伏を余儀なくされ、戦争は終った。

 これまでの近代という時代は、人類のおよそ500万年の歴史の中で、何もかもがとくに急激に変化した時代だった。その変化を可能としたのは、知性に拠る科学の力だった。

 その直接的きっかけは産業革命だった。

産業革命は、その後資本主義を高度に発達させた。そしてその資本主義経済は、恐慌やバブルを繰り返させた。その間、社会主義の誕生を促したが、それも今や消滅したかに見える。その結果資本主義は、グローバリゼーションとネオ・リベラリズムの拡大の中、一見、世界の支配的経済体制となったかには見えたが、結局それは、人類全体に三つの大きな課題を残した。

 1つは、地球規模の温暖化とその激化を招き、他生命の絶滅と生物多様性の消滅を招き、人類自身の存続の危機を招いてしまったこと。1つは、世界中で分断をもたらし、貧富の格差を拡大し、世界の至る所で国家間の対立、宗教対立、民族間対立、部族間対立を呼び起こし、テロリズムを蔓延させ、大量の政治難民経済難民さらには環境難民を生み出してしまったことである。

 3つ目は、さらにはそうした状況下、国家間の利害の対立の中で、核兵器の開発と拡散も押さえようもなく続いており、偶発的な核戦争の危機がキューバ危機、あるいは1973年時以上に高まっている。

 一方、近代の幕開けとなったのはフランス大革命に代表される市民革命であったが、そのスローガンは「自由・平等・友愛」として世界によく知られている。

 しかしその自由も、平等も、そしてそれらの権利に基づく民主主義自体も、これを超える政治体制はないだろうと言われて来ながらも、今、どの国でも揺らいでいる。

 こうした状況を念頭において人類史を改めて俯瞰してみるならば、もはや一つの国、一つの民族、一つの人種、一つの地域の価値や利益を主張したり、一つの宗教、一つの文化の価値を主張したりすることには既に意味がないことが明らかになる。「自国ファースト」に拘ることなど論外である。同様に、資源をより多く確保することに拘り、領土の新たな獲得に拘り、自らの経済圏の拡大に拘り、軍事同盟の拡大強化に拘ることにも、それによって生じる摩擦や対立を思えば、もはやほとんど意味がないことも明らかになる。

 と言うより、もはやそんなことに拘っていられる時間的余裕と環境的容量すらこの私たち人類にはないのだ。人類全体の価値であるはずの地球とその自然が壊れかけ、その地球は今、人が裸で、のどかに生きることができる状態ではなくなりつつあるからだ。

 そのため、今や、私たち日本国民は、もはや資本主義が支配的だった「近代」という時代は終わり、まったく新しい時代に突入しているという時代認識を持つ必要がある。

それは「資本の論理」を超え、市民中心の「民主主義」をも超えた「生命主義」という認識である。言い換えれば、それは、国の違いを超え、民族の違いを超え、人種の違いを超え、また宗教の違いをも超え、さらには地球上の限りある資源を分かち合い、多様な他生物との循環と共存を実現させなければならないとする時代認識である。

そう考えなくてはならないとするのは、もはや、従来型の競争と価値の実現に拘る経済の発展の先には、人の人間としての真の幸せも、人類が存続しうる未来もないと考えられるからである。

 今、私たち日本国民は、そうした時代認識に基づいた生き方こそが、「地球人類全体の意志」に沿う道、全人類に忠誠を誓う生き方である、と確信するのである。

 私たち人類が裸でのどかに生きることができるのは、宇宙がどんなに広いといえど、宇宙にはどんなに無数の星があろうといえども、水の惑星であり、奇跡の星であるとされるこの地球しかないのである。

 わが国は、核兵器が使われてその悲惨さと恐怖を実際に味わった唯一の国である。

 その教訓を生かしながら、また以上の論拠に基づき、私たち日本国民は、「人類共通の至上の価値」である地球の自然を最大限に大切にし、またそれによって生かされながら、「人類共通の至上の大義」に沿って生きてはそれを世界に先駆けて実践し、世界から真に信頼され尊敬される、思想と実践における真の先進国になりたいと思う。