LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.4 都市および集落の三種の原則

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 前節の「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」に続いて、今回公開する以下の節の内容も、今、地球温暖化の危機そして生物多様性の消滅の危機に直面している私たち地球人類にとって、その危機を克服するためというだけではなく、私たち一人ひとりが、本当の意味で人間として、それも未来永劫、持続的に生きてゆくことができるようになるためには、今、少なくともこのくらいのことも、きちんと考えておく必要があるのではないか、と、私は考えるものです。

これも、拙著のタイトルであり、全体原稿を貫く主旨でもある「持続可能な未来、こう築く」の「目次」(2020年8月3日公開済み)の中に位置付けてお読みいただければ幸いです。

 

4.4 都市および集落の三種の原則

 すでに突入してしまっていると私には思われる環境時代においても、集落あるいは都市は、人々が互いに人間として、共に生き、共に暮らして行く共同体であることに変わりはない。しかしそこでの都市づくりそして集落づくりは、もはやこれまでこの日本の政府がとって来た、自然を無視し伝統の文化を無視または軽視しては「果てしなき経済発展」なる暗黙の国策を最優先する無秩序な建設の仕方ではなく、前節で明らかにした「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を踏まえながら、「三種の指導原理」が実現された場でなくてはならないのである。

しかし、とくに人間の集住する場としての集落や都市は、さらに次の原則も実現されていなくてはならないと私は考える。

 それはやはり三つの原則からなり、①小規模で、かつ分散していなくてはならないという原則、②経済が自立していなくてはならないという原則、③政治的にも自決できていなくてはならないというものである。

こうした原則がともに実現されてこそ、都市や集落でも三種の指導原理は実現されやすくなるからである。そこで、これら三つの原則からなるものを今後は三種の指導原則と呼ぶことにする。当然ながら、三種の指導原則は、三種の指導原理が成り立った上で成り立たせられるものである。

 なぜなら、もしこうした階層関係を考慮せずに都市あるいは集落を建設していったなら、早晩、都市や集落には必ず様々な矛盾やら不具合が生じてきて、そこは人間が持続的に住み続けるには不都合で不適切な空間となってしまうであろうからである。

つまり、ここでも、三種の指導原則と三種の指導原理との間には階層性が成り立っているのである(「原理」と「原則」の定義については、4.1節を参照)。

 では、なぜこれからの環境時代の都市と集落は先の三原則を満たさねばならないと私は考えるか。以下がその理由である。

(1)「小規模」で、かつ「分散」していなくてはならない理由

 まず「小規模」でなくてはならない理由は少なくとも5つはある、と私は考える。

1つ目は、その都市も集落も、そこが集まり住む人々の共同体である以上、住人の一人ひとりがそこの主人公として、自分たちの共同体を自分たちで責任をもって運営できる規模でなくてはならないからである。大規模であったならそれは不可能になる。

つまり住民の一人ひとりがそこの主人公として責任の持てる規模であってこそ、その共同体は、自分たちのことは自分たちで責任を持って決められ実行できる本物の「自治体」となりうるのである。その点、この国の現状はどこの都市も集落も、とても「自治体」とは言えない。住民は地方行政府に依存しているし、地方行政府は中央行政府の(官僚の)言いなりだ。そういう意味では、現行の地方公共団体の実態は自治体どころか従属体でしかない。

 もはやこれからは、都市も集落も、その運営に関しては、“誰かが適当に管理・運営してくれるだろう”、といった他力本願で、「あなた任せ」の姿勢では済まないのだ。それは、もう、行政には金もなく、人間もいないからではない。共同体の一人ひとりは、都市ないしは集落の共同経営者であり、したがって主人公、すなわち主権者なのだからだ。そこでは、自分たちの住む場は自分たちが自分たちの責任において物事を決め、維持・管理して行くのである。それは、自分たちの運命は自分たちで決めるということでもある。

 そのためには、どうしても、住民自身の運営能力と責任能力を超えるような規模であってはならない。超えたら、それだけ無関心な者が出てくる。無責任な者が出てくる。他人任せの者が出てくる。

 むしろ小規模となって初めて、人々は互いの顔を知り得、互いに接触する機会が増える。そのとき、互いに本音で語るようになれば、それだけ互いに理解できるようになり、信頼感も湧き、また強まる。またそうなれば、それだけに周りの人がどういう悩みや苦しみを抱えているかが相互に見えるようになる。そうなれば、互いに支え合う空気も生まれ、互いに孤立することはなくなり、強固な絆で結ばれた強固な共同体となるだろう。

 そして小規模であれば、政治家一人ひとりの挙動も住民には眼に見えるようになるから、政治家も住民の要望をきめ細かく的確に捉えなくてはならなくなり、それを受けた議会活動も迅速になり、住民の要望を容れた政策として決められるようになる。そうなれば、議会が決めたそれを受けて、行政府もそれを速やかに執行しなくてはならなくなる。

 つまり、議会と行政府の相互のあり方は、これまでのように役人主導による行政主導ではなく、住民主導の代議政治が本来の形で行われ、本来の民主主義議会政治が実現されてゆくのである。そしてその過程で、住民一人ひとりは本物の「市民」となり、さらには「新しい市民」もどんどん育って行くようにもなるだろう。

 小規模でなくてはならない2つ目の理由は、小規模化すればとにかく何事も小回りも利く、ということである。

 共同体の人々の暮らしに共通して関係のある何かが起これば、すぐにも、みんなで共同して対応しうるようになる。みんなで話し合って、みんなで方針を決め、決めた方針に従ってみんなで行動して行くのである。

 これを納税と徴税との関係で見た場合、これまでは、毎年、その年の事業の計画も内容も定まらないうちから、機械的に行政府の徴税部署によって徴税されていたが、小規模化すれば、必ずしも単年度毎の納税や徴税ということに拘る必要はなくなり、みんなで今年どんな事業をするか決めた上で、徴収すべき総額を決められるようになるだろうし、納税する側も、自分の金が何に使われるかが事前にはっきりするから、納得して納めやすくもなるのである。

 税金の使い方も、これまでのように、単年度の予算を余らせないようにしようとして、行政府が不要不急の事業をあえて興しては使ってしまうという、各部署の既得権を維持するためだけの無意味で無駄な使い方はもうしないで済むようになる。むしろそのような余ったカネは速やかに住民に返還もできるし、あるいはみんなの了解の上で、これまでの借金の返済に充てたり、あるいはまさかの時のために蓄えることもできるようになるのである。

 つまり、都市や集落が小規模になれば、お金の面でも融通の利いた小回りができるようになるのである。

 またそうであれば、全住民が必要とする食糧(米、小麦、大豆、そば、その他必要な野菜すべて)もエネルギーも自分たちの力で確保しやすくなる(第11章の経済を参照)。

それらの年間の必要総量を人口構成から割り出して、それらを、各役割を決めて、住民も援助するという形態をとって、計画的に生産するということも可能となるのである。

 そうなれば、今日、世界を支配しているグローバリゼーションや、世界の食糧事情やエネルギー事情に振り回されずに済むようになる。

 とくに食糧については、余ったなら、それを近隣の共同体あるいは飢餓に苦しむ世界の人々に送るということも、全住民の合意さえ取り付けられれば、いつでも可能となる。

それ自体、立派な国際貢献となるであろう。そしてそれはそのまま、自分たちの地域の安全保障にもなるのである。そしてそれは、それだけ自分たちの地域としての意見や考えを、臆することなく、中央の政府に主張できるようになるということでもある。

 小規模でなくてはならない3つ目の理由は、その規模を小規模化すればするほど、そこでの建造物はもちろん、いわゆるライフラインといった社会資本もすべても小規模化でき、それだけ地中に設けられる基礎構造の規模も小規模化できて作動物質の循環を妨げる度合いは格段に減ると同時に、廃熱や廃物の量も、格段に減らせるようになるからである。それは同時に、そこに住む人々にとっては、都市や集落の空間は、これまでの超々高層ビルや超高層ビルが林立する巨大都市がそうであったような、そこに住む人々に威圧感やストレスをもたらす空間ではなくなる。建築物は、特別なものを除くすべてを地元産の木材からなる木造とすることができるようになるだろうし、その高さは樹木の高さを超えることはないようにすることもできる。都市を構成するシステムも、その他のあらゆる社会システムも、すべて等身大のシステムとすることができる。そうなると、たとえそのどこかで故障を生じても、オートメーションシステムによって作られた製品がそうであったような全取っ替えすることなく、その場で技術者の手で修復できるようになる。それは、それだけ資源の無駄遣いを抑えられることだ。そして建築物の周囲には、緑地帯が広がり、そこには、小動物や昆虫類や鳥類その他の多様な生き物たちも共生し、それはそれで住む人々に安らぎと癒しをもたらしてくれるのである。

 また、小規模となれば、その共同体社会では、「資格」とか「看板」といったものも不要となる。そのようなものはなくとも、住民は、互いに、誰が何をしているか、誰が何が得意か、何は誰に頼めば安心して実現できるかを自ずと知るようになるからだ。それだけに、その集落や都市では信用・誠実というものがいっそう大切になる。またそうなれば、これまでのような、全体の調和や美観を損ね、ただ目立てばいい式の看板や旗などはまったく不要になる。設けるとしても、控えめではあるが気の利いた、見る者や歩く者の心を安らげ、そこの店主の人間味を感じさせてくれるような「看板」がふさわしいものとなる。そしてそれは、街を歩く人々の心をどんなに和ませてくれるかしれないのである。

 小規模でなくてはならない4つ目の理由は、小規模であればあるほど、生産者と消費者との距離、売り手と買い手との間の距離が縮まり、それだけ両者間での移動と運搬の距離も縮まり、エネルギー消費量も減るのである。それは、これまで当たり前のように言われてきた“田舎では、車がなくては生活できない、車は必需品なのだ”を、昔の観念とさせることを意味する。つまり、特別な場合を除いては、その共同体内では、マイカーは必要ではなくなるのである。

そこでの人々の往来は基本的には徒歩あるいは自転車によるものとなり、あるいは公共交通乗り物か馬車によるものとなる。したがってそれまでの自動車のための道路は解体され、元の生態系に戻され、分断された自然がそれだけ回復して行くのである。

 車が不要になることの効果はそれだけにとどまらない。これまでの都市や集落は、当然のごとくに車中心の社会構造とするために、結果として、特に都市は無計画で、かつ無秩序に拡大して行った。それがどれだけ都市の静けさを失わせると同時に空気を汚し、交通事故死者数を増やし、人々にストレスをもたらしてきたことか。どれだけの回数、コンクリートまたはアスファルトの路面をはがしてはそれを時には不法投棄をするということをも繰り返して遠方に運び、代わりに遠くの自然を壊してはそこの土を運び込むということを繰り返しては化石資源の浪費と大気の汚染を進め、それをもってGDPやGNPという数値を増やしては「経済発展を遂げてきた」としてきたことか。そしてその結果、どれだけ他生物の生息域は分断され、田畑や自然が失われてきたことか。

 小規模化された集落や都市では、車中心の街ではなく、人間中心の街、弱者中心の街、歩く人間中心の街となるのである。もちろん、そこでは、「交通安全週間」など過去のものとなる。「交通事故死」についてもである。

 なお、一つの集落ないしは都市と、他の集落ないしは都市との間の行き来の手段については、後述する(第13章)。

 小規模でなくてはならない5つ目の理由。

 実はこの理由こそが、今日、全地球的デジタル監視社会に生きている私たちにとっては、今後は、最も重要な意味を持ってくるものかもしれない。というのは、とくにアメリカ政府内のNSA国家安全保障局)を中心とした高速デジタル通信システムは、一人ひとりは知らないうちに、そのプライバシーを丸裸にしてしまっているという現実があるからだ。

 そもそもそれぞれの都市が拡大するとともに、それらが互いに密接につながり合えば合うほど、統治する政府の側としては、治安の維持、安全の維持のためには、高速で広域のデジタル監視がどうしても必要となってくる。

しかし、いつも互いに顔と顔を合わせ、行きちがい、また交流する集落や小規模化された都市では、そんな高速デジタル通信システムそのものが不要となる。従来のアナログ通信システムで十分に対応できるからだ。

というより、そこでは、もはや政府による「統治」という概念そのものもそれほど意味をなさなくなる。したがってまた「監視」するという必要性もなくなる。むしろ小規模になればなるほど、そこの人々は、互いに支え合い、協力し合い、絆の深い共同体が形成されて行くようになると期待できるのである。なぜなら、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」のだからだ(E・F・シューマッハー「スモールイズ ビューティフル」講談社学術文庫p.97)。そしてそこでは、人々は、自分にも他者にも、そして自然に対しても誠実で思いやりのある生き方を自然とするようになるとも期待できるのである。そうなれば、そこに住む人々にとっては「孤独死」「自殺」「終活」などはまったく無関係なものとなるだろう。

 

 では小規模といった場合、人口面で、あるいは地理的面積の面で、具体的にはどれくらいを想定したらいいのであろうか。

その点について、私見を言えば、人口面から見ると、集落であったなら、せいぜい500人、都市であったなら、せいぜい1万から2万人程度が限界であろうと思う。

また面積的規模について言うと、集落だったら、健康な大人が1〜2時間で集落の端まで歩いて行って、また戻ってこられる距離に相当する面積、都市であったなら、同じく大人が、昼間、すなわち明るい間に、歩いて端まで行って、また戻ってこられる距離に相当する面積が適切なのではないか、と私は考える。

 面積についてそう考える根拠は、1つは、前提として、自動車がなくても生活できる面積的規模であること。1つは、集落あるいは都市に、人々の暮らしを妨げる、あるいは危機をもたらす重大な出来事が生じ、しかも、一切の通信手段が使えなくなったりしたとき、同じくあるいは、誰であれ、その人にとって、同じく重大な出来事が発生して、しかも誰かに連絡したり、あるいは助けを求めたりしなくてはならなくなったというとき、どんなに時間がかかっても、1日でそれが可能となること。

 では、ちなみに、大人一人が、それも健康な人が、1時間で集落の端まで歩いて行って、また帰ってこられる距離とはどのくらいだろうか。

それは、大人が普通に歩く速さを時速4kmとすると、集落の形状を仮に円とすれば、直径が2kmの円の大きさになる。

 また、大人一人が、日中のうちに、歩いて都市の端まで行って、また戻ってこられる距離とはどのくらいになるか。

 その場合、冬場を想定して、日中を10時間とすると、都市の形状を同じく仮に円とすれば、直径が20kmの円の大きさになる。

 ただし、小規模化するとは、ただ面積を小さくし人口を少なくするというだけではなく、集落内あるいは都市内のあらゆるモノやシステムの規模をも小規模化し、人間の体の大きさの規模や人間の本来持っている機能の規模と同程度の大きさにする、ということをも意味するのである。

 なお、以上の論理からすると、先に総務省の音頭取りで行われた「平成の大合併」は、これまで述べてきた論理にまったく逆行する事業だったということだ。

 実際、この大合併で、平成7年には3,234あった市町村が、平成25年現在は1,719の市町村へと激減した。それは、平均すれば、統合を選択することによって、1市町村当たり、人口規模はいきなりおよそ2.0倍に膨れ上がったことになる。当然そうなれば、「行政サービス」は向上するはずはない。住民は住民で、合併しても、自分たちの住む地域は自分たちが自分たちの責任において作ってゆき、管理し維持して行くという発想は一向に持とうとはせずに、相変わらず行政に依存したままだ。

 というより、もともとこの合併劇は、地方政府(市町村役場)への統治力拡大と権益の拡大を目論む総務省の官僚の思惑と、無計画なまでに無用な「箱ものづくり行政」等々を行っては巨額の借金を抱えながら自分も何かと「いい思い」をしてきた無責任な市町村の首長の思惑とが合致した結果成り立った事業でしかなかった。市町村の首長の思惑とは、合併すれば、国庫から巨額の「合併特例債」がもらえて、それまでの負債を帳消しにでき、それまでの行政責任をもうやむやにできるのではないか、という思惑だ。一方の総務省の官僚の思惑とは、総務大臣が無能で、自分たちの指示する通りに動いてくれることをいいことにして、国民の金を使って市町村を合併させては総務省既得権益を拡大し、総務省を退職してゆく先輩官僚たちの「天下り」先を拡充するための事業でしかなかったのだ。そしてその時に官僚たちが行使したのが、憲法上からも政治理論上からも彼らには決して負託などされていない権力であり、出まかせの「集積の効果による行政サービスの向上」云々という前宣伝だった。

 

 つぎに、都市や集落が「分散」していることが必要と私が考える理由についてである。

それには大きくは2つあると私は考える。

 1つは、危険を分散させるためである。

一つの都市や集落に人が多く集住すればするほど、まさかの時、犠牲者が多く出てしまう可能性が高いからである。

それを日本に限って見れば、今後、想定される「まさかの時」とは、特に大都市では、一つは何と言っても大地震であり、またそれに因って引き起こされる津波の来襲であり、あるいは高潮である。また内陸部の都市でのその「まさかの時」とは、それらの都市には、どこも、比較的大河が貫通して流れているために、上流域でのゲリラ豪雨や線状降水帯がもたらす豪雨によって引き起こされる大洪水である。

また大都市や都市あるいは集落のすべてに共通して言える「まさかの時」とは、特に感染力の強い、そして人類が未だ免疫を持っていない未知の細菌・ウイルス・真菌・寄生虫・原虫などによる感染症(伝染病)の爆発的拡散(パンデミック)だ。

 ここで少し感染症について考えてみる。

 感染症の拡大をもたらすものとして、いま、とくに怖れられている1つが、「コウモリ」によってウイルスが運ばれるとされる、2014年に出現したエボラ出血熱である。また数匹のサルやチンパンジーを介してアフリカから世界中に拡散したエイズである。また中国から発生し、コウモリなどの野生動物からヒトに感染し、空気感染によって急速に広がったSARS(サーズ)である。

 このように、21世紀の感染症のほとんどは感染源が動物となっているのである。

それも、直接感染する場合の他、蚊などによって感染する場合もある。

その典型がいわゆる「小頭症」という感染症をもたらすジカウイルスである。

このウイルスは、アフリカに出現し、長い間アフリカから外に出なかった。しかし21世紀に入って、南太平洋の島々で、ジカウイルスに因る感染症、ジカ熱が大流行したのである。そのジカウイルスは、2013年頃、ブラジルに上陸したと考えられている。

 さらに、怖れられている感染症にはインフルエンザウイルスによるインフルエンザがある。

そのウイルスについては、ヒトはどのような状態のときに、どのようにしてインフルエンザで死亡するのか、それは未だ解明できていない難問中の難問となっている。

毎年、世界中で流行するインフルエンザについては、私たちは未だ多くのことを知らない。入院する患者は、毎年およそ500万人。命を落とすのは、そのうち、毎年20万人に上る。季節性のインフルエンザも毎年起きている。

 しかし専門家が怖れているのは、ヒトがこれまでかかったことのない新型のインフルエンザである。それも空気感染するウイルスによるものだ。免疫をもつヒトがほとんどいないからだ。そしてウイルスに感染したヒトの多くは、症状に気付くまで時間がかかる。ウイルスを体内で培養しながら、病気だという自覚もないまま世界中を飛び回ることができているのである。

 2009年には、豚インフルエンザが出現した。このウイルスはアメリカの養豚業者に最初に現れ、農産物などの展示会で人に感染した。一年あまりの間に、およそ13億人が豚インフルエンザにかかった。人数の点では、人類最大の共通体験だった。感染のしやすさと死者の多さにおいて、インフルエンザは世界で最も恐ろしい感染症の1つなのだ。

 鳥インフレンザも出現している。致死性の高いこのインフルエンザは、今のところ、ヒトに感染した例はごく少数だが、野鳥や食用の鳥の間では急速に広がっている。

専門家は、これが新たな感染症の脅威になるのを怖れているのである。

 世界中の易学者のうちの大多数は言う(2006年)。“今後2、30年の間に、莫大な数の病人と死者をもたらすパンデミック(全世界的流行病)が起きるだろう”と。

 インフルエンザについてみると、1968年と同じ規模のインフルエンザが再び流行すれば、その時は、死者の数はおよそ200万人になると予想されている。1918年に流行ったときと同じ規模になれば、世界での死者の数は2億人、その数は、ドイツとイギリスとスペインの総人口に匹敵する数に及ぶだろうと(以上、NHK BS世界のドキュメンタリー 2018年2月6日「見えざる病原体」)———参考までに言えば、1939年から1945年にかけて行われた第二次世界大戦での全死者数は、およそ7500万人とされている———。

 そして今、インフルエンザをもたらすのではない別のウイルス、ご存知「新型コロナウイルス」と呼ばれるウイルスが、世界中で猛威を振るい、パンデミックを起こしている。

最初の感染者が報道された2020年1月から3年後の今日、世界ではそのウイルスによる感染者総数は6億7022万人余、死者総数が682万人余に上っている(2023年1月30日現在。NHKの調査による)。

 なお、ここでもう一つ付け加えておかねばならないことがある。それは、今後特に人類が警戒しなくてはならないのは炭疽菌によるパンデミックであろうということだ。これは、地球温暖化が加速度的に進んでいる今、シベリアなどの「永久凍土」が融解し始めているが、その凍土の中に何万年も埋もれていた極めて毒性の強い菌である。

 とにかくパンデミックを防ぐには、感染の拡大をコントロールする必要がある。

そのためには、その感染の拡大を制御する上で最も効果的なのは、一人ひとりが免疫を持つことも大事だが、その前に共同体としての都市や集落のそれぞれを分散させることではないだろうか。と同時に、「小規模」化もある一定数以上には感染を拡大させないという意味で、きわめて有効な感染拡大防止方法になる、と私は考えるのである。

 都市や集落が「分散」していることが必要と私は考えるもう1つの理由。

それは、互いにある一定の距離を隔てて都市や集落が存立し合うことによって、自分たちの共同体の範囲がどこからどこまでを言うのかが住む人々誰にとっても明瞭に識別できるようになり、そのことによって、住む人々一人ひとりのアイデンティティが明確になると同時に、そこに住む人々のその共同体への愛着と責任意識も深まるであろう、というものである。

 今日の日本中の都市は、どこも、まるでアメーバが成長するように無秩序に拡大してしまいながら、そのうえ、互いの行政範囲は間隔を置かずに隣接し合っている。

そのため住人は、見た目にはどこからどこまでが自分たちの街あるいは都市なのかほとんど判らず、地図の上でしか行政上の境界が判らないような状態になっている。

これでは、「これは私たちの街」という郷土愛やアイデンティティなど育ちようはない。そうなれば何かにつけ、そこの住民同士がまとまって何かを始めようとか、「まさかの時」に、速やかに結束して事に当たろうという、同じ共同体の一員としての意識は育ちにくいし、自分たちの地域は自分たちの手で守り、管理してゆくという、いわゆる「自治」の意識も育ちにくい。

 

 以上の理由から、もはや、都市や集落づくりにおいて目指す方向とは、あくまでもそこに住む住民の一人ひとりがそこを自分たちの共同体であると自覚でき、それだけに愛着と責任を持ってそこの運営に関われると思えるような、そして、自分たちの運命は自分たちで決めるのだと思えるような規模の都市と集落の建設であろう、と私は考えるのである。

それだけにその方向は、これまで、この国の中央政府の官僚たちが明治期以来築いてきた中央集権という中央の官僚にとってのみ都合のいい発想に基づく都市や集落づくりでないことは言うまでもないのである。

 

(2)経済的に自立した都市と集落、あるいはその連合体であることが不可欠な理由

 とにかく、既述してきたように、これからの経済のあり方は、もし現役世代だけではなく将来世代にかけて、人類が生き残りたいのならば、もはやあらゆる意味で、資本主義ではないだけではなく、市場経済でもなく、またグローバル化の方向でもないことは明らかだ。なぜなら、今日、人類に「その存続危うし」として突きつけている地球温暖化生物多様性の劣化という難問は、突き詰めれば、少しでも多くの利益を上げることを全てに優先させることを宿命とする資本主義市場経済システムがもたらしたものだからだ。

ではその資本主義に取って代わるべき、本質的に資本主義とは異なる経済の仕組みとはどのようなものか。

それについては、後の第11章にて具体的に詳述するとして、ここでは、ともかく、これからの環境時代の都市と集落、あるいはその連合体は、経済的にも自立していなくてはならない理由について考える。

 その場合まず考えるべきことは、経済は、そこに住む人々が生きてゆく上で、他のあらゆる社会制度と比べても、最も深い関わりを持つ、不可欠な仕組みであることだ。

実際、従来の経済とは次のように定義されてきた。

「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれらを通じて形成される人と人との社会関係の総体のこと」(広辞苑

 したがってその経済は、そこの共同体やその周囲の共同体にどのような事情や変化が生じようとも、そこの共同体での「人と人との社会関係の総体」は維持されているようでなくてはならない。

 このことから、その共同体としての都市や集落、あるいはその連合体は、他に依存することなく、経済的に自立していなくてはならない、あるいは自立を維持できていなくてはならない、となる。

 では、自立あるいは自立を維持するとは、どのようにして可能なのか。

それは、逆説的に言えば、少なくとも、資本主義経済とはその本質において逆の方向を目指す経済、となる。

ではその資本主義経済の本質とは何か。ここでは簡単にその特性だけを箇条書き的に述べるが、詳細は、やはり第11章をご覧いただきたい。

・ありとあらゆるものを、「商品」、つまり「値段」をつけては「売れるもの」としてしまおうとするシステム。

・人が人間として生きる上で不可欠なもの(例えば、大気、河川を流れる水、自然、多様な他生物、個人の能力、労働力、一人ひとりの肉体や精神、日々の平安で豊かな暮らし)よりも、「売れてお金になるもの」の方が「価値」があるとしてしまうシステム。

・そしてそのことに貢献できる人間こそが「存在価値」があり、「高く評価されるべき人間」と見なしてしまう社会をもたらしてしまうシステム。

・本来比較のできないもの(例えば、物の質、人間の能力や個性)まで比較できるようにし、そして「貨幣」を介して交換できるようにしてしまうシステム。

・本来みんなの共有財産だった「富」(例えば土地、自然、人間個々人が持っている能力や労働力)までが一部の人間(資本家)に独占されてしまい、貨幣を介して、交換可能な「商品」にされてしまうシステム。

・その「商品」に値段をつけてくれるところこそが「市場」である、とするシステム。

・そしてその市場では絶えず「競争」が行われるシステム。

・だから、「お金」あるいは「貨幣」というものが絶対に必要となるシステム。

・その商品を「売る」あるいは「売り切る」までは非常な関心を持つが、売ってしまえば「お終い」として、その後のことは、何がどうなろうと、一切関心を持たない、また持たせないシステム。つまり「始まり」と「終わり」を持ち、その範囲の外では一切責任を持たない、一方通行のシステム。

・際限なく「生産力」をあげ続け、「利益」を上げ続けなくては存続できないシステム。

・必然的に恐慌とバブルを繰り返し、大量の失業者を生み、しかも、必然的に経済的格差をも拡大させて、失業者と就業者とを分断してしまうシステム。

・それだけではなく、精神的労働と肉体的労働との関係も分断してしまうシステム。

・個々の人間を次のような状態に陥らせてしまうシステム。人間の一面化あるいは断片化。人間の孤立化。人間の心の空洞化あるいは空疎化(真下真一「著作集第1巻」青木書店p.118〜133)。

・そこでの活動には道徳や倫理は不要、としてしまうシステム。

・したがってその社会には必然的に犯罪を増やし、自殺者を増やしてしまうシステム。

・結局、価値を増大させることを全てに優先して、その価値を果てし無く増大させることを至上の目的とするこのシステムは、必然的に自然を侵し、人間を冒してしまうシステム。

 こうした諸特性を総合すれば明らかなように、その経済システムは、自然界から見ても、人間社会から見ても、また人間個々人から見ても、いつか必ず、つまり時期は特定はできないとしても、必然的に行き詰まり、破綻せざるを得ないシステムであって、決して持続可能なものではないということである。

 しかし、この結論はもっと単純に考えても、論理的に容易に導ける。

それは、今は論理を単純化し、問題の本質を掴みやすくするために、社会での生産力と、それを支える資源やエネルギーという観点にのみ絞って考えてみるだけで十分なのである。

 人間が何がしかの「商品」を生産するには、必ずそのための資源とエネルギーが要る。その資源やエネルギーをもたらしてくれるのは地球であり、地球の自然なのである。それも地球が何万年、いや何億年というヒトの生命の期間のスケールをはるかに超えた年月の中で作り出し、また蓄えられてきたものである。つまり人間の目からは、ほとんどその量は増えないと同じなのである。

 ところが、人間が社会でイノベーションによってであろうがどのような方法によってであろうが、生産力を上げれば上げるほど、消費する資源とエネルギーの量は増大する。そして生産活動をする際には、これも必然的にではあるが、同時にCO2、つまり温室効果ガスを発生する(3.1節)が、その生産活動を活発化させて生産力を高めれば高めるほど、資源とエネルギーの消費速度も量も増大する。そしてそれと並行してCO2の発生量も増大する。

 つまり、地球の資源とエネルギーはいつか必ず枯渇する。あるいは資源やエネルギーの枯渇という事態よりも早く、これまで大量に大気中に放散してきたCO2の蓄積によって、地球の温暖化は止めどなく進んでしまい、世界の人々の暮らしと産業に、もはや継続不可能という状況を生んでしまう。

 このように、事柄を単純化しながらも最も肝心要のところに注目して、その成り行きを理性的に想像して見るだけでも、これまでの資本主義市場経済システムは、早晩、必ず行き詰まり、破綻するのは明らかなのだ。

 したがって、本節にて念頭に置く経済とは、既述の経済の定義を踏まえながらも、上記のような、あらゆる面でいずれ必ず破綻せざるを得ない特性を持つ資本主義の経済をも克服した経済である。

 ではこれからの経済は、都市や集落、あるいはそれらの連合体においてなぜ自立していなくてはならないか。

 それは、特に今後、日本にも世界にも、前例のない事態や現象がますます起こりうると想定されるのであるが、そしてそのような事態や現象がたとえ生じても、都市や集落、あるいはそれらの連合体は極力耐性を持っていなくてはならないと私は考えるからである。その耐性を持たせる上で、何はともあれ、真っ先に重要となるのが、人が人間として生きて行けるための社会システムとしての経済なのだ。

 例えば、“今後、世界の経済がどうなるかは、ひとえに中国経済がどうなるかによる”、といった事態に振り回されずに済む経済である。あるいは、これまで食糧を輸入してきた国々(例えば、ロシア、カナダ、オーストラリア、ウクライナ)の内部が干ばつや自然災害等が理由で食料の輸出禁止に踏み切っても、それにうろたえなくても済む経済である。

 また逆に、この国の都市や集落、あるいはそれらの連合体が経済的に自立できていれば、もしも外国で、食料援助を求める国があった場合、そうした被災地域の被害者に速やかに救援の手を差し伸べられる国にもなれるからである。

 

(3)都市と集落あるいはその連合体が政治的に自決できていることが不可欠な理由

 現在のこの日本という未完の国家において、自治体と一応は呼ばれてもいる地方公共団体のうち基礎的自治体とされる市町村とは、そもそも何のためにあるのだろうか、そしてその意味とはどういうものなのか。

それは、日本国憲法第13条で、【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】として「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を要する」に基礎に置いて定められた地方自治法第1条の2の条文「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする」としてあるものだ、とされる(池上洋通「市町村合併の考え方と住民参加で作るこれからの自治体」自治体問題研究所)———しかし私には、地方自治法第1条の2の条文には、憲法第13条が謳う、特に「全て国民は『個人として尊重』される」という視点が欠落しているように思われるのである———。

 具体的には次のものが市町村の政治と行政の基本目的となる、とされている。

①住民の生命と健康、生活の保障

②住民の生涯にわたる発達の保障

③住民生活の基盤となる環境の整備

④住民の働く場の保障と地域経済システムの確立

⑤自然環境と歴史的・社会的・文化的財の保全と継承

⑥住民の政治的・社会的参加システムの確立

 そして基礎自治体としての市町村の意味は、次のように理解されている。

「単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が、経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とするものと言うべきである。」(1963年最高裁判決 池上洋通氏の前掲文献より)

 

 私は先に、「都市あるいは集落という共同体の規模は、住民が責任の持てる規模でなくてはならない」と述べた。それは、共同体を構成する一人ひとりは、みな、共同体を維持・管理する上での責任者であるという意味でもある。この考え方を主体的かつ発展的に考えれば、共同体が独自に相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を有する必要があるという考え方は必然的にたどり着くものと思えるのである。

 では、現状、この国では、基礎自治体である市町村を含む地方公共団体は、こうした共同体意識に基づく立法と行政が普通になされているだろうか。

 その答えは明らかに「ノー!」である。まず国民あるいは住民の側は、地方公共団体と言った場合、多分その大多数は、それは自分たちのことではなく、市町村役場のこと、あるいは都道府県庁、つまり役所のことだ、という理解が一般的になっているように私は思う。

だからそこには、当然ながら、「自分たちの地域は、自分たちの責任において、自分たちの手で作る」という発想はない。まちづくりや地域づくりに対する関心の低さがそれを象徴している。

 一方、立法する側、即ち国民から選挙で選ばれた政治家たちは、既述したように(2.2節)、やっていることの実態は、もっぱら役所の役人に何から何まで依存しては追随しているだけだ。

つまり、議会など、実質的に飾りだ。ないと格好がつかないから、という程度のものだ。事実やっていることは行政府の者への質問だけなのだからだ。それも、住民の福祉の増進を図る目的で、現状を大きく変えるような本質的で根本的な「質問」ではなく、どちらかといえばどうでもいいような内容の質問を繰り返しているだけだ。

彼らには自主立法権や自主財政権という地方自治の基本的権能を有する必要があるという考え方など、私の見たところ、到底持ってはいない。持とうともしていない。

というより、彼らは、そもそも、自分たちは主権者の利益代表であり、したがって共同体の代表でもあるという認識も理解もない。関心があるの、見ていると、直近の選挙で、再選されることだけだ。

 では行政を行う側、すなわち役人たちはどうか。彼らは建前上は「国民全体の奉仕者」すなわち「国民のシモベ」とはされているが、実態は全く違う。彼らは、少なくともその圧倒的多数は、地方自治法第1条の2の条文にある「住民の福祉の増進を図ることを基本」になどして行政を行なっているわけではない。常に自分たちの仕事があり続けること、自分たちの既得権が失われないようにという観点のみで行政を行っているだけだ。そこでは自分たちは返す意思もない借金も平気でする。もちろん、自主行政権、自主財政権などの地方自治の基本的権能を有する必要があるという考え方なども持たないし、持とうともしない。「縦割り」の組織構成を堅持する中で、市町村役場は都道府県庁に、都道府県庁は中央省庁に追従しているだけだ。

 

 これら住民と政治家と役人の現状あるいは実態を象徴している事例の一つが、私は、いわゆる「平成の大合併」であろうと思っている。

 そこでは、住民は、主権者でありながら、主権者、すなわち「国の政治のあり方を最終的に決定しうる権利を有する者」として行動しようとはしなかった。一人ひとりが互いに、経済的文化的に密接な共同生活を営んでいるという共同体意識を持っている風にも見えなかった。もちろん自主立法権、自主行政権、自主財政権などへの関心も、事実上皆無だった。

また、住民の代表である議会の政治家も、この合併劇にはほとんど関心を寄せなかったように私は思う。というより、彼らは合併することによって自分たちの地方公共団体としての財政がどうなるのか、ということにはまるで無関心で、もっぱら役所任せという感じだった。

 そんな中、この合併劇に関心を寄せ、積極的だったのは、役所の役人であり、またそこの長だった。

 彼ら首長にすれば、期限内に合併を果たせば、総務省から「合併特例債」をもらえて、その結果、自分たちがやってきた無謀な主に「箱物づくり」という公共事業で累積してきた膨大な借金(国債や地方債)を返済し得て、これまで自らの行政の無責任をうやむやにできるという「タカリ根性」と責任逃れ根性があった。

 一方総務省の官僚たちも、地域団体に相当程度の自主立法権・自主行政権・自主財政権等を付与するつもりなど毛頭なく、つまり地方公共団体の「自治」など二の次にして、相変わらず「寄らば大樹」の価値観を植え付けたまま、中央集権体制を維持しながら、地方公共団体に対する統治権益を拡大させることができ、それはまた自分たちの先輩官僚たちの「天下り」先を拡充できて、所属組織内での評価が高まるという思惑の下にこの合併劇を推進したと思われる。

 そこでは、総務省官僚たちは、合併すれば、「経済の効率」、「規模の効果」、「集積の効果」が得られ、「行政コストの削減」ができるとけしかけた。

 しかし、結果は、今日の全国津々浦々の市町村の実態を見ればわかるように、その合併劇に踊らされた市町村はどこも「こんなはずではなかった」となり、ますます公共団体としての維持が困難となり、住民へのサービスもますます低下するどころか、「限界集落」という言葉も生まれたように、消滅寸前にまで疲弊しきっているのである。

 

 なお、これからの時代、都市と集落そしてその連合体は、政治的に自決できていることがどうしても必要であると私が考える理由はもう1つある。

それは、統治者が一方的に統治者の都合によって、国民あるいは住民の、人間としての普遍的な価値とされる「自由・平等・平和・民主主義・法の支配」を侵す、いわば法とは言えない法の成立を企むことを、最初から不可能とさせてしまうためである。

 それは、例えば、思想・信条の自由というこれも普遍的な人間の権利を侵して、国民や住民の一人ひとりの心の内にまでドカドカと入り込んでは、その心を取り締まる治安維持法共謀罪あるいはテロ等準備罪について、その成立どころか、それを発案すること自体を封じてしまうことでもある。特定秘密保護法についても同様である。

そうした法律を統治者が強行成立させようとすることは、結局のところ、彼らが、どんなに口では“自由と民主主義は人類の普遍的価値”と言おうとも、本心は、自国民を信頼していないからであって、また統治に自信がないからだ。むしろイザッというとき国民が政府に対して立ち上がり、自分たちの立場・地位を脅かしてくるのではないか、という恐怖心からなのだ。

 権力を所持する統治者が、本来、その国の最高で最良の財産である国民を信頼し、その国民の福祉をひたすら願う統治を行い、国民から信頼され誇りに思われる国づくりがなし得ていたのなら、必然的に治安は安定する。そうであったのなら、どうして憲法を無視してまで、国民の内面にまで踏み込む法の成立に固執し、その実現を強行する必要があったろう。