LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.4 都市および集落の三種の原則

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前節の「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」に続いて、今回公開する以下の節の内容も、今、地球温暖化の危機そして生物多様性の消滅の危機に直面している私たち地球人類にとって、その危機を克服するためというだけではなく、私たち一人ひとりが、本当の意味で人間として、それも未来永劫、持続的に生きてゆくことができるようになるためには、今、少なくともこのくらいのことも、きちんと考えておく必要があるのではないか、と、私は考えるものです。

これも、拙著のタイトルであり、全体原稿を貫く主旨でもある「持続可能な未来、こう築く」の「目次」(2020年8月3日公開済み)の中に位置付けてお読みいただければ幸いです。

 

 

4.4 都市および集落の三種の原則

 すでに突入してしまっていると私には思われる環境時代においても、集落あるいは都市は、人々が互いに人間として、共に生き、共に暮らして行く共同体であることに変わりはないであろう。しかしそこでの都市づくりそして集落づくりは、もはやこれまでこの日本の政府がとって来た「果てしなき経済発展」という暗黙の政策を最優先する、自然を無視し伝統の文化を無視または軽視する無秩序な建設の仕方ではなく、少なくとも前節で明らかにした「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を踏まえ、その先に「三種の指導原理」を実現させて行くことを視野に置いた建設のされ方がなされてゆかなくてはならないはずである。

そのためには、とくに人間の集住する場としての集落や都市については、三種の指導原理との関係において、今度は、その原理を土台に置く次の原則を指導原則として構築されて行かねばならないのではないか、と私は考える。すべては整合性が取れていなくてはならないからである。

 そこでは、ヒトを含む生命一般の多様性・共生・循環の実現と、他生物の自由と財産の保障ということを極力実現させながら、さらには私たち人類が経済的諸活動によって都市や集落の内外に発生させた量のエントロピーはつねに宇宙に捨て続けられるように作動物質の循環を都市と集落の内部だけではなく外界との間でも遮断しないようにしながら、都市や集落はなお次の原則にも従わねばならない、とするわけである。そしてその場合、その指導原則も三種類あると考えられる。

 すなわち、三種の指導原理と三種の指導原則との間には次のような関係がある。

 表− 都市または集落をつくる際の三種の指導原則と先の三種の指導原理との関係

小規模で分散の原則・経済自立の原則・政治的自決の原則

生命の原理・新人類普遍の原理・エントロピーの発生の原理

 

 ただし上表は、都市および集落についての「小規模で分散の原則」と「経済自立の原則」と「政治的自決の原則」の三種の原則は、「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」の三種の原理が常になりたち、実現されていて初めて恒常的に成り立ち得る、ということを表した表である。

 このように、ここでも、諸原理と諸原則との間には階層性が成り立っている、と考えられるのである(「原理」と「原則」の定義については、4.1節を参照)。

つまり、都市も集落も、それが建設されるときには、人間の都合ではどうにもならない普遍的で不変の真理としての原理を土台にして、その上に、人間が、破ろうと思えば破ることはできるが、しかしそれをしたなら、早晩、必ず様々な矛盾やら不具合が生じてきて、それはいつしかニッチもサッチもゆかないものとなってしまうから、そうならないように、最初から理性の力を持って守るべきものとして定めた原則を守らねばならない、としているのである。

 では、なぜこれからの環境時代の都市と集落は先の三原則を満たさねばならないと私は考えるか。

以下がその理由である。

 

(1)「小規模」で、かつ「分散」していなくてはならない理由

まず「小規模」でなくてはならない理由は少なくとも5つはある、と私は考える。

1つ目は、その都市も集落も、そこが集まり住む人々の共同体である以上、統治者・管理者の立場からではなく、住人の一人ひとりがそこの主人公として、自分たちの共同体を自分たちで責任をもって運営できる規模でなくてはならないからである。大規模であったならそれは不可能になる。それは、たとえば直接民主制から間接民主制へと変遷して来た歴史的過程を思い浮かべれば納得のできるところであろう。

 自分たちが住民として、つまりそこの主人公として責任の持てる規模であってこそ、その共同体は、自分たちのことは自分たちで責任を持って決められ実行できる本物の「自治体」となりうるのである。現状はどこの都市も集落も、とても「自治体」とは言えない。住民は地方行政府に依存しているし、地方行政府は中央行政府の(官僚の)言いなりだ————最も、何度も言うように、そんな異常な統治体制にしてしまったのも、歴代の政治家の怠慢のせいなのだが————。したがって現行の地方公共団体の実態は自治体どころか従属体でしかない。それでは、住民の私たちが望むような政治や行政が行われるわけはない。

 これまでのように、“誰かが適当に管理・運営してくれるだろう”、といった「あなた任せ」の姿勢ではもはや済まないのだ。それは、もう、行政にはその力も人間もいないからではない、行政にはもう人を動かせるだけのカネはないからではない。もし私たちが、現実社会が民主主義社会であることを望むのなら、自分たちの住む場は自分たちが自分たちの責任において維持・管理して行く、さらに言えば、自分たちの運命は自分たちで決めるというのが自立した人間集団の基本的なあり方だからである。

 そのためには、どうしても、住民自身の運営能力と責任能力を超えるような規模であってはならない。超えたら、それだけ無関心の者が出てくる。無責任な者が出てくる。他人任せの者が出てくる。

 むしろ小規模になり得て初めて、人々は互いの顔を知り得、互いに接触する機会が増える。そしてそのとき、互いに本音で語るようになれば、それだけ互いに理解できるようになり、信頼感も湧き、また強まる。またそうなれば、それだけに周りの人がどういう悩みや苦しみを抱えているかが相互に見えるようになる。そうなれば、互いに支え合う空気も生まれ、互いに孤立することはなくなり、強固な絆で結ばれた強固な共同体となるだろう。

 そして小規模であれば、政治家一人ひとりの挙動も住民には眼に見えるようになるから、政治家も住民の要望をきめ細かく的確に捉えなくてはならなくなり、それを受けた議会活動も迅速になり、住民の要望を迅速に条例の伴った政策として決められるようになる。あるいは決めてゆかざるを得なくなる。そうなれば、議会が決めたそれを受けて、行政府もそれを速やかに執行しなくてはならなくなる。

 つまり、政治と行政のあり方は、これまでのように行政主導あるいは役人主導ではなく、住民主導の政治となって行けるのである。

そしてそれこそが、私たちが長いこと待ち望んできた政治の在り方なのではないか。

 そうなれば、その過程で、住民一人ひとりは本物の「市民」として育ってゆくようにもなる。「新しい市民」もどんどん生まれ育って行くようにもなるだろう。

 小規模でなくてはならない2つ目の理由は、小規模化すればとにかく何事も小回りも利く、ということである。

 共同体の人々の暮らしに共通して関係のある何かが起これば、すぐにも、みんなで共同して対応しうるようになる。みんなで話し合って、みんなで結論を出し、その結論に従ってみんなで行動して行く。直接民主制の実現である。

 それに、大切な納税と徴税との関係を見た場合、これまでは、毎年、その年の事業の計画も内容も定まらないうちから、機械的に行政府の徴税部署によって徴税されていたが、小規模化すれば、必ずしも単年度毎の納税や徴税ということに拘る必要はなくなり、みんなで今年どんな事業をするか決めた上で、徴収すべき総額を決められるし、納税する側も、自分の金が何に使われるかが事前にはっきりするから、納得して納めやすくなる。

 そのときには多分、人々は、憲法で言う「納税の義務」があるから納めるという仕方なしの感覚ではなくなり、主体的に納めようという気持ちになるのではないか。

 税金の使い方も、これまでのように、単年度の予算を余らせないようとして行政府が不要不急の事業で使ってしまうという、各部署の既得権を維持するためだけの無意味で「もったいない」使い方はもうしないで済むようになる。むしろそのような余ったカネは速やかに住民に返還もできるし、あるいはみんなの了解の上で、これまでの借金の返済に充てたり、あるいはまさかの時のために蓄えることもできるようになる。

 つまり、歳も集落も、小規模になれば、お金の面でも融通の利いた小回りができるようになる。

 また小規模であれば、全住民が必要とする食糧(米、小麦、大豆、そば、その他必要な野菜すべて)もエネルギーも自分たちの力で確保しやすくなる(第11章の経済を参照)。

それらの年間の必要総量を人口構成から割り出して、それらを、各役割を決めて、住民も援助するという形態をとって、計画的に生産するということも可能となるのである。

 そうなれば、今日、世界を支配しているグローバリゼーションや、世界の食糧事情やエネルギー事情に振り回されずに済むようになる。

 とくに食糧については、余ったなら、それを近隣の共同体あるいは飢餓に苦しむ世界の人々に送るということも、全住民の合意さえ取り付けられれば、いつでも可能となる。

それ自体、立派な国際貢献となるであろう。そしてそれはそのまま、自分たちの地域の安全保障を、国家に頼らずに、自分たちで高めることができるということでもある。そしてそれは、それだけ自分たちの地域の意見を、臆することなく国家の政府に主張できるようになるということでもある。

 小規模でなくてはならない3つ目の理由は、小規模化すればするほど、これまでは自然の循環や作動物質(大気・水・栄養)の循環を遮断する人工の異物としてしか存在しえなかった都市あるいは集落が、そしてその構成要素のすべても小規模化でき、それだけ基礎構造の規模も小規模化できて作動物質の循環を妨げる度合いは格段に減ると同時に、廃熱や廃物の量的な塊も減らせるからである。

そして同時にそれは、そこに住むほとんど全ての人にとっては、これまでは人間の有りようと比べて、余りにも巨大で、余りにも複雑で、余りにも高速であったがゆえに、一人ひとりにはプレッシャーとストレスしかもたらさなかった社会とそのシステムの状態から解放されて、人間らしい心と体のスケールや状態に近づけられるようになる、ということをも意味する。

 人間の心と体のスケールに近づけるとはたとえば次のようにすることを意味する。

超々高層ビルはもちろん超高層ビルももう建てない。建てる高さは樹木の高さを超えない。建物は、特別なものを除いては、すべて地元産の木材からなる木造とし、海外からはるばる海を越えて外材を持ち込まない。都市のシステムも、家庭内の電化システムも、その他あらゆる社会システムも、故障した際、人の手で修復できないような複雑なものは止める。便利で快適だからという理由による導入はもはや止める(8.4節参照)。

 だから、グローバリゼーションを象徴するような、世界中から食料品を集めるスーパーマーケットのようなものはなくす。世界の金融ネットワークに連結するような金融機関もなくす。そして金融機関は本来の機能に戻す。すなわち、地元の経済を発展させ、またそれを維持することのみを役割する。

 物を生産するにも、人間が一個の歯車にしかなり得ず、人間から労働する歓びや創造する歓びを奪ってしまうだけではなく人間そのものを疎外してしまう大規模機械化のオートメーションシステムやそれを備えた工場などもなくす。

 こうして、小規模であれば、その共同体社会では、「資格」とか「看板」といったものも不要となるだろう。そのようなものはなくとも、住民は、互いに、誰が何をしているか、誰が何が得意か、何は誰に頼めば安心して実現できるかを自ずと知るようになるからだ。それだけに、信用・誠実というものがいっそう大切になる。そもそも「資格」「看板」あるいは「名刺」などというようなものは、お互い、顔も素性も判らない巨大社会にのみ必要なものだったからだ。

 だからそのような小規模社会では、これまでのような、都市や集落全体の調和や美観を損ね、ただ目立てばいい式の看板や旗などはまったく不要になる。設けるとしても、控えめではあるが気の利いた、見る者や歩く者の心を安らげ、そこの店主の人間味を感じさせてくれるような「看板」にする。それであれば街を歩く人々の心をどんなに楽しくさせてくれるかしれないのだ。

 小規模でなくてはならない4つ目の理由は、小規模であればあるほど、生産者と消費者との距離、売り手と買い手との間の距離が短くなり、それだけ両者間での移動と運搬の距離も縮まり、エネルギー消費量も減るのである。それは、少なくともその共同体内では、とくにマイカーを必要としなくなることをも意味する。

 これまでの都市や集落は、マイカーがあることを暗黙の前提としてつくられてきた。そうした中、都市は無計画、無秩序に拡大して行った。

しかしそのマイカーが、どれだけ都市や集落の住人に危険を呼び込み、人々の生活から静けさや落ち着きを奪い、自然を壊し、環境を汚し、化石資源の浪費を促進してきたか知れない。

 共同体を小規模化するここでは、その共同体の住民は、日々の暮らしに必要なことは、すべて、歩いて間に合わせられるようになるのである。そうなれば、交通事故死者数をゼロにすることも可能となる。共同体内の街という街を、車中心の街ではなく、人間中心の街、歩く人間中心の街として取り戻せるようにもなる。そして都市全域、集落全域は安全となる。

もちろん、その時には「交通安全週間」など過去のものとなる。

 そして都市と都市の間の人の移動と物の輸送は、一度に大量輸送のできる鉄道にする。それも中間に位置する各集落を無視しないようにするために高速から低速までいろいろな速度の列車にするのである。

そうなれば高速自動車道もほとんど不要になる。それに、きめ細かく長距離で、大量輸送できる鉄道にするためには、既存の高速道路を改修すればいい。それは容易なことだ。コンクリートまたはアスファルトの路面をはがし、枕木を敷設して、両側面の防音壁を除去し、軌道を敷設すれば、大してカネも掛けずにすぐにも鉄道に換えられるのだからだ。そんなときの機関車はもちろん電気機関車にする。

 都市の小規模化と高速自動車道の廃止だけではなく自動車そのものをほとんど廃止することの意義、特にそれらの地球温暖化ないしは気候変動の緩和と生態系の再生への意義の大きさは計り知れなく大きい。

それは、とくにエントロピーの原理から見たとき、都市からも、高速道路からも、集落からも、これまで吐き出されていた莫大な量の廃物(排ガス)・廃熱の塊をはるかに小規模化できるようになり、地球を熱化学機関と見た場合、それはこれまで分断されあるいは遮断されて来た作動物質(水・大気・栄養)を再び循環させることができるようになることであり、気候変動における気象の局地化や局時化という現象を和らげる効果を持つものと期待できるからである。

 それだけではない。高速道路をなくし、時折列車が通るだけの自然に戻せば、そのことにより、どれだけ野生生物の活動範囲も広がり、分断された生態系がつながり、溜まったエントロピーを宇宙に廃棄できるようになるか知れないのである。

 このことも「生命の原理」や「新・人類普遍の原理」を徐々にではあるが確実に実現できるようになることであり、それだけ「人類存続可能条件」を再び満たせるようになる可能性も高まるのである。

 そして自動車そのものの廃止は、再生不能な化石資源の莫大な量の消費をも劇的に減らせるようになり、その分、未来の世代に残すことも出来るようになるのである。

それに、自動車そのものがほとんど不要ということになれば、時間と労力をかけて自動車の低燃費化の技術開発とか環境への負荷低減のための技術開発という行為そのものを不要とさえする。それは、経済をただ活性化させGDPを上げるためだけの開発、結果的に人類存続の可能性を狭めてしまうだけの無意味な技術開発に国民の金を使わせなくても済むようになることを意味する。

 同様に、超々高層ビルだけではなく超高層ビルも建てないとすれば、たとえば巨大地震に見舞われる度に明らかになってきた地震力が建築物に及ぼす新たな脅威に対しても、自然を技術力で抑え込もうとしたり制御しようとしたりする、傲慢で、しかも不確実な効果しか期待できない技術開発をももはや不要にするのである。

 

 小規模でなくてはならない5つ目の理由。

 実はこの理由こそが、今日の高速デジタル通信システムおよび政府———とくにアメリカ政府内のNSA国家安全保障局)———による、一人ひとりのプライバシーを丸裸にしてしまう全地球的デジタル監視社会に生きている私たちにとっては、今後は、最も重要で、切実な意味を持ってくるものかもしれない。

それは、小規模の社会にすることによって、高速デジタル通信システムそのものを不要とし、かつてのように再びアナログ通信システムで十分に対応できる社会に戻すことができるようになるからだ。

 それに、都市の規模が拡大すればするほど、あるいは人口が密集すればするほど、統治する政府の側としては、治安の維持、安全の維持のためには、高速で広域のデジタル監視がどうしても必要となってきていたのであろうが、そしてその場合、社会が資本主義経済社会であることを前提としていたのであろうが、しかし小規模の社会にすれば、必ずしも資本主義経済社会でなくとも人々は暮らして行けるようになるし、と言うよりむしろその方が人々は人間らしい生活を取り戻せるようになるからだ(第11章参照)。

そしてそこでは、人々は時間やお金に追われることもなくなり、人々相互の関係は近づき、人間関係を大切にできるようになる。そうなれば信頼関係も取り戻せるようになり、人間的にはかえって豊かで、自分にも他者にも、そして自然に対しても誠実で思いやりのある生き方ができるようになると期待できるのである。

 そしてそこでは、もはや政府による「統治」という概念もそれほど意味はなくなって変更を迫られ、人を抑圧支配するものではなくなり、したがってまた「監視」するという必要性もなくなる。むしろ互いに支え合い、協力し合う、本物の共同体が形成されて行くようになると期待できるのである。なぜなら、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」のだからだ(E・F・シューマッハー「スモールイズ ビューティフル」講談社学術文庫p.97)。

そしてそのとき、そこに住む人々のものの考え方や生き方も、「孤独死」「自殺」「終活」などとはまったく縁のないものとなることが期待できるのである。

 

 では小規模といった場合、人口面で、あるいは地理的面積の面で、具体的にはどれくらいを想定したらいいのか、ということになる。

その点について、私見を言えば、人口面から見ると、集落であったなら、せいぜい500人、都市であったなら、せいぜい1万から2万人程度が限界であろうと思う。

また面積的規模について言うと、集落だったら、健康な大人が1〜2時間で集落の端まで歩いて行って、また戻ってこられる距離に相当する面積、都市であったなら、同じく大人が、昼間、すなわち明るい間に、歩いて端まで行って、また戻ってこられる距離に相当する面積が適切なのではないか、と考える。

 面積についてそう考える根拠は、1つは、前提として、自動車がなくても生活できる面積的規模であること。1つは、集落あるいは都市に、人々の暮らしを妨げる、あるいは危機をもたらす重大な出来事が生じ、しかも、一切の通信手段が使えなくなったりしたとき、同じくあるいは、誰であれ、その人にとって、同じく重大な出来事が発生して、しかも誰かに連絡したり、あるいは助けを求めたりしなくてはならなくなったというとき、どんなに時間がかかっても、1日でそれが可能となること。

 では、ちなみに、大人一人が、それも健康な人が、1時間で集落の端まで歩いて行って、また帰ってこられる距離とはどのくらいだろうか。

それは、大人が普通に歩く速さを時速4kmとすると、集落の形状を仮に円とすれば、直径が2kmの円の大きさになる。

 また、大人一人が、日中のうちに、歩いて都市の端まで行って、また戻ってこられる距離とはどのくらいになるか。

 その場合、冬場を想定して、日中を10時間とすると、都市の形状を同じく仮に円とすれば、直径が20kmの円の大きさになる。

 ただし、小規模化するとは、ただ面積を小さくし人口を少なくするというだけではなく、集落内あるいは都市内のあらゆるモノやシステムの規模をも小規模化し、人間の体の大きさの規模や人間の本来持っている機能の規模と同程度の大きさにする、ということをも意味するのである。

 そのために、先ずは、住民一人ひとりが生物としてのヒトとして生きて行く上で絶対不可欠な食糧や水や熱・エネルギーを供給したり配達を受けたりするための社会資本(インフラストラクチャー)を完備するにも、それをまず小規模化するのである。それだけではない。道路や橋やトンネルも小規模化する。自動車が要らなくなるのだから、それは十分可能となる。

 だから、これまでのような、行政側の恣意的な決定による不要不急の、それもほとんどがインフラストラクチャー関連が占めていた「公共事業」など全く無用になるし、またそのような事業で公金の無駄遣いをしなくて済むようになる———尤も、役人がそうした事業をしてきたのは、またそれができたのは、議会の政治家や行政府の政治家が国民・住民の代表としての役割や使命をこれまで全く果たしてこなかったからであり、また、それをいいことにして、恣意的にやって来れたのである。これも突き詰めれば、政治家の怠慢と無責任の結果なのだ———。

 なお、以上の論理からすると、先頃行われたいわゆる総務省の音頭取りで行われた「平成の大合併」はまったくその理に逆行していたことは明らかなのだ。

つまり、これまで述べてきたようなことは全く頭の片隅にもなかった、ということである。

 むしろこれは、地方政府(市町村役場)への勢力拡大と権益の拡大を目論む総務省の官僚の思惑と、無用で無計画で安易な「箱ものづくり行政」等々を行っては溜まりに溜まった財政上の負債を抱えた市町村どうしが合併すれば、国庫から巨額の「合併特例債」がもらえて、それまでの負債を帳消しにでき、それまでの行政責任をもうやむやにできると思う市町村の首長の思惑とが合致した結果成り立った国家的な事業であり、要するに、国民を無視した、本来公僕である官僚としては、決して許されない権力行使だったのだ。合併すれば「行政サービスの向上」が期待できるなどは最初から真っ赤な嘘だった。そもそも、市町村の規模が小さくなった結果、きめ細やかな行政ができるようになって行政サービスが向上すると言うのならわかるが、規模が大きくなったにもかかわらず、前よりも「行政サービスの向上」が期待できる、などということはあり得ないからだ。

 この大合併で、平成7年には3,234あった市町村が、平成25年現在は1,719の市町村へと激減した。平均すれば、統合を選択することによって、1市町村当たり、人口規模はいきなりおよそ1.9倍に膨れ上がったことになる。

 実際、これまでの市町村規模よりもはるかに拡大した結果、「行政サービス」は目に見えて低下した。少なくとも私の住んでいる山梨県北杜市ではそれが言える。

 合併しても、住民の代表である政治家は相変わらず無気力で怠惰で無責任。首長は首長で、事業の優先順位もつけず、またつけられずに、これまでどおりただ配下の役人に放任しているだけ。役所の職員も、今までやってきたことをやって来たとおりにただやっているだけだ。何も変わらない。要するに、文字どおり惰性ですべてのことが進んでいるのだ。

 住民は住民で、合併しても、自分たちの住む地域は自分たちが自分たちの責任において作ってゆき、管理し維持して行くという発想は一向に持とうとはせずに、相変わらず行政に依存したままだ。

 そんな中で、人口減少と超高齢化と人間相互の孤立化はますます進み、その中で、誰もがますます将来不安を深めている。

 

 つぎに、都市や集落が「分散」していることが必要と私が考える理由についてである。

それには2つある。

 1つは、人口を一カ所に集中させると、まさかの時、危険だからである。その「危険」の度合いも、最悪の場合、集中した人間が全滅してしまうことがありうるからだ。

そういう意味での被害は最小限に抑えなくてはならないからである。

 その「全滅を防ぐ」という意味では、今後、全地球的な意味で想定される事態の中でもっとも深刻な意味を持ってくるのが感染症の拡大であり、それをいかにして防ぐかというものである。そしてその問題は、地球温暖化問題がもたらす危険とは違い、一定の距離を取り、人間集団を、それぞれ、極力自己完結を図りながら分散させることによって、よほどのルール破りが出てこない限りは、それ以上の拡散は防止できるはずだからだ。

 なおここで言う感染症とは、細菌・ウイルス・真菌・寄生虫・原虫などの感染によっておきる病気のことで、伝染病とも言われるものである(広辞苑第六版)。

 ここで少し、感染症をもたらす原因とされている中で、最も恐れられている、一般に生物とはみなされていないウイルスについて考えてみる。

 

 感染症の拡大をもたらすものとして、いま、とくに怖れられている1つが、「コウモリ」によってウイルスが運ばれるとされる、2014年に出現したエボラ出血熱である。また数匹のサルやチンパンジーを介してアフリカから世界中に拡散したエイズである。また中国から発生し、コウモリなどの野生動物からヒトに感染し、空気感染によって急速に広がったSARS(サーズ)である。

 このように、21世紀の感染症のほとんどは感染源が動物となっているのである。

それも、直接感染する場合の他、蚊などによって感染する場合もある。

その典型がいわゆる「小頭症」という感染症をもたらすジカウイルスである。

このウイルスは、アフリカに出現し、長い間アフリカから外に出なかった。しかし21世紀に入って、南太平洋の島々で、ジカウイルスに因る感染症、ジカ熱が大流行したのである。そのジカウイルスは、2013年頃、ブラジルに上陸したと考えられている。

 さらに、怖れられている感染症にはインフルエンザウイルスによるインフルエンザがある。

そのウイルスについては、ヒトはどのような状態のときに、どのようにしてインフルエンザで死亡するのか、それは未だ解明できていない難問中の難問となっている。

毎年、世界中で流行するインフルエンザについては、私たちは未だ多くのことを知らない。入院する患者は、毎年およそ500万人。命を落とすのは、そのうち、毎年20万人に上る。季節性のインフルエンザも毎年起きている。

 しかし専門家が怖れているのは、ヒトがこれまでかかったことのない新型のインフルエンザである。それも空気感染するウイルスによるものだ。免疫をもつヒトがほとんどいないからだ。そしてウイルスに感染したヒトの多くは、症状に気付くまで時間がかかる。ウイルスを体内で培養しながら、病気だという自覚もないまま世界中を飛び回ることができているのである。

 2009年には、豚インフルエンザが出現した。このウイルスはアメリカの養豚業者に最初に現れ、農産物などの展示会で人に感染した。一年あまりの間に、およそ13億人が豚インフルエンザにかかった。人数の点では、人類最大の共通体験だった。感染のしやすさと死者の多さにおいて、インフルエンザは世界で最も恐ろしい感染症の1つなのだ。

 鳥インフレンザも出現している。致死性の高いこのインフルエンザは、今のところ、ヒトに感染した例はごく少数だが、野鳥や食用の鳥の間では急速に広がっている。

専門家は、これが新たな感染症の脅威になるのを怖れているのである。

 世界中の易学者のうちの大多数は言う(2006年)。“今後2、30年の間に、莫大な数の病人と死者をもたらすパンデミック(全世界的流行病)が起きるだろう”と。

 インフルエンザについてみると、1968年と同じ規模のインフルエンザが再び流行すれば、その時は、死者の数はおよそ200万人になると予想されている。1918年に流行ったときと同じ規模になれば、世界での死者の数は2億人、その数は、ドイツとイギリスとスペインの総人口に匹敵する数に及ぶだろうと(以上、NHK BS世界のドキュメンタリー 2018年2月6日「見えざる病原体」)———参考までに言えば、1939年から1945年にかけて行われた第二次世界大戦での全死者数は、およそ7500万人とされている———。

 そして今、インフルエンザをもたらすのではない別のウイルス、ご存知「新型コロナウイルス」と呼ばれるウイルスが、世界中で猛威を振るい、パンデミックを起こしている。

そして現在、すでに感染者は全世界で3000万人、死者の数は、  万人に上っている。

 とにかくパンデミックを防ぐには、感染の拡大をコントロールする必要がある。

その感染の拡大をコントロールする上で、最も効果的なのは、先ずは一人ひとりが感染拡大を防ぐ心がけをすることであり、具体的には、例えば交流をできるだけ控えることである。次は、現状ではそうはなっていないが、ゆくゆくは、共同体ごとに分散させ、しかもその共同体間の交流を、感染拡大が収まるまで、中央政府と地方政府が互いに連携しながら、なんとかして自粛することであろう。

 ここで私が主張する「分散」の必要性とは、そういう時のためのものなのである。

その場合、都市や集落の分散化だけではなく小規模化も、きわめて有効な感染拡大防止方法になる、と私は考えるのである。

 

 都市や集落が「分散」していることが必要と私が考えるもう1つの理由、それは、互いにある一定の距離を隔てて別の都市なり集落が存立し合うことによって、自分たちの共同体の範囲がどこからどこまでを言うのかが住む人々誰にとっても明瞭に識別できるようになり、そのことによって、住む人々一人ひとりのアイデンティティが明確になると同時に、そこに住む人々のその共同体への愛着と責任意識は深まるであろう、というものである。

 今日の日本中の都市は、どこも、まるでアメーバが拡大するように無秩序に拡大してしまっている———それも、土地所有権の限界を明確にした上での、明確な都市計画というものを政治家が議会で考えて来なかったからであるが———。そのため、住人は、見た目にはどこからどこまでが自分たちの街あるいは都市なのかほとんど誰にも判らず、地図の上でしか行政上の境界が判らないような状態になっている。

これでは、「これは私たちの街」という郷土愛など育ちようはない。そうなれば何かにつけ、結束し協力し合おうとする意識も弱くなり、自分たちの地域のことは自分たちで管理し運営して行くという意識も育たない。

それは結局、住民一人ひとりをして、防災を含め、地域の安全は、誰に頼るでもない、自分たちで守る、という意識を育てにくくさせてしまうことだ。

 以上の理由から、もはや、都市や集落づくりにおいて目指す方向とは、あくまでもそこに住む住民の一人ひとりがそこを自分たちの共同体であると認識でき、それだけに愛着を持ってそこの運営に責任を持って関われると思えるような規模の都市と集落の建設であり、自分たちの運命は自分たちで決めるのだと思える規模の都市と集落の建設であろう、と私は考えるのである。

そしてその方向は、これまで、この国の中央政府の官僚たちが設けた暗黙の国策である「工業生産力拡大による果てしなき経済発展」、すなわち「果てしなきGDPの拡大」に基づくものではもはやないのである。

 

(2)経済的に自立した都市と集落、あるいはその連合体であることが不可欠な理由

 とにかく、もはやあらゆる意味で、これからの経済のあり方はグローバル化の方向ではない。経済至上主義の方向でもないことは明らかだ。したがって、当然ながら、ここでは、加工貿易型の経済でもないし、大量生産方式が主流となる経済でもない。小規模化する方向なのだから、そんな必要ももはやないのだ。

 むしろ共同体内の人々の暮らしと産業が成り立つ上で必要なものは、原則的に、すべて、その共同体内部で賄われ、そこから出るすべての廃物や廃熱もその内部で処理される経済である、とべきであろう。具体的には、食糧も、水も、エネルギー(資源)も、生活物資も、物を生産する材料も、また機械やシステムを動かすエネルギー資源も、そしてお金も、すべて含まれる。また、とくに廃熱については、高温の熱が低温の熱になるまで利用し尽くされた上で捨てられて行くようにする。

つまりそこでの経済は自己完結の経済である。と同時に、すべてがその共同体内部で回って行くものである以上、必然的にその中での経済は循環型経済ともならざるを得ない。

 実はこれも、エントロピー発生の原理から導き出される必然の帰結である。

 だからそこでは、遠く地域の外から材料やエネルギー資源をトラックで輸送してくる必要もなくなれば、反対に、廃棄物を、遠く域外に捨て、域外の環境を汚したり、域外の住民に迷惑を及ぼすこともない。

 こうして、小規模で分散的に立地する各共同体内部で、必要なものは原則的にはすべてその中で賄われるようにすれば、たとえ今後、この国の他地域あるいは世界のどこかに、食糧危機、エネルギー危機、財政危機、金融危機感染症拡大の危機、あるいは自然災害等が発生しそれが伝えられようとも、自分たちはさほどうろたえることもなく、むしろ自分たちの地域の安全を確保した上で、そうした被災地域の被害者に速やかに救援の手を差し伸べられるようにもなるのである。

 反対に、自分の住む共同体がグローバル経済と連動していたなら、今後、世界にますますその危機は高まるであろうと推測される食糧危機、エネルギー危機、金融危機感染症の大流行に因る危機等、さまざまな危機や災害のたびごとに、巻き込まれ、右往左往しなくてはならなくなる。

そうでなくともこの国は政治家が無責任で怠惰であるがために、統治の体制も欠陥だらけで、本物の国家とはなり得てはおらず、そして戦後ずっと、自国民の意向よりもアメリカの意向を主にして従属的な外交をして来たがために、アメリカが転ければ、この国は、たちまち全体が転けてしまうからである。

 それでは、国内はもちろん、地球人類に全般的危機が襲った時、国民が生きては行けなくなることを意味する。

 

(3)都市と集落あるいはその連合体が政治的に自決できていることが不可欠な理由

 現在のこの日本という未完の国家において、自治体と一応は呼ばれてもいる地方公共団体、そのうち基礎的自治体とされる市町村は、そもそも何のためにあるのだろうか、そしてその意味とはどういうものなのか。

それは、【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】を尊重する憲法第13条に基礎に置いて定められた———これも、この文言からすると、そのつながりがよく判らないが———地方自治法第1条の2にある条文「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする」から定まっている。

 具体的には次のものが市町村の政治と行政の基本目的となる、とされている(池上洋通「市町村合併の考え方と住民参加で作るこれからの自治体」自治体問題研究所)。

①住民の生命と健康、生活の保障

②住民の生涯にわたる発達の保障

③住民生活の基盤となる環境の整備

④住民の働く場の保障と地域経済システムの確立

⑤自然環境と歴史的・社会的・文化的財の保全と継承

⑥住民の政治的・社会的参加システムの確立

 そして基礎自治体としての市町村の意味は、次のように表現されている。

「単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が、経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とするものと言うべきである。」(1963年最高裁判決 池上洋通氏の前掲文献より)

 これを見れば、今日の基礎的「自治」体としての市町村は、その基本目的については、政治的にも行政的にも、きわめて不十分にしか果たしていないということが判ってくると同時に、相当程度、地方自治の基本的権能を付与されているはずであるにもかかわらず、その意味を正確に把握せず、したがって、その権能をほとんど生かしきれてもいない、ということも判ってくるのである。

 私は先に、「都市あるいは集落という共同体の規模は、住民が責任の持てる規模でなくてはならない」と述べた。それは、共同体を構成する一人ひとりは、みな、共同体を維持・管理する上での責任者である、という意味でもある。

 それは、たとえば、道路が傷んで歩きにくい、危険だといえば、みんなで出て、補修をする。川に架かっている橋が老朽化して危険だとなれば、みんなが出て、みんなの力で補強する。誰かの家から火事が出たとなれば、近所のみんなが総出で火消しに出る。バケツリレーをやる。・・・・・。

 こういうことが日常的に自然に行われるのが、市町村が、「事実上住民が、経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在」するということの意味なのであろう。

 だとすれば、今日、基礎的な地方公共団体においてさえ、そこの政治が実質的にはほとんどその機能を果たしえなくなってしまったのはなぜなのか。

 私は、その最大の理由は、ここでも結局は、国の中央であれ地方であれ、政治を志す日本の政治家が、先ず、政治家とは本来何か、自分たちが為すべきもっとも重要なことは何かも判らずに政治家になろうと立候補していることであり、また選挙制度自体もそうした者たちの立候補を可能としていることであり、有権者の私たちも、そのような無責任な者を見破れずに当選させてしまっていることにあると、考える。

 今日の基礎自治体の実態としての体制は、その結果として、統治者側の「知らしめるべからず、依らしめよ」との秘策、そして「国民は何事にも無関心であることがいい」との懐柔策と、被統治者側の「寄らば大樹の陰」との依存心が見事に呼応してつくりあげられた産物だと私は考えるのである。と同時に、各人には自己の所属する共同体への責任感が欠如していたことと、そのことに自責の念を感じない自己への甘えが、統治者側と被統治者側の両者に共通してあったからだとも私は思う。

 そしてそれをさらに助長したのが、それぞれの行政区の規模が大きくなりすぎたという事実であろう。

 そうなれば、「相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とするもの」という意識が住民側にも行政側にも育たないどころか、だれもが、責任を背負わず、「あなた任せ」になるのは必然とは言えまいか。

 実際、総務省の官僚の野心と画策の下で行われた既述の「平成の大合併」劇も、結局のところ、彼ら官僚には新しく誕生する新市町村という地域団体に相当程度の自主立法権・自主行政権・自主財政権等を付与するつもりもなく、むしろ相変わらず「寄らば大樹」の価値観を植え付けたままとする一方、合併特例債をもらえるなら自主財政権どうのこうのというより、もらえるうちにもらっておいた方がこれまで積み重ねてきた財政赤字をうやむやにできて好都合という「タカリ根性」とが合致してもたらしたものだ。そこには、総務省の官僚にも、国政の政治家にも、市町村の首長にも政治家にも、特例債の金も国民からのお金、それも未来世代からの無断借金だという認識は少しも見られなかった。したがって、その借金についても、自分たちの代で返さなくてはという覚悟もまったく見られなかった。役所も議会もこぞって総務省(の官僚)に無条件で追随したのだ。そこには「自治」意識のカケラもなかった。

 

 以上のことからも判るように、「経済の効率だ」とか「規模の効果だ」とか「集積の効果だ」、あるいは「行政コストの削減だ」とかいった掛け声に踊らされることは、住民にとっては、ますます市町村の政治と行政の基本目的をうやむやにさせられることなのだ。

 合併するもしないも、また合併の方向とは反対の、分立するもしないも、ひとえに、私たち住民が私たちの自由意思で決めるべきことで、統治者である行政府から押し付けられることではない。主権在民とはそういうことなのである。

 そして政治的に自決でき、またそれが憲法上でも条文をもって明確に保障されていることがどうしても必要であると私は考える理由として、もう1つ重要なことがある。

それは、中央政府に国民を監視させないことと、国民の心の内———その人が何を考えているか、どうするつもりかという内面———にまで入ってきてそれを取り締まる治安維持法共謀罪、あるいはテロ等準備罪のような、文字どおり思想・信条の自由という世界中のどこの民主国の憲法でも保障されている人間の普遍的な価値を侵す、法ならぬ法の成立をたくらむことを最初から封じてしまうためである。

治安維持法共謀罪テロ等準備罪も、また特定秘密保護法も、結局は権力者・支配者が、どんなに口では“自由と民主主義は人類の普遍的価値”と言おうとも、本心は、自国民を信頼していないからであって、また統治に自信がないからであって、むしろイザッというとき国民が政府に対して立ち上がり、自分たちの立場が脅かされることへの恐怖心ゆえの、自己防衛のための法なのであろう、と私は解釈する。

 権力を所持する統治者が、本来、一国の最高で最良の資産である国民を信頼し、その国民の福祉をひたすら願い、国民からも信頼され誇りに思われている統治者であったなら、つまり統治者が統治者と被統治者との間にそうした関係を築き上げられていたなら、どうして憲法を無視してまで、国民の内面にまで踏み込む法の成立に固執し、その実現を強行する必要があったろう。