LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その2

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以下は、「その1」に続くものです。

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その2

 以下は、「その1」に続くものです。

その際、参考にさせてもらったのは、以下の書物である。

いずれも元官僚だった人の著書である。

通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)。元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)。元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)。

 これらから見えてくる官僚、広くは役人の公務遂行上の手口とは、結局のところ、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもので、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということだ。そうすることで、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟める」としているのである。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を見破られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 しかし私はこれ以外にも気づいたことがある。それは、外に出す文書の中の文章では、つねに主語を明記しないことだ。すなわち「誰が」そうするのか、「誰が」それの責任を負うのかが判らないような文章表現していることだ。これも、極めて狡猾な行為だ。

 なお、元官僚らは、官僚が外に向けて出すあらゆる文書については、そこに用いる用語についても、それを読む国民には細心の注意が要る、と注意を促す。

 たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党の代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

 例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

 官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、元官僚はこう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と。

 要するに、官僚たちの国民に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにすること、あるいは全貌は知らせないようにすること、知らせるにも明確には知らせないこと、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまうこと、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、つまり意思決定の過程をも判らなくさせてしまう、というものだ。

 要するに、これらは、秘密主義を通す、ということなのである。

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり主人であり、自分たちはその主権者「全体の奉仕者」であるにもかかわらず、そしてそのことは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。例えば、その文書を書いた年月日が書かれてはいない。書いた部署名が記載されていない。そしてその場合も、既述のような官僚用語を駆使して答える。

そうした答え方の典型例は、情報公開法に基づく住民の情報開示請求に対して、国民が最も知りたいことについては「黒塗り」にして出す、というものだ。

 これがこの国の官僚すなわち役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているのである————問題は、本来公僕である官僚のこうした、主権者に対する公僕としてのあるまじき傲慢不遜な態度に対して、彼らをコントロールしなくてはならない、国民の代表でもある当該府省庁の担当大臣が何も諌められず、あるいは日本国憲法第15条では、その第1項において「公務員を罷免することは、国民固有の権利」と明記しているにも拘らず罷免もできずに、ただ傍観していることだ。こういうところからも、この国では、国を実際に動かしているのは官僚であって政治家ではない、すなわち実態は官僚独裁の国なのだ、ということがはっきりするのである————。

 以下は、さらに私自身が彼ら官僚の幾人かとこれまで直に接する中で確信を持った、冷酷で狡猾な手口であり、姿だ。

 1つ。

 自分たちが所属する府省庁の既得権益や組織が縮小するようになることには、その組織をあげて抵抗し反対する。

 そうならないようにするためには、この国を経済面で果てしなく発展させること。そしてそれを官僚間での暗黙の了解事項とすること。またそのためには、自分たちの所属する組織である府省庁が専管範囲とする産業界を優遇しては恩を売り、その見返りとしての「天下り」を確保すること。

 そしてそれをそれぞれの府省庁が確実に継続できるように、府省庁間では、互いに相手の専管範囲には干渉しないこと。つまり、行政の「縦割り」を断固守ること。

 1つ。

 この国では、政治家一般が自己の役割や使命を全く果たさず、無責任で自己に甘いことをいいことに、彼らを徹底的に利用すること。

 そのためには、政治家、とくに国の執行機関の長である首相、地方の行政機関の長である首長をオモテに立て、自分たちがウラに回って、自分たちの望むように彼らを操ること。

「自分たちの望むように」とは、自分たちの既得権益が減るようなことになったり、自分たちのやっていることに対する国民の自分たちの行政への不信が首長の耳に届かないようにするために、首相や首長の前に立ちはだかり、妨害すること。

むしろ首相や首長には、不都合な情報は握りつぶしながら、自分たちに好都合な情報のみを伝えては操って、その通りに国民の前にて発表させること。

つまり閣僚を自分たちのメッセンジャーにするわけである。

 1つ。

 とにかく自分たちの利益を守り、確保することを、つねに最優先する。

だから、表向きは国民の福祉を口にしながらも、実際には、それを実現することは二の次、三の次にすること。

 1つ。

 たとえ行政組織間の「縦割り」を当然として、他の府省庁の管轄範囲には踏み込まないことを府省庁間での暗黙の了解事項にするにしても、自分たちの組織を守るためには、他の府省庁の組織をも守ってやる必要がある。そうでなくては、自分たちの組織が危機という時、周りからも守ってもらえないからだ。

 したがって、どこの府省庁の官僚であれ、不祥事を起こしたり失敗したりして、国民からその原因究明を迫られたような場合には、公正を期すためには「第三者委員会」や「査問委員会」を設立してそこに対応してもらうのが正しいことは誰でも知っていながら、敢えて官僚の仲間内だけによる「調査委員会」を作って対応するようにすること。

 

 ざっと以上が、私が知ったこの国の官僚という官僚の、事に当たるときの冷酷さと狡猾さの実態である。

しかし、実は、官僚らの上記のいずれの手口も、明治期以来、天皇に対してさえそうしてきたと同じく、官僚の一貫した組織防衛の仕方であり、自分たちの野心を貫くための仕方であり、また自分たちが黒子となって公式の権力者を操ってきた操縦法なのだ。

つまり、官僚たちは巧妙に二重権力構造を作ってきたのだ。そんな狡猾さや冷酷さは何も今に始まったことではなく、彼らはそれらを、明治期以来、ずっと「組織の記憶」(K.V.ウオルフレン)として受け継いでいるのである。