LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その2

f:id:itetsuo:20201226193048j:plain

以下は、「その1」に続くものです。

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その2

その際、参考にさせてもらったのは、以下の書物である。

いずれも元官僚だった人の著書である。

通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)。元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)。元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)。

 

これらから見えてくる官僚、広くは役人の公務遂行上の手口とは、結局のところ、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもので、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということだ。そうすることで、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟める」としているのである。

ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を見破られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 

しかし私はこれ以外にも気づいたことがある。それは、外に出す文書の中の文章では、つねに主語を明記しないことだ。すなわち「誰が」そうするのか、「誰が」それの責任を負うのかが判らないような文章表現していることだ。これも、極めて狡猾な行為だ。

なお、元官僚らは、官僚が外に向けて出すあらゆる文書については、そこに用いる用語についても、それを読む国民には細心の注意が要る、と注意を促す。

たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党の代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、元官僚はこう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と。

要するに、官僚たちの国民に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにすること、あるいは全貌は知らせないようにすること、知らせるにも明確には知らせないこと、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまうこと、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、つまり意思決定の過程をも判らなくさせてしまう、というものだ。

要するに、これらは、秘密主義を通す、ということなのである。

 

住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であるにもかかわらず、そしてそのことは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。例えば、その文書を書いた年月日が書かれてはいない。書いた部署名が記載されていない。そしてその場合も、既述のような官僚用語を駆使して答える。

そうした答え方の典型例は、情報公開法に基づく住民の情報開示請求に対して、国民が最も知りたいことについては「黒塗り」にして出す、というものだ。

これがこの国の官僚すなわち役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているのである————問題は、本来公僕である官僚のこうした、主権者に対する公僕としてのあるまじき傲慢不遜な態度に対して、彼らをコントロールしなくてはならない、国民の代表でもある当該府省庁の担当大臣が何も言えず、ただ傍観していることだ。こういうところからも、この国では、国を実際に動かしているのは官僚であって政治家ではない、すなわち実態は官僚独裁の国なのだ、ということがはっきりするのである————

以下は、さらに私自身が彼ら官僚の幾人かとこれまで直に接する中で確信を持った、冷酷で狡猾な手口であり、姿だ。

 

1つ。

自分たちが所属する府省庁の既得権益や組織が縮小するようになることには、その組織をあげて抵抗し反対する。

そうならないようにするためには、この国を経済面で果てしなく発展させること。そしてそれを官僚間での暗黙の了解事項とすること。またそのためには、自分たちの所属する組織である府省庁が専管範囲とする産業界を優遇しては恩を売り、その見返りとしての「天下り」を確保すること。

そしてそれをそれぞれの府省庁が確実に継続できるように、府省庁間では、互いに相手の専管範囲には干渉しないこと。つまり、行政の「縦割り」を断固守ること。

 

1つ。

この国では、政治家一般が自己の役割や使命を全く果たさず、無責任で自己に甘いことをいいことに、彼らを徹底的に利用すること。

そのためには、政治家、とくに国の執行機関の長である首相、地方の行政機関の長である首長をオモテに立て、自分たちがウラに回って、自分たちの望むように彼らを操ること。

「自分たちの望むとおりに」とは、自分たちの既得権益が減るようなことになったり、自分たちのやっていることに対する国民の自分たちの行政への不信が首長の耳に届かないようにするために、首相や首長の前に立ちはだかり、妨害すること。

むしろ首相や首長には、不都合な情報は伏せながら、自分たちに好都合な情報のみを伝えては操って、首相や首長には自分たちに好都合な行政方針を国民の前に発表させること。

 

1つ。

とにかく自分たちの利益を守り、確保することを、つねに最優先する。

だから、表向きは国民の福祉を口にしながらも、実際には、それを実現することは二の次、三の次にすること。

 

1つ。

たとえ行政組織間の「縦割り」を当然として、他の府省庁の管轄範囲には踏み込まないことを府省庁間での暗黙の了解事項にするにしても、自分たちの組織を守るためには、他の府省庁の組織をも守ってやる必要がある。そうでなくては、自分たちの組織が危機という時、周りからも守ってもらえないからだ。

したがって、どこの府省庁の官僚であれ、不祥事を起こしたり失敗したりして、国民からその原因究明を迫られたような場合には、公正を期すためには「第三者委員会」や「査問委員会」を設立してそこに対応してもらうのが正しいことは誰でも知っていながら、敢えて官僚の仲間内だけによる「調査委員会」を作って対応するようにすること。

 

ざっと以上が、私が知ったこの国の官僚という官僚の、事に当たるときの冷酷さと狡猾さの実態である。

しかし、そうは言っても、少し考えれば気がつくのであるが、官僚らの上記のいずれの手口も、明治期以来、天皇に対してさえそうしてきたと同じ、官僚の一貫した組織防衛の仕方であり、自分たちの野心を貫くための仕方であり、また自分たちが黒子となって公式の権力者を操ってきた操縦法なのだ。

つまり、そうした狡猾さそして冷酷さは何も今に始まったことではなく、彼らはそれらを、明治期以来、ずっと「組織の記憶」(K.V.ウオルフレン)として受け継いでいるのである。

 

では、こうした官僚らの状況に対して、私たち国民は主権者でありながら————主権者とは、ここでも強調するが、国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を持った者、という意味なのである————、どうにもできないのだろうか。

そんなことはない。できるのである!

ではどのようにしてそれは可能となるか。

それは、私たち国民をはじめ、政治家も官僚も、共に、民主主義政治のあり方の原点に立ち戻ることによってである。何事もそうだが、人間、迷った時には、原点に、あるいは原理や原則に立ち戻ってみるのである。

これを正確に言うと、次のようになることなのだと私は思う。

まず国家を構成する主人公として、国民は、主権者としての義務と責任を思い出すことである。そしてそれを不断に果たすことである。

政治家は、国民から選挙で選ばれた国民の利益を第一にすべき「代表」であるということの意味を深く考え、そのことから生じる己の役割と使命の中身を徹底的に考え、それを議会においてであれ、政府においてであれ、不断に実行できるようになること。

そして官僚は、「公僕」とは何かを、自らよく突き詰めて考え、やはりそのことから生じる役割と使命の中身を徹底的に考えるとともに、反対に、「公僕」としてやってはならないことをも自ら確認し、それを執行機関である政府において、国の発展と国民の福祉の充実のために忠実に実行できるようになること。

そして、国民であれ、政治家であれ、また官僚、広くは役人であれ、互いにこうした社会的義務を迷うことなく果たせる存在になりうるためには、誠に「遅ればせながら」としか言いようがないのであるが、私たちは、今からでも、せめて、近代民主政治のあり方を理論的に確立してきた思想家であり哲学者でもあるジョン・ロックモンテスキュー、ルソーらの主張を学ばせてもらうことであろう、と私は思う。

思うに、私たち日本国民は、特に政治家を見ていてつくづく思うが、政治ということ、それも民主主義政治は如何に行われるべきかも知らなければ、それを行う上で是が非でも知って十分に理解していなくてはならない基本的な政治的諸概念をも知らなすぎると思う。知らないで、「知ったつもり」でいるだけなのだ。だから、例えば、国会を、真の立法機関にせずに、あいも変わらず、政府に対する質問の場にしていて、そこに居並ぶ誰も、疑問にも何とも感じていないのだ。そして「政治家」になったつもりでいる。

 

とにかく、特に政治家がそうした偉大な先哲から学んだままに、その精神を生かして行動するようになれば、そこではもはや官僚らは自分たちの思惑や恣意を立法や行政に差し挟める余地はほとんどなくなるのである。

それは次のような意味である。

政治家には活躍する場は、大きく言って二種類ある。一つは国会と地方議会を含むいわゆる議会だ。もう一つは、中央政府と地方政府を含む、いわゆる政府だ。その政府は、あくまでも議会が決めたことを、決めた通りに執行することを役割とする機関である。だから「執行機関」と呼ばれる。

そこで、前者、すなわち議会での政治家についてである。

選挙で選ばれた国民の代表である政治家は、選ばれるときには特定の一選挙区から選ばれるわけであるが、しかし、ひとたび選ばれたなら、もはや一選挙区の代表ではない。つまり国民全体の代表となるのである。それが「代表の原理」という考え方だ(山崎広明編「もういちど読む政治経済」山川出版社p.12)。

したがって、そこでは、自分の選挙地盤や後援団体の利益を考えていれば良いのではなく、国民全体の利益を実現させるという考え方に立たねばならない。

そしてその場合、議会での政治家は、多数派が数の力で強行採決をするようなことのないようにするための智慧として先人たちによって考え出された「審議の原理」にも立たねばならない。それは、少数意見を尊重しながら、公開の討論を経た後、最終的に多数決で議決するという考え方である。

議会での政治家は、一人ひとりがこうした「代表の原理」を踏まえた上で、末端の国民生活の具体的なところまでを絶えずよく観察して回っては、国民の総意としての意思や要求をきめ細かく汲み取りながら、自らが選挙時に有権者の前に掲げた「公約」をさらに実行可能なものへと高めるのである。そのためには、その公約を、実現方法までを考慮し、法律の裏付けを持った政策案にまで各自が秘書の力を借りて仕上げるのである。その上で、そうしたものを、それぞれの政治家が議会に諮っては、「審議の原理」に立って議会の政治家全員で議論し、議決するのである。

とにかく、今ままでは、立候補者は公約を掲げても、当選してしまえば、その公約を議会で実現させることなどケロっと忘れて、ただ政府に向かって質問しているだけだったし、議会の外でも、ただ次期選挙で再選されるための活動をして来るだけだった。

それでは一体何のための「公約」だったのか、何のために公約を掲げたのか、となるのである。この国では、選挙をただの儀式にしてきただけだと私が言うのは、そこに根拠がある。

ところが政治家は、そのことを誰も触れようとはせず、今の今まで、逃げてきたのである。

なおまた、そこでは、これまでそうであったような、「通常国会」とか「定例議会」にこだわることはもう止めるのである。議会は、最高権として、国家の目的である、国民の生命・自由・財産を守るための政策を法律の裏付けをもって定める、という本来の役割に徹するのだ。国民が重大な危機にあるときでも、議会を開かず、「通常国会」あるいは「定例議会」だけに拘る

こと自体、議会を形骸化することなのだ。

むしろ、国民に、その生命や自由や財産の安全を脅かす重大な事態が生じた際には、躊躇なく、速やかに、その都度臨時議会を開いてでも、新たな法制度をもって対応するようにするのである。その際、必要ならば、「御用学者」ではなく、科学的真実や結果に忠実な、権力に阿ることのない本物の科学者・専門家の助言を仰ぐのである————私は、国会をいつでも開催できるようになるためにも、やはり現行日本国憲法は改正する必要がある、と考える————。

それに、その議会も、これまでのような儀式化した質疑応答をもって本会議とするような子供騙しの茶番も、もうやめるのである。

とにかく議会がこのように本来の議会に立ち戻ることができれば、各府省庁の官僚が自分たちの組織に好都合な政策を、自分たちに好都合な法的な裏付けを持って定めるということはできなくなる。もちろん、そうなれば、そのために官僚たちはその都度利用してきた「審議会」やそれに連なる各種委員会などというものも、全く無意味化させることができるのである。

しかし、その場合、過去の事例を見ていると、官僚は、“そんな新たな政策や法律は既存の法体系には合わない、整合性が取れない”などと言っては、議会が新たな法制度を議決することには、組織を挙げて抵抗し、反発してくることが予想される。

しかし、政治家はそんなことに臆することはない。既存の法体系との整合性より、国民の要求を法にし、国民の利益を守ることこそが国民の利益代表の最大使命なのだからだ。それに、法理論上、古い条文よりも新しい条文の方が常に優先されるのだからだ。そしてそのためにも、法案の作成を官僚に任せるのはもうやめるのだ————実はこうしたことが、この国のこれまでの政治家は全くできなかったのだ。明治期以来、近代西欧の政治的・軍事的・経済的・社会的諸制度を取り込んできたはずなのに、それらの取り込み方が首尾一貫したものではなく、官僚にとって好都合なものだけをつまみ食い的に取り込んだだけだったし、それに政治家は追随するだけだったからだ————。

こうして、議会(での政治家)が議会(での政治家)としての本来の役割と使命を果たすようになれば、そこではもはや官僚の出番は実質的になくなるから、国民に対して冷酷かつ狡猾さをもって対応することさえできなくなるのである。

 

次に後者、すなわち政府における政治家についてである。それは首相であり、閣僚のことである。あるいは地方政府では首長のことである。

彼らも、議会での政治家と同じく、選挙で選ばれた国民の代表である。そしてそこには、やはり「代表の原理」が適用される。

そしてその場合、政府は、あくまでも議会が決めたことを、決めた通りに執行することを役割とする機関であるということを踏み外してはならないのである。

ということは、政府は、あるいはそこでの政治家は、国会が定めた法律の裏付けを持った政策を受け取り、それを国民の前に実現して見せることこそが最大の役割であり使命となるのである。

となれば、彼らが「国民の利益代表」としてやるべきことは、先ずは、議会が決めたことを、決めた通りに執行するための執行方法を政府内で、より正確に言うなら、国民から選ばれた代表である総理大臣を含む閣僚だけからなる政府の中枢である内閣で、議論して決めることなのである。

そしてそこでの執行方法とは、当然ながら、最少の資源————ヒトとモノとカネ————で最大の効果を生む方法という意味である。

つまり内閣の議論の場である閣議というのは議会が決めるようなこと、すなわち新たな政策や法律を打ち出したり、それを決めたりする場ではない。またそれは許されてもいない。「三権分立」とはそういうことなのだから————実はこの国は、こうしたことも、特に安倍晋三政権以降、当たり前のように破ってきている————。

国会決議内容を受けて、その執行方法を閣議決定したならば、その次にそこでの政治家(閣僚)がすることは、国民から負託された権力を正当に、そして公正に行使しながら、閣議決定した方法や手順や計画に基づいて、国民の僕(シモベ)である官僚、広くは役人という公務員を動かして、執行させることなのである。その場合、官僚のトップを通じて目的と方法を熟知させた上で執行させる。必要なら、その場合、公務員に対して、「こうしなさい」とか「あーしなさい」と指示する。また必要なら、その政策を最も効率よく実現できるようにするために、政策ごとに、組織の体制を閣僚自らが先頭に立って改めさせるのである。

その時にも、過去の事例を見るならば————特に鳩山民主党政権誕生の時がそうだった————、官僚たちは、それまでの組織や既得権益を守るために、その指図に組織を挙げて抵抗の意思を示すためにサボタージュして来ることが想定される。

もしもそうなったなら、その時こそ、閣僚は、憲法第15条の1項に則り、あるいは国民から負託された権力に基づく然るべき人事権を行使して、公務員の権利を守る法に臆することなく、抵抗を示す官僚を左遷または罷免すればよいのである。その場合、国民は、大臣のとったその対処法を当然支持するであろう。

すなわち、首相も各大臣も、これまでのような官僚の操り人形となるのはもうやめることなのだ。そして己の使命を全うすることに命懸けになるのである。そしてそれこそが、真の意味での、次期選挙で再選される最も確かな保障になるのだ。

ともあれ、そうなれば、そこでも、官僚らは、政策や法律の執行や運用にあたり、自分たちの思惑や恣意をさし挟むことができなくなる。それは、やはり、国民に対して冷酷かつ狡猾さをもって対応することができなくなることを意味するのである。

以上のことを議会の政治家と政府の政治家を合わせた全政治家が、不退転の決意で実行する。

そしてその過程で、これからの国会は、「国権の最高機関」として、これまで未決定あるいは曖昧なままにされてきた次のような統治上重要な事項を明確化して、国民が大惨事に見舞われた時には、あるいは多くの国民にその生死に関わる危機が及んだような時には、政府が最速で救援の手を差し伸べられるような国全体の統治の体制を整えてゆくのである。

それは例えば次のことである。

首相と知事と市町村長それぞれの役割と権限、中央政府と地方政府の管轄事項とその相違、衆議院参議院の管轄事項、国会の開会を決定できる権限の所在、国会での衆議院の解散権を衆議院議長に持たせること、中央政府と地方政府の法的地位と権限、非常事態と緊急事態の定義付け、極力戦争を回避するための二重三重の権限の仕組み、自衛隊の役割、クーデター時などでもシビリアン・コントロールが可能となる二重三重の権限の仕組みづくり、そして現実的に国民に役立つ天皇の役割と位置付け、等々である。

首相と知事と市町村長それぞれの役割と権限や、中央政府と地方政府の管轄事項とその相違を法的に明確化することがどれほど重要かは、それが全て曖昧なままにされてきたがゆえに、例えば、新型コロナウイルス禍の中で、中央政府と地方政府との間で、あるいは首相と首長との間で、国民への指示や要請の出し方をめぐってどれほど混乱を生じ、責任のなすり合いをしたか、そしてそれによって、コロナ感染者はもちろん、エッセンシャル・ワーカーとされた医療従事者もどれほど苦境に立たされたか、それを見ても明らかであろう————このことからも判るように、現行日本国憲法は不備だらけであるため、どうしても全面的に書き直されなくてはならないのである。そしてそのことは、憲法9条をどうするか、という問題よりもはるかに重要で、急がれることだと私は考えるのである————。

一方政府は政府として、総理大臣は、国全体の舵取り役を担いながら、国の最高責任者としての役割を、あるいは最終的な政治的説明責任の中枢としての役割を担うのである。

そして実は、こうした体制が整うことが、国民に対して冷酷かつ狡猾な官僚などはもう二度と生じさせないようになるだけではなく、この体制を既述の国家の定義に当てはめてみれば判るように、この日本という国が明治期以来初めて、本物の国家となり得た、ということでもあるのである。