今回からは、この国の形と姿を決める憲法についての私の見解を公開します。
その際、この国のこれまでの憲法論議のあり方と自民党が掲げる憲法案には特に注目していただきたいと思います。
第16章 国民の手による新憲法の起草と制定
16.1 なぜ今、新憲法を大至急制定する必要があるか
今、憲法に関心のある人々の間からは、憲法を巡って、「改正すべきだ」、「否、変えるべきではない」といった声がしきりと聞こえてくる。政治家の間でも、「とにかく、憲法論議を前に進めるべきだ」との声がよく聞かれる。
ところが、不思議なことに、そうした声を発する人々の間には、「そもそも憲法とは何なのか」と憲法の定義やその位置付けを明確にすることの必要性を訴える人は皆無に近い。
そしてそのことは、一部の憲法学者や特別な人を除けば、政治家についてさえ当てはまる。
安倍晋三氏などは、「憲法は国の理想を表現するものだ」などと堂々と語って見せる。彼特有の持論なのだろうが、後述するように、とんでもない間違いだ。そしてその説に対して、政治家の間でさえ、正面切って反論したり間違いを正したりする者もいないのだ。
つまりここでも、日本国民一般の「ものの考え方」とそれに拠る「生き方」の特徴が現れていると見るべきなのであろう、何かを始める時、物事の「意味」や言葉の「意味」あるいは「定義」、また歴史的事実の「意味」を問わないし、とにかく力の強い者、勢力の大なる者、声の大きな者には無批判に追随し、あるいはその風潮に便乗しようとするのである(5.1節)。
何れにしても、もし憲法とは何かを充分に知り、また理解していたなら、作られてから70年余を経ながら、日本社会の状況や人々のものの考え方そして世界状況は作られた当時とは激変しているというのに、これまで一度も変えようとはしてこなかったことそのこと自体が異常なことなのだ。そしてそのこと自体、憲法というものが、本当の意味で国民には理解されてはいないし、また国民の間で憲法が日常的に活用されてはいないことを実証している、とも言えるのである。
実際、世界では、憲法を持つどこの国も、状況の変化に伴って、憲法改正を実施しているのだからだ。
そこで、ここでは、生駒なりに、この日本という国の、これからの環境時代を見据えて、言い換えればこの国が真に持続可能な国となるために、これからの憲法はこう変え、こうあるべきではないかと考えるそれを、その根拠と共に、以下に明確にしようと思う。
しかしそれは決して憲法の一部を手直しして「改正」するというものではなく、全く新しい憲法を制定しようとするものである。そしてその作業は非常に急がれている、と私は考えるのである。
そう考える最も大きな根拠は次の4つである。
1つは、既にこの日本という国のこれまでの憲法は否定され破壊されてしまっていることである。その結果、法理論上は、はっきり言えば、無憲法状態になっているからだ(樋口陽一・小林節「『憲法改正』の真実」集英社新書p.3)。このことの意味はすぐこの後に述べる。
したがって憲法を土台にして成り立って来た他のすべての法律も、すべてその成立根拠を失っている。ということは、今この国は無法の国となっており、法治国家でもなくなっているということだ。この状態は、新憲法をもって、直ちに回復しなくてはならないからである。
もう1つは、安倍政権自身がこれまでの日本国憲法を否定し破壊しておきながら、憲法の何たるかを知らないがゆえに———安倍晋三氏が「憲法は国の理想を表現するものだ」などと堂々と語ること自身が、憲法に対する無知さ加減を実証している———自分たち政権与党がやって来たことの国賊ないしは国家反逆罪的な意味にも気付かずに、破壊した憲法をそのままにして、そこに、論理的整合性も取れない偏狭で懐古趣味的な自分たちの主義主張を表わす条文を書き加えて存続させようという支離滅裂な行動に出ようとしているからである。
もう1つは、近代を支配して来た経済システムである資本主義それ自体が今や次々と矛盾を露呈するとともに、その経済システムが持つ「飽くなきまでに利潤を追求してゆかねば資本主義そのものを維持できない」という本質によって、あらゆる自然は二の次にされてしまう結果、地球温暖化も、生物の多様性の劣化も必然となるのであるが、このことから、この先、地球の自然を回復し、人類がこれからも末長く存続できるためには、もはや資本主義は終焉を見たとしなくてはならない、あるいは資本主義とは決別しなくてはならないことは明らか。そしてその時、今やこれまでとは異なる全く新しい時代に突入しているという理解と時代認識を持たねばならないと思われるのであるが、そうであれば、国家の基本法である憲法も、近代の憲法の精神を踏まえつつも、近代を超える精神を盛り込んだ、新時代に相応しい内容と体裁を整えた憲法に変えて行かなくてはならないからである。
またそうしなくては、つまり古い憲法に基づく法律では、今後人類が直面してゆくであろう全般的危機、またそれに因る前例のない大規模で長期にわたる災難には対処できなくなるのは明らかだからである。
もう1つは、人が変わることで、解釈の仕方も変わってしまい、またそれが通ってしまうような、つまり恣意的な解釈の余地を残してしまうような条文からなる憲法は、やはり憲法として相応しくないからだ。
その象徴的好例が憲法第9条だ。その条文については、これまで、“集団的自衛権の行使は認めていない”と、「解釈」され、それが国内で通って来たのであるが、それを、安倍晋三政権になると、同じく「解釈」の上で、“同条文は集団的自衛権の行使は容認しうる”に変えてしまったことだ。つまり、事実上の憲法改定だ。
それも、憲法第96条には、「憲法改正の手続」が明記されているのに、それを完全に無視してのことだ。
これでは、国民は、憲法は国の基本法だとは判っていても、その憲法に対して安心感や信頼感を持てなくなるのは当然だからだ。
ということは、結局のところ、この国の法律の体系そのものへの国民の信頼感が揺らいでしまう、ということでもあるのである。
なお、既述の、“これまでの日本国憲法は、法理論上は、すでに否定され破壊されている”と述べた根拠は次のものである。
西暦2015年9月19日の未明、憲法に違反する「平和安全法制整備法案」および「国際平和支援法案」、いわゆる安保法制案、あるいは戦争法案が国会にて強行裁決され、可決、成立してしまったからである。
ではこれがなぜ、日本国憲法を破壊してしまったことになるのか。
周知のように、国家のあらゆる法律は、憲法に基づき、憲法の説くところに違反しないように制定されている。それは世界中のどんな立憲主義の国でも同じである。
そしてそれが、憲法が一般法の親、一般法の基準、一般法の土台といわれる所以である。
既述の戦争法はあくまでも一般法である。ところがその一般法である戦争法は憲法学者がいうところの違憲の法律なのだ。そんな法律が政権与党勢力によって国会にて強行可決されたということは、彼らは憲法あるいは国家の憲法体制に対して謀反を起こし、国家反逆を試み、その謀反をまんまと成立させてしまったということを意味する。このことは、これまで、曲がりなりにも機能して来た私たちの日本国憲法を完全に亡きものにし、憲法と憲法体制を「死」に追いやったということを意味する。
これが、前述の、「この国では、これまでの日本国憲法は、法理論上は、すでに否定され、破壊されている」とした根拠である。
したがって憲法が破壊されたこの瞬間、その憲法を土台にして、あるいはその憲法を根拠にして成り立って来たこの国の実定法としての一般法のすべても、その成立根拠を失ってしまったのである。
実はこのことが意味することは、少なくとも私たち国民の誰でもが、頭の中で想像しうるどんな事柄よりも重大で深刻な事態なのである。
そのことは、例えば、次のことを考えてみるだけでも、納得行くのではないか。
それは、それまで、その憲法に根拠を持つすべての実定法に拠りこの国を支えて来たすべての公的機関、公的制度、公的システム、それらのすべてが存立根拠を失ってしまったということだけではなく、行動もできない状態になってしまったということを意味するからだ。と言うより、それらはすべて無意味化してしまったのである。
したがって、もはや、国権の最高権力機関とされて来た国会の有する立法権も、内閣の有する行政権も、また最高裁判所を含む裁判所が有する司法権も、それらすべてが憲法が定めていることに基づくものであることを考えれば判るように、もはやその存在根拠を失い、行動できなくなっている、いや、それ以前にそれらすべてがもはや無意味化されているということである。
つまり、この国は、すでに、無国会、無政府、無裁判所の状態になってしまっているということだ。当然、三権の意味もなくなってしまっている。
したがって、そこでは、総理大臣という地位も、衆参両院議長という地位も、最高裁長官という地位も、無意味となっている。
だから、その意味では、このままでは、国会で質疑を行うことはもちろん、国会を開くことすらできなくなっている。国会解散ということも無意味化している。それ以前に彼らは政治家でさえなくなっているのだ。
全官僚・全役人を含む全公務員もその存在根拠は既にない。したがって活動もできない。
だから、もはや検察も警察もない。検察官や警察官も存在根拠はなく、無意味化している。
したがって、憲法がこの状態のままであったなら、たとえば誰かが他人の物を盗んでも、他者を殺しても、警察は容疑者を逮捕もできなければ、検察は起訴もできない。警察も検察も機能し得ないからだ。
また、ここで、もし自然大災害や大惨事が起こったとしても、その時、中央と地方の政府機関はもちろん警察も自衛隊も一切存立根拠を失い無意味化しているのだから活動できない。となれば、そのとき国中で見られるであろう混乱ぶりは、明らかに「3.11」とその直後の東京電力福島第一原子力発電所の水素大爆発の大惨事の時の比ではなくなり、凄惨を極めることとなるのであろう。
安倍政権によって憲法が破壊されたことによる事態の深刻さはそれだけではない。この日本という私たちの国は、もはや立憲主義も民主主義も消滅させられたのである。もちろん平和主義も、である。
つまり、もはやこの国は、法理論上は、無憲法、無法、無規律の国となってしまっていて、「法治国家」でなくなっているだけではなく、無政府の状態であり、無秩序の状態にあり、民主国なのか独裁国なのか、はたまた独立国なのか、それすらも定かではなくなってしまっている。言ってみれば、未開の状態、原始の状態あるいは万人の万人による闘争の状態に引き戻されてしまっているのだ。
これはもう、この国は国家であるか否かを云々する以前の問題であって、国中が完全に機能停止状態、あるいは機能を停止させねばならない状態に陥ってしまっていることなのである。
それをしたのは安倍晋三政権だ。
無憲法の国になるとはこういうことなのである。そしてそれは、その意味を考えれば考えるほど、私たち国民にとっては、これほど恐ろしいことはないのである。
しかし、ここで少し考えてみよう。
確かにこれまで述べてきたことは法理論上はこうしたことが言えるということなのであるが、そのような言い方をすると、この日本では、ひょっとすると、“理論と実際は違うんだ”などと当たり前のように嘯く御仁が出てきそうなのであえて強調するが、そもそもロックやモンテスキューそしてルソーらが打ち立てて、世界に広がって行った近代民主政治の体系そのものが理論的に出来上がっているのだ。その理論に従って、現実政治は行われているのである。
だから、法理論上言えることは決して無視してはならないのである。
ところが安倍晋三ら自公政権の政治屋らの現状を見れば判るとおり、無視したままだ。
では、それでもこの国が国として何とか維持して来られたのはなぜか。
それは、戦後のこれまで、この日本という国は、実質的に官僚によって主導され、それに政治家たちが追随するという形で維持されてきた、ということに拠る。もう少し具体的に言うと、政治家、すなわち主権者の代表であるはずの彼らは、議会においては、選挙での当選時、国民から負託された立法権を官僚(役人)に丸投げし、政府においては、官僚らやはり主権者から課せられた公僕をコントロールする役割を果たさずに、つまり国民と民主主義を裏切っては官僚らに追随すらして来た結果なのである。一方、それをいいことにして、官僚たちは、憲法が安倍晋三政権によって破壊される以前から、日常的に憲法を無視し、法律を無視し、つまり「法の支配」を無視しては、「縦割り」の組織構成を固持する中で、自分たちが所属する府省庁の既得権を維持あるいは拡大するために、恣意的かつ独裁的に、この国を運営してきた結果なのである。
こうした事態を招いた張本人は言うまでもなく安倍晋三を首班とする自民党と、そこに「中道政治」を立党の理念として掲げながら権力欲しさに連立して参加してきていた山口那津男を党首とする公明党の両党から成る内閣の閣僚と両党全議員である。
彼等は戦争の放棄、軍備および国家としての交戦権を自ら放棄した第9条を否定しただけではない。国務大臣や国会議員その他の公務員の憲法尊重擁護の義務を規定した第99条を否定しただけでもない。立憲主義を否定すると同時に民主主義をも否定したのである。
とりわけ安倍晋三と山口那津男は、文字どおり、この国を、この国の国民誰をも、身動きできない状態、どのように動いたらいいのか誰もがまったく判らない状態に陥らせてしまったのである。そういう意味で、安倍晋三と山口那津男は、国家に対する反逆や転覆を図り、国家そのものを崩壊させたのだ。
ところが、こんな重大で深刻で恐ろしい状態を自分たちがもたらしたことについては、安倍も山口もまったく気付いていない風だ。安倍晋三はケロッとした顔で首相を続行しているし、山口那津男も政党の党首を続けているからだ。いや、正確に言うなら、安倍も山口も、政治家としての自らの公的立場がすでに無意味化してしまっていることにすら気付かずに、首相や党首をしているつもりになっているからだ。
しかも、安倍晋三は、こうして自ら現行憲法を否定し、国家としての全機能を停止させ、この国を法理論上は原始の状況に陥れておきながら、今度は「憲法を改正」すると言い出している。その上さらに “人づくり革命”とか“生産性革命”などとも言い出している。
自ら否定し破壊してしまったものを「改正する」とは一体どういうことなのであろう。この国を法理論上原始の状態にしておいて、人づくり革命をするとか生産性革命をする、とはいったいどういうことなのか。
あるいは、日本を北朝鮮からの脅威から守ると威勢のいいことは言うが、今や文民統制(シビリアン・コントロール)すら働かせられる根拠も自ら失わせておいて、どうやって自国と自国民を守れるというのであろう。
自分のやっていることと言っていることが支離滅裂、矛盾だらけである、ということにすら当人は気付いていない。
とにかく安倍晋三は民主政治の仕組みの根幹すら、やはり知らなかったのだ(第2章参照)。憲法とは何かも知らなかったのだ。知らないで、一国の首相を3期も4期もやってきたのである。
知らないだけではない。安倍は既述のように、自己錯乱に陥っており、自己矛盾に陥ってもいる。そして先の国会解散の時の安倍の取った仕方が彼の人間性を象徴しているように、首相である前に人間としてきわめて卑劣で卑怯でもある。
このような人間に真の愛国心、真の祖国愛があるとは私には到底信じられない。しかし、そんな安倍を日本国民は政治家として選んでしまったのだ。
要するにこれは、安倍晋三も山口那津男も、実際のところは、憲法の何たるかを理解もしていなければ、憲法を土台にしてすべての法律の体系が成り立っているというこんな自明なことも判ってはいなかった、ということを証明しているのである。言い換えれば、二人を中心とする自民公明両党の全政治家は、口では何と言おうとも、近代という時代が打ち立てて来た立憲民主政治とは何なのかという根本すらも知らなかった、ということでもある。そのことを、このほど、国民の前に証明して見せてくれた、ということなのである。
だから憲法でも平気で破るのである。破っておいて、改訂あるいは解釈を変えようとするのだ。
そこで参考までに記せば、世界一の権力を持つことになるアメリカ合衆国の大統領が就任するに先立っては、歴代の大統領は全て、次のようにするのである。
それは、国民の注視する中で、左手を聖書の上に乗せたまま、右手を上げ、次のように、神に宣誓することだ。
“私○○○○は、厳粛に誓います。
私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行します。
私は全力を尽くして、合衆国憲法を、維持し、保護し、擁護します。
そのことを厳粛に誓います。
神よ、助けたまえ。”
安倍晋三を含め、日本の政治家の全ては、あるいはせめて政権を執った政党の政治家の全ては、自らの任に就くにあたって、たとえ自らが信ずる神はなくとも、主権者である自国民の前で、自国民に対して、全員がこうして厳粛に誓う必要があるのではないか。
約束事や決まり事をあまりにも軽く考え、無批判にアメリカに追従するだけの日本の政権政治家は、なぜこうしたことについては真似をしないのか。
ではこんな状態で私たち国民は今後どうしたらいいのか。
最も急がれることは、政治家とされてきた人々は、主権者である国民の合意を新たに取り付けた上で———今やその活動根拠だけではなく存在根拠も失われてしまっているから、国民の合意が新たにどうしても要るのである———、国会の権威を再興させるために国会を急遽開催し、憲法を破壊した当の二法「平和安全法制整備法」および「国際平和支援法」、いわゆる安保法制または戦争法を直ちに「白紙」にすることであろう。
そうすることで、破壊され、無きものとされた先の日本国憲法を先ずは復活させるのである。
しかし、である。
仮にそうして元の憲法が復活したところで、それでも、先に述べた根拠により、新憲法を起草し制定するという必要性がなくなるわけではない、と私は考えるのである。
それは、新憲法を大急ぎで制定する必要性とその根拠に関する3番目と4番目である。
とにかくこれからの憲法は、近代憲法を止揚したものでなくてはならないと私は考える。
でもそれは近代憲法を丸ごと否定するものではない。
近代憲法の骨格を成す「立憲主義」、「民主主義」、「平和主義」、そしてそのいずれの根底にも共通に流れる人道主義(ヒューマニズム)は堅持するのである。「国民主権」も「国民の基本的人権の尊重」も堅持するのである。
しかし、「ポスト近代は環境時代」と考えられるこれからの時代の憲法は、それらだけでは明らかに不十分だ。その理由は、現行の日本国憲法は、今でも頻発し、今後はますますそれが激化するであろうと予想される、それこそ前代未聞、前例のない事態に対応できる内容ではないし、国民がポスト近代を生き抜いていける指針を明確にした内容でもないからだ。
それに、この国は、これまで、民主主義の国とは言われて来たがそれは上辺だけで、実質は、再三述べてきたように、官僚独裁の国だ。そして本物の国家にもなり得ていない。政治家という政治家がその本来の使命と役割を果たしていない結果だ。
そのために、16.3節に述べるつもりであるが、予め国民に明らかにされていなくてはならない重要な事柄の多くが不明のままなのだ。