LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

9.2 この新しい選挙制度の実施により期待される効果

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9.2 この新しい選挙制度の実施により期待される効果

 この新しい選挙制度が国民の総意としての決意により実現され、真に公正に実施されたなら、それによって得られると期待される効果は以下に記すように、大方の人々が考えるであろうと思われるそれよりはるかに多くのものがあるのではないか、と私は考えるのである。

それは、これまでとは違い、今度こそ、私たち国民が、私たちの手で、真に「俺たちが選んだ俺たちの代表」と言える人物を「本物の政治家」として、生み育てられるようになるからである。

 その効果を具体的に、そして順不同にして記せば次のようになる。

◯この国を、ようやく、本当の意味での国家と成しうるようになる。

それは、この国が、真の「国民の代表」たちによって、議会が本来の議会となり、「本物の政治的な指導者」————ここでは、大統領————とその彼によって任命された閣僚たちによって政府が本来の政府となり、この国の中央から地方に至る統治の体制が整った本物の国家と成しうる、ということである。

議会が本来の議会となるとは、国会を含む議会という議会が議会独自に法律・条例を定め得る真の議決機関となるということであり、政府が本来の政府となるとは、議会が議決して公式のものとなった政策や法律を、整えた統治体制の下で、最高度に効率良く迅速に執行する真の執行機関となる、ということである。

 このことは次に述べるような多くの重要なことが実現されることを意味する。

それは、国会を含む議会という議会が、この国でも、ようやく真の意味での「言論の府」となり、特に国会は名実共に国の唯一の立法機関となり、真の意味での国家権力(国権)の最高機関となる、ということである。

それは、これからの議会が、これまでのような「三権分立」の政治原則を破っては内閣相手の「質問」という名ばかりのそれも「儀式」としての「論戦」ばかりをして来た場ではなくなり、つねに国民と国家に対する忠誠心の下で、主権者の「生命・自由・財産」を最優先に守るための真の議論を展開させる場となることを意味する。

 このことはまた、これまで国会内において行われて来た、密室での、あるいは報道陣を排除した形で行われて来た特定の政党間だけの「国会対策委員会」という事実上の「談合」も自動的に消滅させられることをも意味する。

それは、この新制度そのものが、前節で述べて来たように、国会を本来の国会とする上では、政党ないしは派閥というものをもはやそれほど大きな存在意義があるものとはみなさなくなるからだ。

 それにこの国会対策委員会こそ、国会を本会議前に議論の行方と決着のさせ方を決定してしまい、それゆえに議会を儀式会場化させてしまうために、国権の最高機関である国会の権威を損ない、「言論の府」であることを名ばかりのものとしてしまう最大の要因の1つともなって来たものだったのである。

 なお、既述の政府が本来の政府となるとは、言い換えれば、政府が、特に中央政府の場合、その中枢である内閣が、これまでのような、国会を無視した「閣議決定」をするような政府ではなくなる、ということでもある。

 それはさらに言い換えると、政府の中枢である内閣の議論の場である閣議が、まともな議論もせず、各府省庁の官僚のトップである次官たちの全員一致になる合同提案案件の追認儀式の場でしかない、ということももはやなくなるということでもある。

 ということは、この国は、明治期以来およそ150年間、延々と続けられてきた「官僚独裁」を、ここへきて、ようやく、国民の手でやめさせられるようになる、ということを意味する。

このことの意味は、国民にとって、計り知れなく大きい。

なぜなら、官僚たちは、独裁を維持するための権力をもはや行使し得なくなるからだ。

憲法上からも明らかであるが、本来は公僕である公務員には与えられてはいない、また与えられるはずもない権力を、これまではしょっちゅう闇で行使して来たが、そしてそれを総理大臣も閣僚も放置して来たが、それがもはやできなくなるからだ。またたとえその権力を行使しても、それは全く意味をなさないものとなるからだ。というのは、これからは、政府の政治家すなわち国民の代表である大統領と、大統領に任命された閣僚らが、これもこれまで延々と慣例として続けられて来た「政府内組織の縦割り」をも突き崩しながら、官僚らをきちんと国民の代表としてコントロールし、また官僚の勤務状態をチェックするようになることから、各府省庁の官僚たちは公務を、それぞれの責任を明確にしながら、勤務しなくてはならなくなるからだ。

 とにかく、政府という政府が、真の政府となる、とはそういうことなのだ。

 そうなれば、これまで巧妙に続けてきた狡猾な手法、すなわち、自分たちに好都合な専門家を選任しては審議会や各種委員会を立ち上げ、座長や委員長をも自分たちで決めては、立ち上げたそれらを自分たちの望む方向に仕切っては、自分たちの所属する府省庁に利益をもたらす答申をさせては、それをもって自分たちの担当ボスである閣僚に立法や制度設計を促すという仕方がもう取れなくなるからである。

 なお、官僚独裁政治を止めさせられるということは、いうまでもなく、それだけこの日本という国を、ようやく国民の悲願でもある本当の意味での民主主義(政治)をも実現しうる下地ができるということでもあるのだ。

 いずれにしても、もはや議会での政治家は、三権分立の原則を破って、議会で「質問」ばかりしていることはできなくなる。政府の政治家も、官僚組織の「お飾り」であったり、「操り人形」であったりしていることも、もうできなくなるのである。 

 

 ところで、私は、先に、この国の官僚たちは、少なくとも明治期以来この方、事実上の独裁を維持するために、本来彼らには国民から与えられてもしない権力(=ヤミ権力、あるいは非公式権力 K.V.ウオルフレン)を、政治家がそうした権力行使の仕方をチェックしないことをいいことにして行使しては、それを果たしてきた、と述べた。

 実はこのことに関しては、例えば朝日新聞毎日新聞も、もちろん讀賣新聞も、そして自ら「公共放送」と自任するNHKも私の知る限り一度も取り上げたことはないし、国民に情報として流したことはないのではないかと思うのであるが、官僚のこうした狡猾な手法は、私たち国民は、絶対に知っておかねばならないことだと、私は考える。

それは、一言で言えば、それは「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」と言えるものだからだ。

 なお、ここで言う官僚には、政府の官僚だけではなく、軍の官僚も、財界の官僚も含まれる。

 実際、昭和10年代における日本は、軍の官僚らによって乗っ取られ、動かされ、その結果、国民は、何も知らされないまま、アジア・太平洋戦争に引き摺り込まれて行ったのだ。

 では、その「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」とはどのようなものを言うのか。

 もちろんもともと公僕たる官僚たちには、特に民主主義の国では、そんなことは絶対に許されてはいないのであるが。いわゆる「シビリアン・コントロール」もそのためにこそあるものなのであるが。

 それは、表向きは、頂点あるいはトップに公式上の権力者・権威者を立てながら、自分たち官僚は、裏に回って、つまり黒子となって、その権力者・権威者を言いくるめ、あるいは説得しては、自分たちが実質的な権力を握り、公式上の権力者・権威者を自分たちの思う通りに操り動かすという手法のことだ。

 最も象徴的な例は、明治期、天皇を「現人神」として統治機構の頂点に立たせ、「建国神話」と「万世一系」を捏造してはそれをまことしやかに流布させ、その統治機構に「天皇制」と命名しながら、特に天皇は自分の意思をはっきり表明しない傾向があったことを一層幸いとして、その天皇を自分たちの思い通りに操ってきたことだ。

 戦後においても、その手法は基本的には続けられてきたと言えるのではないか。

総理大臣や閣僚を国民の前面に立たせながらも、実際には、官僚たちがその裏で、筋書きを作っては、それをもって総理大臣や閣僚らを操りながら、結局は自分たちの思うように国を動かしてきた、と。とにかく総理大臣も、閣僚も、皆、官僚の作文を読まねば、国会でも、メディアの前でも、政治と行政の状況をまともに説明もできないのだからだ。

言い換えれば、総理大臣も閣僚も、いわば、官僚組織のメッセンジャーに過ぎないのだ。

 もちろん、上述した、審議会や各種政府内で、自分たちがヤミ権力を行使しては、自分たちが立ち上げた全ての会議体を、表向きは座長なり委員長なりを立てながらも、実質的には自分たちが自分たちの思惑通りにその会議体全てを仕切っては、自分たちに好都合な立法なり政策実現へと結びつける答申を出させてきた行為もそれだ。

 とにかく、この国の官僚たちの手口は限りなく狡猾で汚い。そして国民に対して冷酷だ(7.1節)。

 ともかく、こうした官僚たちの一連の「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」に拠る行為が政治家のチェックなしでまかり通ってきたということ、また今もまか通っているということは、これまで幾度も明確にしてきた民主国家の定義の中の「合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.6)の一字一句、きちんと照合してみれば、この観点からも、この私たちの国日本は、これまでは本当の意味では国家ではなかったし、今もなお国家ではない、と断言できるのである。

 今、東京は霞が関の府省庁に働く官僚たち、また全国に出向している官僚たちは、その官僚になりたての頃は、多分誰もが高邁な志を持っていたのであろうが、「朱に交われば赤くなる」で、また明治期以来の「組織の記憶」も手伝う中で(7.1節)、本人たちも気づかないうちに、人格的にも思考的にも、こうした、みすぼらしく、醜く、人間として最低とも言えるレベルにまで堕ちてしまうのであろう、と私は推測するのである。そして日本の政府の府省庁は、おしなべて人間一人ひとりをそのように変えてしまう体質を明治期以来、ずっと持ち続けている組織なのであろう、とも私は思う。

 何れにしても、こんな欺瞞に満ちた統治体制をとってきた政府というのは、先進国、新興国、途上国の全てを含めても、つまり世界で唯一日本だけであろう。

 とは言え、こうなるのも、結局のところ、何と言っても国民が政治に無関心で来たからなのだ。国民一人ひとりが、祖国と自身に責任を持たずに「あなた任せ」で来たからだ、と私は確信する。嘆いても始まらない。自業自得なのだから。

 

◯この選挙制度が実現されたなら、これまで続いてきた、弊害ばかりが目立ったいわゆる「政党政治」を事実上消滅させられる。少なくとも「政党」というものは、これまでほどの意味はなくなる。

それは、既述したように、この新選挙制度は、立候補者がどの政党に属しているかいないかということはほとんど関係なく、あくまでもその立候補者自身が公約として掲げる政策案がより多くの有権者によって支持されるか否かで政治家になれるか否かが決まる選挙制度であるからだ。つまりこの新制度は、政党本位ではなく立候補者が掲げる政策本位で全有権者から選ばれる方式の選挙制度であるからだ。

 だからこの新選挙制度は、民主主義の根幹を壊すことになる「一票の格差憲法違反」(2012年12月、最高裁判決)などといった事態をも、最初から起こりえなくする。

 実際、選挙区は、国政選挙であったなら国全域が一つの選挙区となり、地方政治レベルの選挙であったなら、州あるいは地域連合体の面積的範囲の全域が一つの選挙区となる。

 なお、政党政治が終わることは、以下に挙げる効果をもたらす。

①これまで数え切れないほど繰り返されてきた贈収賄事件という「政治とカネ」の問題、あるいは「金権政治」をここへ来てようやく止めさせられる。

それは、政党がなくなれば、あるいはあっても大して意味もなくなれば、政党があったればこそ意味を持ち得た「企業または団体からの献金」という名の事実上の賄賂も意味を持ち得なくなるからだ。

かといって、企業や団体は個人には献金しないであろう。献金しても意味はないからだ。

なぜなら、議会では法律も政策も、個人からなる政治家同士の議論の結果としての多数決で決まるものだからだ。

②ということは、言い換えれば、これから作られてゆく法律や制度は、その内容において、社会の様々な階層に対して、これまでよりはるかに公平な内容のものとなることが期待できるということである。

 なぜなら、「企業または団体からの献金」が意味を持った政党政治の時代には、その献金は、少数政党にも寄せられはしたが、額の面では圧倒的に数の力で勝る政権政党に寄せられてきたわけだし、その結果、とくに税制面や金融面等では献金をした特定の産業界や社会の富裕層に有利な法律の成立を可能ならしめ、そのために社会には不平等あるいは貧富の差や格差を拡大させてきたが、もうそうした状況は生まれ得ないからだ。

 したがってこのことは、次のようにも言い換えられる。

政治が産業界(財界)や特定の圧力団体によって歪められ、また支配もされて来た歴史が、これでやっと終ることになる、と。

 

◯もちろんこの新選挙制度は、自動的に、これまではむしろ当たり前とされてきた「一票の格差」をなくし、かつこれもこれまではほとんど顧みられることはなかった、膨大な「死票」が生じることをもなくしてくれる。

これまでの小選挙区比例代表並立制による選挙制度は、既存大政党に圧倒的に有利な制度でしかなく、その上大量の「死票」を生んでしまう選挙制度でしかなかった。

それ自体「法の下での平等」に違反していることだし、“一票の重みが憲法違反の状態にある”ということを云々する以前に、この選挙制度自身が民主主義の実現を阻む制度となってきたということなのだ。

 実際、たとえば、得票率が比例代表で28%、小選挙区で43%という過半数をはるかに下回る得票率でも、全議席の8割の議席を獲得できてしまうなどということは、見方を変えれば、比例代表で72%、小選挙区で57%に上る票を投じた人々の意思が無視されたままでも政権が執れてしまう制度であるということである。

 このこと自体、いやしくも政治家を志す者だったなら、当然「異議」をとなえるべきことなのではないか。それを放っておいて、平然と政権(政治権力)を執ったつもりになっているということは、それだけで、選挙の意味も目的も知らなければ、民主主義そのものすら知らないということがはっきりする。なぜなら、そのような政権は国民を代表しているとはとても言えないし、国民の信任を得ているとも到底言えないのだからだ。

したがって、それに目もくれず政権についていることは、それ自体、卑しい目的で政治家になっていることの証左だ。

 そもそも小選挙区で落選した者が、つまりその地域では支持されなかった者が比例選挙区で復活当選してしまうなどということそのものを「オカシイ」と判断できないこと自体、政治家になる資格もないのだ。

 ところがこれまでは、そんな政党が、数の力に任せて、議会で横暴を振るい続けてきた。

でも、もう、これからは違う。

 

◯ この新選挙制度が実現されれば、政治家のコントロールの下、役人(官僚)は国民の真の「全体の奉仕者」となり、真のシモベ、真の公務員となる。

 これは、これまで述べてきたことから明らかであろう。

議会の決定を受けた政府の政治家は、議会制民主主義の実現のために、議会が決定したその政策を決定されたとおりに執行しなくてはならなくなる。

そこでは、官僚はもはや、ヤミ権力という法律に拠らない権力を行使している余裕など全くなくなるのである。

それに、これからは、官僚は、必要に応じて閣僚によって、役人のやっていることを国民にありのままに説明させられるようになる。そのとき国民から、“何故それを、そのようにするのか?”、あるいは、“何故、こうしないのか?”、“誰のためにそれをやっているのか?”、“何のためにそれをやっているのか?”等々と厳しく問われ、チェックされるようになる。

 また、これからは、これまで「当たり前」に行われてきたたとえば「行政指導」あるいは「通達」というヤミ権力の行使も、政治家のチェックの下で、厳禁となる。

もちろん、公文書を改竄したり廃棄したり、あるいは政策決定上の判断基準となる統計処理を誤摩化したりするのは、公僕としてすべからざることとして、直ちに「罷免」に結びつくことになるのである。

 

◯ この新選挙制度は、選挙が行われる全地域にとっては、地域連合体であれ、州であれ、連邦であれ、公平で、全地域に政治家の目が行き届いた政策が期待できるようになる。

 このことのもたらす意義も限りなく大きい。

 これまでは、国政選挙でも、都道府県選挙でも、市町村選挙でも、選挙区割りがされていて、そこから立候補してくる誰かを選ぶという方式の選挙だった。またそれしか選択肢はないという方式の選挙だった。そしてこれまでの選挙では、立候補者を選ぶ際の有権者の選択根拠は、概して、当選したとき、自分たちの区域にどれだけの額の補助金中央政府から分捕って来れるのか、どれだけ利益誘導が出来るのかということであった。そしてそれが、立候補者の政治家としての「能力」や「手腕」を評価する基準となって来た。

 一方立候補者の方も、そうした有権者の期待や要求に応えることが自身の主たる「政治活動」と錯覚するようになっていた。

 つまり、政治家も、市町村全体とか、都道府県全体とか、国全体という視点で政治を考えるのではなく、選挙地盤とか選挙母体あるいは選挙後援会のみに配慮するような政治を行うようになり、またそれが当たり前と考えるようになっていた。

 しかしこの新選挙制度は、基本的には連邦全域、または州の全域、あるいは地域連合体の全域が自分の政治活動域となるのであり、それだけに、有権者の側も、政治家に対して地域エゴや住民エゴを主張し、要求しても大して意味を持たなくなる。

 それは、政治がそれだけ広域性をもち、政治家は選挙範囲の全域に公平に行き届いた政策を展開せざるを得なくなるということである。

 これが、この新選挙制度がもたらす意義の第1である。

 意義の第2は、そうなれば、各政治家も、限られた時間と公的に支給された活動資金の中で、必然的に優先順位を考えて政治活動しなくてはならなくなるので、政治課題の重要度と緊急度ということをいつも考えるように習慣づけられるようになる。

 そして有権者も、自分たちのエゴを通すことよりは地域全体の利益や福祉を日頃から考えるようになると期待されるのである。

 これは、国民全体の民主主義政治に対する理解と意識が高まることであり、「経済は一流だが、政治的には三流、五流」と評価されてきたこの国全体の政治的レベルが向上することでもある。

というより、今日、先進国ほど選挙のあり方が形骸化してきていて、ポピュリズムだとか、白人至上主義だとか、移民排斥主義だとかが大きな勢力となってきている中で、ここに提案するような選挙制度を世界に先駆けて実施できれば、一躍世界から、注目されるようになり、政治面でも見直されるようになるのではないだろうか。

 

◯この新選挙制度は、間接的に、官僚・役人たちの税金の巨大な無駄遣いをも止めさせられる。

それは、これからは、官僚・役人たちが自分たちの所属組織の利益実現のために好都合な立法したり、政策を決めたり、また予算を組むということが、実質的にできなくなるからだ。

その「予算を組む」ということの中には、一般会計だけではなく特別会計をも含む。

それらは、これからは、国会を含む議会の政治家たちが主体となってそれをするようになるからだ。

 そのことは、これまで明治期以来ずっと「公共」なる言葉を冠しては、官僚・役人が、彼らの既得権益確保のために実現させてきた類の事業を行うことは全て不可能となることを意味する。

これからは、前節(9.1節)で述べてきた、各政治家が立候補する際に有権者の前に掲げてきたA種とB種から成る公約の中のいずれかが基本となって議会を通過したものが政府の「公共」事業となって執行されるようになるからだ。

そしてそうなれば、国民から収められた税金は、今度こそ、真に国民の「生命・自由・財産」を守り、国民の福祉と健康を守ることを最優先にして有効利用されるようになるからだ。

 そしてその時は、税金が真に国民の福祉のために最大限に効果的に使われるようになることから、国民が納めるべき税金も、これまでよりも格段に減らせられるようにもなることが期待されるのである。

 

◯官僚たちによって続けられてきた「天下り」や「渡り鳥」をもやっと止めさせられるようになる。

 それは、この新選挙制度が実施され、国会での政治家たちが国民から支持された公約に基づき自ら立法するようになれば、官僚たちは、産業界を最優先的に優遇する立法あるいは政策を思い通りに作ることができなくなるからだ。またそうなれば、特定の産業界にとっても、もはやその官僚はこれまでのような存在価値はなくなるからだ。

 別の言い方をすると、これからはこの新選挙制度によって生まれてくる「本物の政治家」によって、これまでの実質的な官僚独裁は崩壊させられるからだ。当然その時、官僚による業界支配と既得権益保持ができてきた時代は終わる。

 そもそも「天下り」とか「渡り鳥」とは、官僚たちが実質的に立法権を持ち————それは、政治家が官僚に立法権を丸投げしてきたからなのであるが————、国民よりも産業界をつねに優遇する政策や法律を作る中で築いてきた、官僚とその官僚組織が専管範囲とする産業界との間での暗黙の「持ちつ持たれつの関係」、あるいは「互いにWIN・WINを維持する互恵制度」のことで、官僚を厚遇を持って受け入れてくれた特定産業界あるいは企業に対して、その官僚が、その見返りとして、元所属していた政府内の府省庁の動向を情報としていち早く提供することで成り立つ、産業界の官僚受け入れ制度あるいは官僚の特定産業界への売り込み制度のことだ。

 その天下りには各府省庁によって様々なものがあるが、その中でも、官僚にとって最高に「うま味」のあるのは、多分、経済産業省原子力行政に関わっていた官僚が電力会社に天下ることであろう。その場合には、年俸が、億単位になるとされるからだ。

 なお「渡り鳥」とは、天下って後、二、三年すると、その間、億単位の年俸を手にしながら、また別の企業に移り、さらに二、三年すると、また別の企業に移るという、まるで渡り鳥のようにして、第二、第三、第四の人生の送り方をする元官僚のことを言う。

 

◯これも言うまでもないことであるが、これまでの政治家の無責任・無能・放任をいいことに官僚たちが好き勝手に作り続けてきた、たとえば特殊法人、財団法人、社団法人、そして政府の外郭団体等の、業務内容をでっち上げては官僚の雇用を拡大あるいは確保することを主目的とするいわゆる「公益法人」も、この新選挙制度から誕生してくる「本物の政治家」によってすべて解体または廃止されることになる。

 この場合、国民生活にとって本当に必要な仕事をしている公益法人もあるが、それらも、一旦はすべて解体され廃止されることになる。

それは、これまで幾度となく話題に上っては、結局は、官僚たちによって骨抜にされて終わってきた行政改革であったが、今度こそ、「本物の政治家」によって、根源的かつ全般的な公務員制度そのものに関する大改革が行われることになるからだ。

 とにかく、自分たちが何の苦労をしなくても、そして黙っていても、「税金」というお金が入ってくるために、そしてそれが「当たり前」という感覚であるために、官僚・役人には“人様のお金をありがたく、そして有効に使わせてもらう”という感覚、「コスト意識」がまるでないのだ。だから、その税金を、まず自分たちの利益確保のために使う。

 もう、そんな公務員はいらないのだ。というより、有害無益なのだ。

そのことによって、中央政府も、地方政府も、無用な公務員を一体どれほど削減できることか!

またその結果、どれほど税金が助かり、その分、「本物の政治家」たちはどれほど有効な使い方ができるようになることか!

 

◯ この新選挙制度は、政治と行政に機動性を持たせられるようになる。

 政治、すなわち議会においては、政治家の定数をこれまでよりも格段に減らすことが出来、そうした状況の中で、議会の政治家同士だけで集中的に徹底した議論ができるようになり、また議決できるようになるからだ。しかも、それでも、国民の政治的要求には十分に応え得るようになると考えられるからである。

なお、その議論の際、必要ならば、関連分野の信頼できる専門家や知識人を必要数、招聘しては彼らの適切な助言を求めればいいのである。

 何故それで国民の政治的要求に対応できるかというと、各政治家が、国と国民にとって早急に解決されるべき重要な課題の幾つかとその実現方法を公約としてすでに携えて立候補し、それが支持されて政治家となって登場して来ているからである。

 そうでなくても、これまでの国会を見ても、本会議であれ予算委員会であれ、衆議院参議院いずれも、議論しているというのではなく、一方はただ質問し、他方はただ答弁しているだけというものである上に、衆議院の場合には480人いるというのに、また参議院の場合には242人いるというのに、質問に立っているのはいつもただ一人、答弁しているのはいつも政府側の人間という関係で進められてきた儀式にすぎないものだった。

しかもその答弁内容は、いつも、国民の代表でもない官僚の作文によるものだ。

 しかもその場合、質問している者以外の議会側の者はその間何をしているかというと、その質疑応答というやりとりに注視している者もいれば、ただ席に腰掛けているだけの人、中には居眠りをしている人さえいる。

 つまり、その質疑応答の中には他者は入ってゆけない仕組みになっている。儀式だからだ。

したがって、目の前の一つの問題をそこにいるみんなで共有して、その問題に関してみんなで丁々発止の議論をする、ということができないのだ。

これは、他の政治家の考えや知恵が活かされないという意味で、極めてもったいない議会の過ごし方だ。

 しかしこれからは違う。各政治家が掲げてきた公約を、議会では、優先順位をつけた上で、その一つひとつをみんなで共有し、適宜専門家の助言の下、みんなで本音の議論を徹底的にしては、みんなで一致点を見出し、それを議決するのだ。

 そうすることで、議会としては、それぞれの公約について十分な議論を尽くしながら、次々と国民の要求に対応しうる政策を打ち出してゆくことができるようになる。

つまり、小回りのきく議会と成しうるわけである。

 ちなみに、連邦議会議員の数は、現行の722名(衆議院480人、参議院242人)の十分の一ぐらいにまでは激減させられるのではないか、と私は考える。

そうでなくても、たとえば前章(第8章)で提案した新しい国家(=連邦国家)の形態を国民が選べば、連邦として負わねばならない政治と行政の分野は、たとえば連邦全体の国土・食・環境の安全保障、外交、防衛、通貨、鉄道、郵便の分野と、中央と地方の各政府間の権力間の調整だけとなって、役割範囲は激減するだろうからだ。

州や地域連合体に関わることについての権限や財源は、州や地域連合体に移管されるからだ。

 また、そうなれば、それに連動して、中央政府での公務員の数も、「一般職」について見た時、今のおよそ28.8万人(令和2年度)を3万人くらいまでは減らせられるようになるのではないだろうかそうでなくても、政府内の組織間の「縦割り」がこれからの本物の政治家たちによって解消されれば、それだけでも、これまでのような、互いの組織内での重複業務の必要はなくなるのだからだ。

そしてこのことは同時に、これまでかかっていた莫大な人件費も大規模に減らせるようになることをも意味する。

 一方、行政、すなわち政府については、連邦政府についても、州政府についても、そして地域連合体政府についても、各レベルでの全政治家の協力の下で、これまで官僚・役人らによって作られてきた組織の「縦割り」は解消され、統治の体制は整えられ、この国は、本物の国家となり得ているから、議会が議決して公式となった政策や法律を国民の代表である政治家の指揮監督の下で、国民から納められたお金(税金)も最大限有効活用されながら、しかも情報はつねに政府内全組織に共有されながら、官僚たちに最大限速やかに、かつ効率良く執行させることが可能となる。

 

◯ 国民の政治への関心と期待が格段に高まり、政治への信頼も格段に高まるようになる。

 これまでの選挙制度では、有権者は、たとえばこんなことを実現して欲しいと切実に思っていても、それを掲げる候補者が出て来なかったなら、とにかく立候補した者の中から選ぶしかなかった。それがイヤだったなら白票を投じるか棄権するしかなかった。

 またこれまでの選挙制度では、有権者は候補者の掲げる政策案上の手直しや拡張には直接は関われなかった。そのため、選挙制度そのものが有権者にとっては受け身の制度でしかなく、それだけに選挙への関心も、候補者が掲げる公約次第、選挙の際の「争点」次第、となることが多かった。それだけに投票率も安定したものとはなり得なかった。

 多数を占めた政党の内部だけで決まった代表が実質的には自動的に総理大臣になってしまっていた現行の議院内閣制の下では、国民は国の公式の最高指導者を自分たちで選んだという実感を持てなかった。多数党内部での「派閥の論理」で決まってしまっていたからだ。オレたちの与り知れないところで決っただけだ、というどこか白けた感覚しか持てなかったのだ。

 しかし新選挙制度では、有権者は政治家を選ぶ過程で、候補者の政策討論会や意見交換会に参加でき、政策案決定にも直接関わることができるようになる。

 それだけではない。

この新選挙制度は、私たち国民が直接私たち国民の最高指導者を選ぶことができるようになるのである。したがって、“○○○はオレたちが選んだオレたちの最高指導者なのだ”という誇りをも持てるようになる。同時に、選んだ最高指導者に対して国民は親近感をも抱けるようになるだろう。それだけ国民にとっては政治が身近なものになり、政治への関心が今までになく高まることも期待できるのである。

 また新選挙制度は、政治家に対して、国民の代表であり、指導者であり、それだけに模範的な言動を明確に要求する。そのため、政治家は自分の持てる全能力と全人格をもって政治に当たらなくてはならなくなる。そしてその姿は絶えず主権者のチェックと評価を受けることになる。陰での不正も出来なくなる。もし不正が発覚したなら、その者は、もうほとんど二度と政治家になる資格を失うからだ。こうして、これまでの“政治家は信用できない”という見方は変わってゆくことが期待できるようになるだろう。

 一方、私たち国民も、政治家の真摯な姿を見ることで、徐々にではあるが政治への信頼を取り戻して行き、物事を政治的に解決を図ることの必要性と重要性を学ぶことになるだろう。

 

◯なお、言うまでもないことであるが、この新選挙制度は、官僚組織の既得権を脅かし、官僚独裁体制を終らせようとする有力政治家を、法務官僚とも一体となって、「政治資金規制法」という法律を恣意的に運用しては潰して来た、官僚らの有力政治家の政治生命を葬ろうとする常套手段をも、もはや使えなくさせ得る。

 物事、特にルールは、それを作る時、中身を曖昧にすればするほど、それを適用する際、運用する立場の者は、そこには恣意を介入させ得るようになる。

「政治資金規制法」という法律はまさにそれだ。そしてその法律は、政治家が官僚に依存し、立法権を丸投げしては追随している隙に、官僚によってつくられた法律だ。

 その法律は、法律ではあっても、内容は、どこまでが政治家に許されて、どこから先は許されないのかが強いて曖昧なままにされてできている。まさにその曖昧さを、政府官僚は、これまで、戦後築き上げて来た官僚独裁体制を守り維持するため、幾度も利用して来たのである。

その法律の犠牲になってきたのは、すべて有力政治家と目されていた人だ。

 しかし、この新選挙制度が施行されたなら、「政治資金規制法」という法律そのものが存在意義を失うことになるのである。

それは、官僚らは、彼らを脅かす政治家を意図的に葬り去る手段を失うことを意味する。

 しかし、官僚によるこのような行為は、もともと、絶対に許されてはならないことなのだ。それは、「主権者である国民すべてに奉仕する立場の者」が、「国民から選ばれた国民の代表」を葬り去ることだからだ。言い換えれば、シモベがご主人を亡き者にする行為だ。そしてそれは、公僕たる者が、この国の民主主義政治体制という、いわば今様の「国体」に反逆する「国賊」としての行為でもある。

 したがって、そのような行為に及ぶ官僚に対しては、国家公務員法の有無、その内容の如何を問わず、「公務員を選定するのも、罷免するのも国民固有の権利である」とする憲法第15条の第1項に従って、所轄大臣は躊躇なく罷免すればいいのである。

 

9.1 新しい選挙制度 ——————————その2               

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9.1 新しい選挙制度

             ———————————— その2

  

 では、その新選挙制度はどのような流れによって構成されるか。

ここでは、それを、試案として、新時代を考えるという意味で、第8章にて論じてきた「新国家」の場合について考えてみようと思う。それは大統領制をとった連邦国家についてである。

 

第1.先ずはこの新選挙制度の中核を成す選挙管理委員会(以下、選管と称する)を立ち上げる。

そのためには、その選管の委員を選定する役割を持つ「新国家建設構想立案国民会議」(以下、国民会議と称する)を設立するのである(第14章も参照)。

その国民会議の設立準備は、次の2集団による合同会議の下で行う。

①民主政治のあり方を日頃研究している政治学者集団あるいはその分野の学会。

②現行の超党派の政治家集団

 なお、②の超党派の政治家集団とは、この国を真の民主主義を実現した本物の国家としなくてはと願う政治家たちからなる集団との意味である。決して時代に逆行するような思想・信条を持った政治家集団ではない。

その合同会議を主導するのは学者集団として、決定内容に責任を持つのは政治家集団とする。

ただし、国民会議を設立するにあたっても、政府の官僚は一切介在させない。もし、事務局等を設ける上で人が必要ならば、国会ないしは議会が国民の合意を得た上で、それを設立する上で必要な予算と共に、独立して、それにふさわしい人を募集する。

 その超党派の政治家集団と政治学者集団ないしは政治学分野の学会は、共同で次のことを決める。

1つ。国民会議の役割と使命。2つ。国民会議の構成員の構成と任期。

ただし、その構成は、国民会議との名称からも判るように、社会のできるかぎり全階層から成るようにし、公平を期す。その時、構成員の思想や信条は不問とする。また各産業界から参加してもらう人については、その産業界の指導的な立場あるいはボス的な存在の人は避ける。なぜなら、そのような人が国民会議の構成員となると、議論の際、同じ産業界の他の人は、そのボス的存在に遠慮して、自分の考えを率直に語ってもらえなくなる可能性があるからである。そうなればボス的存在の意見だけが通ってしまう、ということにもなりかねないからである。

 なお各産業界および国民各階層からの参加者は4名ないしは2名ずつとし、その場合、男女同権の観点から男女同数とする。

 私案であるが、国民会議の具体的構成の仕方については、たとえば次のようにするのはどうであろう。

農業(4)、林業(4)、畜産業(2)、水産業(2)、製造業(4)、商業(4)、医療・看護・介護・福祉分野(4)、家庭の主婦(4)、教育・科学・技術分野(4)、文化・芸術・芸能分野(2)、新聞・出版・放送分野(2)、輸送・流通業(2)、その他の分野あるいは業界(2)の合計40名から成る、とする。

 

第2.国民会議により各地に選管を設立する。

国民会議は連邦、州、地域連合体の各規模と段階ごとに、日本各地に選管を設立して行くのであるが、その際、どこの選管についても共通の役割と性格と任期として、たとえば以下のことを明確にする。

 役割については、次の通りとする。

①選挙の広報、②立候補希望者の募集と受付、③立候補を希望する者の資格審査と、それにまつわる審査経緯と審査結果の無条件公開。

2回目以降の選挙の場合の「資格審査」については、とくに過去に、この新選挙制度により当選したことのある立候補希望者については、その立候補希望者が以前に掲げた政策のその後の活動を通して実現した度合いを自己評価した資料の審査をも含むものとする。

④立候補者の選挙活動(調査活動と政策立案)のための費用を、連邦、州、地域連合体の各政府に請求、⑤立候補者に選挙活動費を支給。また選挙後はその使途のチェックをし、その結果を無条件公開する。⑥第二次審査を経た後の、有権者による直接投票の準備、⑦候補者の選挙活動と有権者の投票行動の監視、⑧当選して政治家となった者について、その任期終了直前に、任期中における「公約」の実行度についての自己申告書の要求と、その内容のチェック

 性格については、次のものとする。

連邦政府、州政府、地域連合体政府といえども介入・干渉できない独立性と権限を持つこと、②徹底した透明性を維持すること。つまり、全てを公開すること、③国政段階の選管と地方段階での選管の委員を兼務することはできないこと、④選挙管理委員会の構成員規模は、連邦、州、地域連合体によって異なるが、委員長は1名とし、副委員長は2名とする。委員長はこの全委員の中から互選で決められ、副委員長は委員長の任命による、とする。

 任期については、次のようにする。

どこの選管についても、2回目の選挙が終るまでとする。

 なお、この制度の下では、全ての選管について、その選管の役割と事務手続きがすべて効率よく、かつ公正に進められるための手助け役としては、中央政府の官僚および地方政府の役人が当たる。主導するのは、あくまでも選管の委員長以下の委員である。

その際、官僚あるいは役人は、選管がその役割をすべて終えて、解散するまでの経緯を、選管委員全員の了解を得られる形での公式の議事録として残す。もちろんその議事録については、主権者からの要望があれば、いつでも、無条件に、要求されている範囲のすべてが公開されねばならない。

 

第3.選管は、どこの選管も、上記役割と性格と任期にしたがって行動するが、その役割の重要な1つとして、候補者となれる資格条件を選挙の事前に公報し、立候補者を受け付ける。

その際、立候補者は、自らが選挙戦のために掲げる公約としては、必ず次のA種とB種の2種類の政策案を合わせて公約としなくてはならない、とする。

A種は、候補者自身がかねてから信念として来た独自の政策案からなる公約。

B種は、選管が予め例示した政策群から候補者が選び出したものからなる公約。

ここにB種の政策案とは、既述の「6つの条件」の中のいずれかに該当するものを言う。

その「6つの条件」の各々に対応する政策案の例は後述する。

 

第4.選挙に立候補を希望する者は、上記のA種とB種の政策案を合わせて公約としたものに立候補希望趣旨書を添えて選管宛に届け出す。その際、、インターネット等の通信手段による届け出は認めないので、必ず文書で届け出す。

届け出せる時期あるいは期間はとくに限定されない。連邦議会、州議会、地域連合体の議会の各会期中であろうと解散時であろうと、また欠員が生じた際であろうと、いつでも可能とする。

 ただし、その際、連邦の選挙、州の選挙、地域連合体の選挙に応じて、公約の中に含めるべきA種とB種の政策案のそれぞれの最低数は予め決められている。

その最低数は、例えば大統領の場合には、A種については40、B種については20、連邦議会の議員の場合にはA種については30、B種については10、州議会議員の場合にはA種の数は20、B種の数は10、地域連合体議会議員の場合にはA種は15、B種は5、というように。

 

第5.立候補希望者に対する選管による審査。

これは〈第1次審査〉と〈第2次審査〉から成る。

〈第1次審査〉では、選管により、つぎの3項の有無について審査される。

①立候補希望者は、この新選挙制度が目ざす既述の「目的」を受け入れているか、という点

②立候補希望者の届け出して来た公約は、A種とB種の政策案が決められた最低数を満たしているか、という点

③そのA種とB種の政策案の全リストが提示されているか、という点

 ただしこの段階では、掲げる政策案の名称を提示するだけで可とし、実現方法等の具体的な中身の記載は不要とする。また、この段階では、立候補希望者についての定員はとくに設けないが、この段階の審査の経緯と結果は、直ちに国民全体あるいは関係地域全体に、無条件に全面公開される。

 この第1次審査に合格して初めて、立候補希望者は、国民の税金を選挙活動のために使うだけの資格があると選管から認められる。

そして、認められると同時に、立候補者自らが掲げるA種とB種の政策案の全部を実現するための具体的な方法と手段と計画を練り上げるために必要な費用が、連邦政府あるいは州政府または地域連合体政府という地方政府より支給される。

たとえば、

 連邦政府の大統領に立候補を希望する場合には、2億円。

 連邦政府の議員に立候補を希望する場合には、1億円。

 地方政府、とくに州政府の知事に立候補を希望する場合には、1億円。

 地方政府、とくに州議員に立候補を希望する場合には、5千万円。

 地方政府、とくに地域連合体の首長に立候補を希望する場合には、5千万円。

 地方政府、とくに地域連合体の議員に立候補を希望する場合には、3千万円。

 これらの公費は、各種の専門家や知識人をコンサルタントとして雇う費用、また資料やデータの収集に活躍してもらう秘書を雇ったりする費用、選挙活動の拠点としての事務所等を借りる費用として遣うことができる。

 なお、自らの公約の中に含めた政策案についての実現方法を練り上げるのに要する期間については、とくに制限は設けない。次期選挙に間に合わなければ、次の次の選挙まで立候補できる機会はやって来ないというだけのことである。

 また、支給されるこれらの選挙費用はすべて国民の納めた税金であるため、その金の使途については、残金も含めて、無条件に全額を選管に届け出す義務があることはいうまでもない。その際、申告内容に偽りあるいは不正があると選管に判断された場合には、その立候補希望者は、その不正の程度や悪質さの度合いに応じた罰則を受けるだけではなく、直近の選挙戦を含めて、その後の選挙戦に何年間か出る資格を失うことになる。

〈第2次審査〉

 この段階では、第1次審査では問われなかったこと、すなわち、立候補希望者が自己の掲げるA種とB種の政策案を実現するための具体的な方法と手段と計画を持っているか否かが審査される。

 ただし、その場合も、政策とその実現のための具体的な方法と手段と計画の善し悪しや適不適、あるいは時宜にかなっているか否か、また実現の可能性の判定までを下すものではない。内容の善し悪し、内容の適不適、それが時宜にかなっているか否か、実現可能性等を判定し、どの候補者の政策を選択するかは、あくまでも主権者であり有権者である国民あるいは地域住民だからである。

 第2次審査に合格した者だけが第3次審査へと進みうる。

 

第6.〈第3次審査〉のここからが実質的な「選挙戦」となる。これまでは書類上での審査だけだったからである。

 この選挙戦では、公開の場にて、全3回以上にわたる候補者間および専門家相手の政策討論が義務化される。

つまり、この新選挙制度では、従来の、宣伝カーを連ねて候補者の名前を連呼しては走り回るただ騒々しいだけの遊説や、街頭または屋内での候補者単独の講演会、また自分一人で、言いたいことをただ言い放つだけの演説会、そしてポスターによる宣伝という類いの方式はもはやすべて禁止とする。

そのような方法では、有権者には公約の中身はもちろん、その是非も、実現性も、他候補者との公約の違いも判らないからである。実際、これまでがそうだった。

 むしろ選挙戦で大事なことは、各候補者は、自分を選んでもらうために、自身が掲げる政策案から成る公約について、その妥当性・適時性・実現方法と実現可能性と、それを実現することで国民の側に得られる成果とを、他候補者と差別化しながら、有権者により明解に語りかけ訴えることである。

 他方、有権者にとっては、どの候補者が自分が日頃切実に望んでいることを実現してくれると訴えているかをよく見極められるようになることであると同時に、自分はこれまで考えたこともなかったことであるが、聞けばなるほどそれは重要な政策案だと思える政策案を掲げる立候補者を発掘することなのである。

 そしてそれらこそ選挙を戦わせる目的であり意義でもある。

 なお全3回以上の政策討論のうち最低2回は立候補者どうしで、1回は政治学者および政治ジャーナリスト相手の討論とする。

 その際、いずれの政策討論会でも、会場からの質問や要望も可能なようにし、その場で答えられない場合には、公開を前提にして、文書で回答することを義務づける。

 なお、地域連合体内での選挙ではそれでいいが、州ないしは連邦レベルの選挙では、選挙区の大きさを考えて、既述した選挙戦の目的をあまねく実現させるための工夫を当該選管がする。

 そのためには、たとえば、討論会場からのTVによる生中継はもちろん、SNSによるリアルタイムでの有権者と立候補者との質疑応答なども公開可能なようにする。

とにかく有権者の生の声が直接立候補者に、公の場で、届くようにすることであり、またその返答も、公の場で、立候補者から質問者に届くようにすることである。

 

第7.国民(有権者)による無記名での直接の投票

 これは、これまでの立候補者どうしの選挙活動に対する主権者である国民・住民の、直接の、そして最高で独立した最も権威ある審判である。

 これによって、予め定められていた議会議員定数の範囲内で、議員が確定する。

 因に私は、ここで当選できる定数はそれぞれ次の程度で十分なのではないかと考える。

大統領と首長は当然各一人であるが、連邦議員はせいぜい70名前後、州議会議員は30名程度、地域連合体議会議員は10名程度。

ちなみに、現在の議院内閣制をとるこの国の国会議員定数は、衆参両院で、722名である。つまり、この十分の一程度にするわけである。

 なぜこの定員数で十分と私は考えるかというと、1つは、以上述べて来た経緯に基づく選挙制度から推測できるように、各地域から出てくる立候補者はその地域の有権者の様々な要求に耳を傾けて、そこの優先順位をつけて、問題を精査し、その上でそれその問題の解決をも視野に置いて自らの公約として出馬してくるであろうから、それだけの議員定数でも、その地域が解決すべき問題は、その議員たちが掲げる公約の中にほとんど含まれているだろうと思われるからである。

ましてや、議会を構成する議員は、選ばれるときには特定の選挙範囲の中から選ばれたとしても、ひとたび選ばれて当選した以上は、もはや特定の1選挙区の代表ではなくなり国民全体の代表になる、という民主政治における「代表の原理」が環境時代には一層生かされてゆくようになると考えられるからである。

 当然この原理は、連邦だけではなく州や地域連合体での選挙でもそのまま適用されるはずだからだ。

 また、この定員数で十分と私は考えるもう1つの根拠は、できる限り少人数の方が、議会での議論は、小回りが利き、しかも、互いに深い議論、本音の議論が十分な時間を掛けてでき、政策決定を迅速化できるだろうからである。

 実際、これまでの国会を見ても————もちろん国会を含めて議会は質問の場ではないにしても————、衆議院465名、参議院245名、合計710名(2021年1月現在)いる国会議員の中で、一年を通じて、それもNHKなどが報道する本会議や予算委員会といった場で「質問」に立った議員は、質問回数ではなく、質問に立った頭数では、せいぜい一割いるかどうかという程度なのではないか、と私には思われてしまうのである。

 とにかく議会では、議員どうしで議論すべき事柄の優先順位を決めた上で、順次、幅広く、また深い議論、細やかなところに配慮の行き届いた議論をし、その結果、特に「何はしてはならない」をできるだけ具体的に明確化した法律として議決し、その議決内容を執行機関の長を通して執行させ、速やかに国民生活の現場に反映させることこそが重要なのだ。

そのためにも、“一票の重みが2倍も3倍も違うのは憲法違反”、と抗議するのも大切だが、それ以前に、いかにして少しでも議会での議論をより有意義なものにし、どんな時でも国民の、あるいは住民の生命と自由と財産を最優先に、かつ迅速に守れる議会とするか、ということの方がはるかに重要なことなのではないか、と私は考えるのである。

 

 一方、執行機関としての政府では————この場合大統領府となる————そこでの政治家、とくに大統領と、大統領に任命された副大統領と閣僚は、国家の最高の意思、州の最高の意思、地域連合体の最高の意思を議決した議会のその決定内容を受けて、配下の官僚ないしは役人をして、選挙時に国民から負託された権力と権限を正当に行使してはコントロールし、またチェックもして、議会の決定内容を最高度に効果的かつ効率的に執行させることこそが最大の役割でありまた使命となる。

 ただしその場合、この新選挙制度政党政治制度の存続は考えてはいないので、与党とか野党という概念はなくなる。

したがって、副大統領および閣僚に抜擢されるのは、あくまでも大統領の目にかなった人物ということになる。それも必ずしも国会議員であるとも限らない。

ともかく、大統領にしても、その大統領から選任される副大統領および閣僚にしても、その資格として、国民にとって最も大事なことは、この国の憲法を「維持し、保護し、擁護」しながら、また「法の支配」を守りながら、大統領の指揮統括の下、議会の決定内容を最高度に効果的かつ効率的に執行させることなのである。

 その時、閣僚は、役人から「報告を受けている」と言うだけで満足し納得しているだけではどうしようもない。また国民に政治の執行状況を説明するのに、官僚の作文を棒読みしているだけ、というのでもどうしようもないのである。

 

 そこで、以下では、既述して来た、選挙の実施に当たって選管が予め立候補希望者に提示するべきB種の政策案を先の「6つの条件」のそれぞれに対応させて、以下に例示する。

1.日本という国を、政治的舵取りのできる真の指導者を持ち、官僚とその組織をコントロールしながら、また現行のいわゆる「政府組織の縦割り」の打破を含めて、必要に応じて、官僚組織を大胆に変革しながら、議会が決めた政策や法律を速やかに執行しうる真の政府を持った、真の国家とするための具体的な方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約

○国民一人ひとりに、“私たちが真に幸せになりたいのなら、とにかく現在の政治状況を変えよう。そのためには、先ずは、私たち国民自身が、一人ひとり、政治的基本諸概念、とくに、政治、権利、権力、議会、政府、司法の独立等の意味を曖昧なままにせず、正確に理解し、それを実践できるようになろう”、と国民に呼びかけることを決意した政策案

○時間はかかるけれど、学校で、民主主義政治制度、とくに議会とは何か、政府とは何か、裁判所とは何か、そして政治家とは何か、役人とは何か、またその両者の関係はどうあるべきか、権力とは何か、統治とは何か、国家とは何か、をじっくりと学べる教科を必須とさせる、とする政策案。

○新選挙制度を実現させる政策案。

○国民の全階層からなる、国会と政府から完全独立した、公正かつ公平に選ばれた構成員からなる、特定事項を必要に応じて審議できる国民議会を創設する政策案(ここに、特定事項とは、たとえば、新国家創建案、新憲法草案、最高裁判所長官を国民が指名できる権限、検察庁検事総長を国民が指名できる権限、本書で提案する新選挙制度と、それの骨格を成す選挙管理委員会の設立、等)

○“政治家こそが国民の唯一の利益代表である”、一方、“官僚ないしは役人という公務員は、国民の代表ではなく、むしろ国民に奉仕する立場のシモベである”との訴えとともに、それゆえに、政治家こそは政治と行政のあらゆる分野で、官僚(役人)をコントロールし、彼らのやっていることをチェックする必要がある、ということを訴える政策案。

○また政治的情報伝達のシステムについても、政治家は、国民の代表として、とくに現場での国民の声に耳を傾けることに最も重きを置き、それが議会の議長と政府の長にもっとも速やかに伝達され届くような、いわば「現場の声の最速吸い上げシステム」を国内のあらゆる公的機関に対して実現するシステムを構築する、との政策案

○民と官を明確に区別するために、また官僚の天下りを壊滅させるために、いわゆる財団法人や社団法人等の「公益」法人の全てについて、国民の代表という立場で、それの要不要をチェックし、不要なものは廃止させる、という政策案

 

2.とくにこれまで、この国の政治家が取り上げることを敢えて避けて来たがために事態をいっそう深刻化させて来てしまった、この国あるいはその地域にとっての最重要・最緊急課題を取り上げ、その課題の解決に、立候補希望者なりの具体的解決方法を示しながら取り組むことを決意した公約

○国民の食う食糧を国内で自給する政策案

○国民が日常的に使うエネルギーを、電力を含めて、国内で自給する政策案

◯この国の国土の生態系を多様な生物種の強制と循環の場に変えてゆく、との政策案。

○政治家が官僚(役人)に放任して来たがために貯めに貯めて来た国の中央政府と地方政府の債務残高およそ1200兆円を遅くとも2030年までにはGDPの30%までに減らし、将来世代や未来世代の若者たちが納める税金は、彼らが彼らのために使えるようにする、との政策案

少子化を解消し、高齢化を解消してこの国を活力ある国にするために、この国を真に希望の持てる国にするとの政策案

○国全体が均衡ある発展をするためと、地震津波からの危険分散を図るために、地方を産業面でも人口構成面でも活性化させて、大都市への人口集中を止めるだけではなく、人の地方への移住を促進して、各地域を循環的に自己完結した社会へと目指す、との政策案

○国民の暮らしを成り立たせながら地球温暖化の進展を抑える国民経済とそのシステムのあり方を提唱する、との政策案。

天文学的な額の政府の借金の中で、ますます進む社会資本の老朽化と劣化に対処する、との政策案。

 

3.《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国家の二大指導原理とすることに国民の合意が得られるように計らいながら、日本に真の民主主義を実現させるだけではなく、さらにそれをも超えた生命主義をも実現させ、この国を真に持続可能な国にする具体的な方法を示した公約

○《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を小中学校の教育課程で学ぶようにするとの政策案

○「自由」とは何か、「民主主義」とは何かを、小中学校の教育課程で学ぶようにするとの政策案

○「生命」とは何か、「生命主義」とは何かを、小中学校の教育課程で学ぶようにするとの政策案

○国内に、「都市および集落としての三種の原則」を実現した都市づくりの必要性を訴えるとする政策案(自動車がなくても暮らしが成り立つ小都市あるいは地域連合体とする。結果、自動車を動かすための化石燃料あるいは電力は不要となり、それだけ温室効果ガスの排出量を激減させられるのだから。そしてそれこそが、国連が訴えるSDGs、持続可能な開発の最も有効な実践例となるのだから、と)。

○活力を失い、人口減少が進む国内のそれぞれの地域を支え、その地の自然と伝統の文化を守り、また育てる若き人材を育てるために、これまで戦後ずっと行われてきた画一教育や競争教育そして断片的知識詰め込み教育を廃止して、互いにみな異なる個性や個人の能力を最大限伸ばすための多様性を重視した教育を実現するために、中央政府レベルでは、もはや中央集権体制をやめ、権限をごく一部を除いてはその大部分を地方政府に移管する一環として、先ずは文部科学省を廃省とし、学校教育の権限を州あるいは地域連合体に委譲させる、とする政策案

○所属府省庁の既得権益を維持あるいは拡大しては、そこの高級官僚の天下り先を確保し続けるためだけに、事業を肯定する答申を出させるための環境アセスメントを似非学者・御用学者にさせては、この国の世界に誇りうる豊かで美しい自然を大規模に破壊し続けてきては、この国の借金、すなわち政府債務残高を天文学的な額にまで膨らませることになった張本人の政府の一省庁である国土交通省は、もはや存在しているだけで有害無益として廃省にして解体し、むしろこれからは、この国も「パリ協定」に本格的に貢献しうる国となるために、これまでの環境省を、その役割と使命を大幅に拡大して、予算も大幅に拡大し、老朽化した社会資本の修理保全をしながら、破壊され汚染されたこの国の自然ないしは生態系を大至急蘇らせることを目的とした国土自然保全省として生まれ変わらせる、との政策案

○同様に、所属府省庁の既得権益を維持あるいは拡大しては、そこの高級官僚の天下り先を確保し続けるために、原発行政を積極推進したり、大規模火力発電所による発電にこだわり続け、一方ではこの国の伝統の物づくり文化あるいは「匠の技」をグローバル市場経済システムを進める中で次々と消滅させながら、温室効果ガスの大量輩出を産業界には続けさせ、地球の温暖化に依然と拍車をかけ続けて来たのは経済産業省である、とした上で、もはやこの省は時代の役割を終えたとして廃省にし、これからは、真に地球の自然を守り、国の伝統の物づくりを甦らせ、結局は個々人をして利己主義で肉体的にも精神的にも虚弱にしかさせない「便利」「快適」な物づくりではなく、「身の丈の技術」、「自然素材からなる製品」、「作り手の思いやぬくもりを感じられる物づくり」を中心にして、真に一人ひとりの心の豊かさを実現させてゆくことを主目的としてゆく伝統技術復興省を創設するとの政策案。

○見せかけだけの「国土強靭化事業」などではなく、とくに源流域の森林を混交林としながら、その森林を地域住民を主体に、雇用を確保しながら管理の徹底を図って活性化させ、森林を「緑のダム」として蘇らせ、集中豪雨時、山肌の崩壊防止、土石流発生防止を図る事業を国家として進めてゆく、とする政策案。

○河川という河川の流れを阻害する物または構造物を撤去しながら浄化して、水生生物が育ち、回遊魚が遡上できるようにして、河川を作動物質「大気・水・栄養」の循環の大動脈とすることを国家としての真の公共事業として進めてゆく、とした政策案。

○国民が安くて良質な食糧を安定して確保できるような生産と流通と消費の仕組みを、都会と農村を結びつけながら作ることを国家としての真の公共事業として進めてゆく、とした政策案(結果として、国全体の農業を活性化させ、先進国中最低の食糧自給率を向上させることができるようになり、さらには国民の多くが極力医者や薬に頼らなくて済む健康体になり、増大する一方の国民医療費を減らせるようになる)。

○日本の農業形態を、やはり生産地(農村)と消費地(都会)とを結びつけては食料自給率を上げながら、農薬と化学肥料を多投する農業から、有機質による農業に転換させるとした政策案(生態系の破壊と生物多様性の消滅を防ぐため)

○温暖多湿という気候条件と平野が少なく山岳が70%以上を占めるという地形的特性を持つ日本列島ならではの自然条件を最大限に生かして、自然エネルギーによるエネルギー自給を実現させる、とする、世界の環境先進国でも不可能な方法による政策案。

それは、日本中いたるところにある急峻な河川、それもほとんど一年中、大きく水量が変わることなく流れる河川水の持つエネルギーを有効活用して発電する、というものである。だからと言ってそれは決して、河川水をせき止めるダム式の発電ではない。水を流したまま、その水流のエネルギーによって小型水車を回して発電し、その電力を合計して大電力を得るという方式のものである。

この方式によって得られる発電量は、ソーラーパネルのように、その日の天気によって左右されるということはないのである。

○太陽光によって温水を作り、その蒸気の力で発電し、それを各地域のエネルギー自給に役立てる、とした政策案。

○各家庭から毎日必ず出るゴミを焼却したときに出る熱を利用して発電し、それを各地域のエネルギー自給に役立てる、とした政策案。

○人糞や酪農から出る豚糞・牛糞・鶏糞・馬糞等を有効利用してメタンガスを作り、それをボンベ詰めして地域の各家庭の台所のガスとする、との政策案。またそのとき得られる液肥を肥料として農業に利用することにより、化学肥料の投入量を減らし、同時に購入費を減らすことができるようにする、とした政策案

○太陽光によって温水を作り、それをパイプを通じて地域の各戸に配給して、暖房や台所に有効利用する、とした政策案

○化学合成物質による工業製品を極力廃止し、自然材料による手作り製品が商品となる経済システムを実現させるとした政策案(物を大切に使うようになって簡単に物を捨てるという習慣は消え、生態系を化学合成物質で汚染するのを防止できるようになる)

○グローバリゼーションで廃業または消滅に追い込まれた日本の伝統の「匠の技」および各地域の「伝統のものづくり文化」を復活させ、各地域の住民の暮らしを支える多様な物づくり事業を各地域で自由かつ独自に興せるように国家が支援する、とした政策案

○自然や生態系を台無しにし、そこを野生生物が棲めない荒れた地にしてしまったために、結果として麓に鳥獣被害を頻発させることになったこれまでの「開発」あるいは「開発行為」のあり方と概念を全面的に見直し、むしろ生態系を活性化させ、生物多様性を復活させるための「開発」を進める、とした政策案。

◯全国各地、特に今、北海道の土地が中国資本に大規模に買い占められている実態を鑑みて、それを法的に規制し、国土の保全と安全を守る、とした政策案。

 

4.日本という国を、国民の生命と自由と財産の安全、そして人権の擁護と福祉の充実がつねに最優先される国にするための具体的な政策案あるいは方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約

○これまでの画一教育、断片的知識詰め込み教育、本当の意味での信頼関係を築けない競争教育を廃止して、子どもたちや若者たち一人ひとりの個性と能力と尊厳を無条件に認める学校教育へと転換させる、とした政策案。

○現行の学校教育における画一教育と断片的知識詰め込み教育を止め、とくに児童生徒には次の力を身につけさせる教育へと転換させる、とする政策案。

自然の中で生きられる力。物事の善悪や正邪を自分で判断できる力。自分の言いたいことを相手にわかりやすく説明できる力。自分の主張したいことを、不特定多数の人にわかりやすく伝えるための文章を書く力。

◯学ぶ意義、生きる意義、生きる目的を児童生徒自ら見出せる教育へと転換させる、とする政策案。

○そして、それを可能とするために、教育基本法と学校教育法を根本から改正させる、とする政策案。

◯同時に、地方の文化や事情もわからないまま、中央にいながら全国を画一的に統治する管理教育に基づく行政では、多様な人材は育て得ないとして、文科省の廃止を呼びかける、とする政策案。

○優れた人材を生み出すには、優れた教師が必要だし、その教師が自由に教育に当たれる教育制度が必要だとして、それが実現できる学校教育制度へと変えてゆく、とする政策案。

○どのような境遇の家庭の子供でも、すべて学校で学べるようにするために、学校教育費用を、小学校から大学まで完全無料化する、とした政策案。

日本国憲法の第21条第2項「検閲は、これをしてはならない」に則り、「教科書検定」を廃止させる、とした政策案。

○日本の医療の現場、介護の現場を、そこで働く人々には、肉体的にも精神的にももっともっとゆとりがあって、なおかつ、医療従事者と患者とが、互いに人間の尊厳を大切にしうる現場とするために、医師、看護師、介護士保健士の数を増やすとともに、その人たちへの待遇を抜本的に改善し、「何のための医療」であり、「誰のための医療」であるかを誰もが理解できる医療制度へと変えてゆく、とする政策案。

○現行日本国憲法の第21条を徹底し、基本権としての「集会・結社・表現の自由、通信の秘密」の保障を確実なものにする、とした政策案

○これまでの政治家の怠慢と無責任の結果、いたるところ、時代遅れで、古き家族制度の名残をとどめる民法を、新しい時代にふさわしい民法へと全面改正する、とした政策案。

個人情報保護法を全面改正するとした政策案。

○情報公開法を全面改正するとした政策案。

憲法違反が明らかな特定秘密保護法は廃止するとした政策園。。

○全国の「記者クラブ」を廃止し、基本権である「表現の自由」を完全に保障する、とした政策案。

○日本の既存の全法律を、内容、時代や状況に合っているか、表現の判りやすさ、表現の合間さからくる運用者の恣意の介入の可能性、新法の必要性等々の観点からの全面見直しを実現させる、との政策案。

○封建時代あるいは明治時代の「家族制度」の考え方とは根本的に異なる、人権の尊重と民主主義を土台とした、少なくとも3世代以上が同居する今様の「大家族制度」を実現させる、とした政策案(結果として、伝統文化の伝承、食文化の伝承、自宅での出産の可能性、育児不安の解消、託児所の不必要化、個人主義の緩和、支え合いの文化の定着、女性の社会参加の後押し、等が期待できるようになる)。

○現行の世代間相互扶助制度(年金制度、介護・保険制度、奨学金制度等)を抜本的に再検討させる、とした政策案

 

5.不安定化と複雑化を増し、分断化が進む世界に対して、日本が、協調外交を通じ、その世界の真の平和と安定に貢献できる具体的な策を示し、それらの実現に努力して行くことを決意した公約

○これまでの日本は、世界から経済大国とは言われながらも、国民生活の実態、特に精神面や心の面では貧しいものだった。それというのも、日本は、戦後ずっと今日まで、とくに政治と軍事面ではアメリカに依存しまた追随しながら、「何のために豊かになろうとするのか」という意味も目的も明確にせず、ただ「経済的に豊かになること」だけを自己目的としてきたがためだ。そのために、世界から、日本は何をしたいのか、何を目ざしているのかさっぱり見えてこないし、何を考えているのか判らない国、目されてきた。

そんな中で日本は、バブル経済崩壊後は、急速に、国際的な相対的地位を低めても来た。

 しかしこれからはそんなことではいけない、日本が目ざして行く方向とその際の基本的考え方を世界に明らかにして行く、そしてそのことを通じて、この国を、今度こそ、世界から信頼できる国、価値ある国と認められる国にしてゆく、とした政策案。

○その第一として、地球の温暖化を抑える活動をすることにおいて、環境先進国の仲間入りをすることを目指す。生物多様性が消滅してゆくことを抑える活動においても、環境先進国の仲間入りを目指す、とする政策案。

◯これからの日本と日本国民は、国連に加盟している他のすべての主権国家と同様に、外交と軍事を外国に依存することはもはやせず、先ずは国民自ら、自国の安全は自分たちの手で守るという気概を持ちながら主権を堅持し、したがってこれまでの日米安全保障条約はひとまず破棄する。それだけではなく、これからはいかなる軍事同盟にも加わらずに中立を保ってゆく。こうした国民的姿勢を政府は国の内外に示すべきだ、と迫ってゆくとする政策案。

◯このままではますます深刻化してゆくであろうとみられるアメリカと中国との「新冷戦」ではあるが、それをどちらか一方の立場だけから見ている限りは、あるいは日本はアメリカにつくべきか中国は怒らせないでおこうかといった損得勘定の次元の考え方では、世界平和に貢献できるはずはない。

むしろ対立を深めることに貢献してしまいかねない。

こういう時こそ、一段階も二段階も高い見地から事態を見つめ直してみることが大切なのだ。そうでなくても、今、気候変動の激化と生物多様性の消滅の危機、そしてあらゆる資源の枯渇化により、地球上の全人類の存続が危ぶまれているのだから。そしてアメリカの経済も中国の経済も、否、全世界の経済もそれらの危機を乗り越えてこそ持続できるのだからだ。そのこのことを冷静に考えるのであれば、両国は覇権を競っている場合ではないのだ。

またそうした考え方を踏まえる時、日本は、ただ「東アジアの平和と安定」とか「自由で開かれたインド・太平洋を守る」といった視野で事態をとらえてばかりいるのではなく、つまり中国の動きにばかり目を奪われているのではなく、もっと広く、そしてもっと高い見地でとらえる必要があるはずだ。それは、この後すぐにも述べることになる、「世界の大義」、あるいは「人類全体の価値」とは何か、そして「現在世代の未来世代への責任」とは何か、という地球的、全人類的見地に立っての見方だ。

 その見方とは、アメリカとはこれまで通り協調を維持しながらも、同時に、長い歴史の中で日本が大変お世話になった韓国と北朝鮮とはもちろん中国とももっと友好的な関係を築きながら、つまり互いに尊敬の気持ちを持ちながら、同時に、EUヨーロッパ連合)ともインドとイスラム圏ともそしてロシアとも友好的な関係を築き、またそれを深めてゆくことを意味する。

これからの日本は、こうした文字通り世界的かつ地球的視野に立った戦略を世界に向かって展開してゆくべきだ、とする政策案。

○これまでの途上国への「援助=ODA」のあり方をも抜本的に見直す。「押しつけ援助」ではなく、途上国の人々が求めてくる知識や技術を提供し、資本提供と人的支援をも積極的に行い、彼らが彼らの文化をより発展させられ、自立出来るようになることを目的とする支援へと切り替えるべきだ、と政府に働きかけてゆく、とする政策案。

◯これからの世界を平和にする中核を担うのは若者である。その若者の中でも、積極的に世界平和、環境回復、人権の尊重という観点で積極的に活躍してくれるコスモポリタン世界市民主義者・四海同朋主義者)としての学生を育てるために、日本はその設立発起人となって「世界大学」を日本に創設する、との政策案。

◯また、今も世界の何処かで続く内紛や宗教対立そして民族対立、さらには気候変動によって生み出されてしまう「難民」を、これからのこの日本は、人道の観点に立ち、門戸を大きく開き、政府には積極的に受け入れてゆくようにさせる、とする政策案。

○難民を積極的に受け入れるようにするだけではなく、難民が生じないような平和な国際社会を作ることにも貢献する、とする政策案。

◯そのためには、日本自体が世界平和に積極的に貢献できる国とならねばならないが、それと並行して、国連を強化してゆく必要がある。そこで言う「強化」とは、従来のような「国際の平和と安全を維持すること」や「諸国間の友好関係を発展させること」や「人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励すること」にとどまらず、国連が積極的に世界をリードできるようになることである。

 そこで日本は、そのためにも積極的に貢献してゆく、とする政策案。

 具体的には、国連憲章が明記する「すべての加盟国の主権平等」の原則に基づき、すべての加盟国の民主的コントロールの下で、15の国連加盟国からなる安全保障理事会の権限と、5つの常任理事国の拒否権を含む決定権限との関係の見直しの必要性を国際社会に提起し、国連総会の決定が最高権限を持ち、それは常任理事国の持つ「拒否権」を上回る効力を有するとする、とするよう世界に働きかける、との政策案。

○あるいは、15の国連加盟国からなる安全保障理事会の多数決による決定は常任理事国の拒否権を上回るとする国連憲章の改訂を国際社会に呼びかける、とする政策案。

 第二次大戦終結直前に創立された国連ではあったが、もはや70余年を経た今、世界は当時とは大きく変わった。植民地だった多くの国も今や独立国となり、主権国家として国連に加盟している。東西冷戦も終わった。圧倒的多数の国々から「自由と民主主義は人類普遍の価値」と承認され支持されるようになった。そんな中で、世界には格差の拡大、分断の広がり、対立の激化があっちでもこっちでも生じるようになった。またそれと並行して、気候変動は進み、生物多様性もものすごい勢いで消滅している、海山の多くの資源も枯渇化している。そんな中、再び核戦争の脅威も高まっている。

 そしてここで忘れてならないことは、こうしたことのすべては、この地球上で起こっている、ということだ。果てし無く広がる宇宙の中で、今のところ、唯一の「奇跡の星」、「水の惑星」と呼ばれるこの地球でだ。

 本当は遅すぎる感がするが、もうそろそろ世界の人々は同じ人類として、「世界の大義とは何か」(カレル・ヴァン・ウオルフレン)という観点に立って、あるいは「人類全体の価値」(ネルー首相)とは何かという観点に立って議論してもいいのではないか。

 これを国連で徹底的に議論するのである。その上で、これからの国連を、単に国際平和のための機関というのだけはなく、「世界の大義」に立って、「人類全体の価値」を実現するための国際機関として位置づけるのである。それはある意味では国連を、「人類全体への忠誠」を尽くしながら、年間を通して世界に対してリードできる「世界連邦政府」とするということでもある。

もちろんその世界連邦政府に世界政策を提供するのは、国連総会での議決事項である。

 すなわち、こうして国連を、世界で唯一最高の権威を持った世界公認の機関として生まれ変わらせるのである。そしてそのための活動を世界に対して積極的にする、とした政策案。

○加盟国のいかなる国に対しても公平かつ中立な立場で行動する国連軍の創設を世界に呼びかけ、いかなる国と国との間の紛争においても、紛争当事国の軍隊は、国連軍の指揮下に置かれるとする規約の成立に尽力する、とする政策案。

 

6.今、世界が直面している人類存続の可否がかかった4つの大問題である「気候変動問題」、「生物多様性の消滅問題」、「化石資源のみならず海の資源と山の資源の枯渇化の問題」と「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決に向けて、日本としての具体的な策と方法論を世界に向けて示し、それを率先して実行して行くことを決意している公約

 上記4つの大問題のうちの最初の3つは、「持続可能な未来、こう築く」とした拙著が掲げる二つの指導原理《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を世界中がその早期の実現を目指せば、克服できると考えられるが、特にその二原理を日本国内で実現しようとする場合には、例えば次のような政策を実施してゆく必要があると私は考える。

 その推奨例を挙げる。

◯最も大規模な例は、物質的豊かさだけを追い求める資本主義グローバル市場経済はもはや止め、これからはむしろ精神的な豊かさを実現する経済へと転換させることだ、とする政策案。

○それは、言い換えれば、文明の発展を重視する経済ではなく、文化の発展を重視する経済へと転換させる、とする政策案である。

◯あるいは、それは、資源を大量収奪し、それを大量輸送し、商品をオートメーションシステムにより大量生産しては、それを大量運搬し、最後まで使い尽くさないで大量廃棄する経済システムをやめ、身の丈の技術や手作りの「技」により、少量多品種生産し、その地域内で用い、最後までそれを使い尽くす経済システムに転換させる、とする政策案。

◯またそのためには、都市化をやめ、既存の大都市人口を減らすために、地方への移住を勧める、とする政策案。

◯また大都市の縮小化を図りながら、都市には、できる限り森や林を主体とした緑地帯を作る、とした政策案。

◯また都市の縮小化を図りながら、人々が暮らしで使う「お湯」は、太陽エネルギーによって作り、それを地域住民にパイプで配給する、とした政策案。

◯そして各戸に供給された「お湯」は、温度の高い「高級」なお湯の状態から、これ以上低い温度の「お湯」はない状態まで、使い尽くして、最後に排水するシステムを年に設ける、とする政策案。

◯また都市の縮小化を図りながら、都市からの排水を、太陽エネルギーを使って起こした電力を用いて浄化し、河川に流すようにする、とした政策案。

 上記4つの大問題のうちの最後の「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決策としての政策案の例としては、次のようなものが考えられるのではないか。

○日本は世界で唯一核兵器が使用され、被害を被った国として、その悲惨さを世界に訴え続けながら、「核なき世界」の実現のために全力を尽くす、とした政策案。

核兵器の即時全面廃棄を実現するために、この国が真に自立した国、世界から平和を訴える国として認めてもらえる国になるためにも、もはや軍事超大国核の傘の下にいることを止める、そして核兵器禁止国際条約に加盟すると宣言できる国になる、とする政策案。

と同時に、核保有国には、核戦争には「勝者」はいないこと、核抑止論はとうに破綻していること、核戦争は一瞬にして文明を破壊すること、を強調しながら、核保有国に核兵器の同時全廃を迫る、とする政策案

◯また、核兵器そのものがもはや不要と核保有国のどの国も思えるようになるためにも、世界の平和のために日本はユーラシアの一員として奔走する、とした政策案。

○宇宙空間とサイバー空間を軍事利用することを禁止する国際条約を成立させようと国際社会に呼びかける、とする政策案。

○各国の「宇宙開発」活動のうち、真に全人類の幸福のためになる開発のみを残し、しかもそれは国際社会が共同で行うこととし、他の開発行動は即時停止を国際社会に呼びかける、とする政策案。

それは、どんなに科学技術が進んでも、どんなに宇宙広しといえども、人類が住める場所、それも裸でくつろげる場所はこの「奇跡の星」「水の惑星」と呼ばれる地球しかないこと。それに、その開発行為はどのようなものでも、本質的に宇宙空間を汚すことになる行為でしかないこと。人類のために宇宙を活用するのなら、またそのために観測するなら、その宇宙は、ゴミの空間ではなく、清浄な空間に保たねばならないからだ。

 

 

 

 

 

 

9.1 新しい選挙制度  —————————— その1

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9.1 新しい選挙制度  ————————————— その1

 

 日本では、政治家になるためには、また政治家であり続けるためには、「カネ」がかかりすぎるのである。それは戦後から今日までずっとそうだった。それも特に公明党共産党といった組織で選挙に臨む政党を除いては。

 例えば二世議員について見ても、どうやらこんな調子だったのではないだろうか。

 最初は、父親から引き継いだ金銭的財産は莫大だからとして安心してしまうことが多い。ところが、親の後を継いで政治の世界に出るにあたっては、自分にはまだ政治の世界の事情などさっぱりわからないから、そのため、まず、親から引き継いだ「選挙地盤を守る」ためにカネが出てゆく。その場合も、政治家は互いに政敵が多いことから、引き継いだその地盤を守るためには「票を金で買う」しかない。

 では首尾よく政治家になったらなったでどうか。その場合には、「派閥」や「会派」に入らなければならなくなる。それも政治家として「何がしかのこと」ができるようになるためにはできるだけ大きな派閥や会派に入らなければならない。そうでなくては「メディア」も注目してくれないし、ちやほやしてもくれない。ところがその派閥や会派に入れてもらうためには、やはりそれなりのカネも要る。

 入れてもらったならもらったで、その派閥や会派の中で「地位」を上げるためには、またその「派閥や会派の中でカネ」が要る。

 ところが今度は地位が上がれば上がったで、「部下・手下・子分・子飼い」が増える。その「部下たちの面倒」を見るのにもまたカネだ。

そうしているうちに親から譲り受けた財産などたちまちなくなってゆく。そこで、否応なしに家や土地を売ってカネを作らなくてはならなくなる。また、いろいろなことに「不正」とわかっていても、手を染めていかなくては政治活動資金を維持できなくなる。それも、自分に言い訳をするような「大義」を見出して。・・・・・。

 そうやって、政治家は、大きくなればなるほど、また有力政治家と言われるようになればなるほどカネが要るものらしい。

 しかし、それは、一般の私たちから見たら、どう考えても、解せない話だ。

そもそも国民の要求を容れて、その命と自由と財産をより安全に守り、福祉を向上させることを第一の使命とする政治家になるのに、またその政治家を続けるのに、どうしてそれほどの金が要るのか、と。実際、最もよく耳にする政治家同士の資金集め手法が「パーティー」券を互いに買っては資金集めに協力し合うというアレだ。

 頻繁にそうせざるを得なくなるというのは、この国の政治の仕組みがどこか歪んでいるからではないのか、と。事実、政治家の起こす大小様々な贈収賄事件はこの国では後を絶たない。

 適当に便宜を図ってやったり、「口利き」をしてやった相手から金品を受け取る買収事件。尤もらしい「公共事業」の必要性を説いては、その工事を特定業者に受注させたりして便宜を図っては、その業者が得た利益の一部を政治家が懐に入れる収賄事件。

 そしてそんな時、よく表面化しては、ニュースのネタとなり、社会を騒がせてきたのが、政治家のいわゆる「政治資金管理団体」による、いわゆる「政治資金規正法」違反、あるいは「政治とカネの問題」だ。

 果たしてこうしたことが、この国では、中央政治でも地方政治でも、一体どれほど繰り返されてきたことか。そしてその度に、いったいどれほど、国民の政治あるいは政治家への信頼を失い、政治家が国民全体のモラル低下に拍車をかけてきたことか。

 ところが、である。そのたびに、メディアも関係専門家の間でも、大騒ぎはするが、問題の本質をえぐりだすというところまでは決して行かず、表面的な議論だけでいつも終わってしまう。結局は、「政治にはカネがかかるんだ」という言い方で幕引きがされてしまう。

 

 ではそのように頻繁に犯罪を犯す政治家たちは、政治の場面では政治家としての本分、すなわち使命と役割を果たしているのであろうか。答えは「ノー!」だ。

その実態は既述(2.2節)して来たとおりである。そしてその実態は犯罪を犯すような政治家だけではない。与党政治家であれ野党の政治家も全く変わらない。

とにかく国会を含む議会の政治家すべてに共通していることは、誰もみな、それぞれ自分が選挙時以来掲げてきた「公約」を実現させるなどケロッと忘れて、ただ議場に席を並べ、時折、自分の支持者へのパフォーマンスなのであろうか、いかにも自分は今、“議会でこうして活躍をしているんです”と言わんばかりの態度で、「質問」して見せるのだ。

 それも、質問は、同じ議場の他政党の政治家に向かってではない。本来、三権分立なのだから、立法機関であるそこにいてはならないはずの、執行機関である政府の者に向かってなのだ。

つまり、この国の政治家という政治家は、議会は質問の場ではなく立法の場であるということすら判ってはいないのだ。いや、そんなはずはない。知っていて、無視しているのだ。

なぜか。多分その方が楽だからだ。

 つまり、この国の特に国会を含む議会の政治家という政治家は、完全に国民の信頼と期待を裏切り、税金泥棒あるいは詐欺師と化しているのだ。

 

 となれば、政治というものがいかに国民の幸不幸に直接関わる重要な社会制度であるかということを考えるとき、上記して来たような、国民にとって極めて深刻で不幸な政治家の事態を解消するには、もはや、「政治資金規正法」違反を云々して済むような話では断じてないことがわかるのである。

むしろ、政治のあり方やその質を左右し、そして民主主義議会政治を実現させうるか否かを左右する、政治の出発点である「公職選挙法」そのもののあり方を問わねばならないことがはっきりするのである。それを抜きにしては、この国の「政治とカネの問題」は果てし無く続くことになるからである。

 しかし、ここで少し考えてみればすぐに判ることであるが、そんな「税金泥棒」あるいは「詐欺師」とまで私たちが言わねばならないようなそんな政治家を選んだのは、他でもない私たち国民自身なのだ。この国の政治家の上記したような、あるいはこれまで随所で述べて来たような、目を覆うばかりの惨憺たる状況、情けない状況を生んだのは、私たち国民の、民主主義政治の出発点である選挙に対する理解の浅さと関心の低さ、そして、政治そのものに対する理解と関心の低さと言っていいのである。

「政治家のレベルは、その国の国民のレベルを超えられるものではない」とはよく言われることであるが、私たちの日本にもそれはそのまま当てはまるのである。

 主権者とは、「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持する者」という意味であるが、「主権在民」とは言うものの、主権者である私たち国民が主権者としての義務と責任を果たして来なかったのだ。

 したがってそのことを私たち国民一人ひとりが先ず自覚しないことには、ここで述べようとする選挙制度改革を含む現行の政治状況の変革などできるわけはないのである。ということは、言い換えれば、私たち国民は、いつまで経っても真の幸せはおろか、安心できる暮らしも手にすることもできない、ということなのである。それはまた、この国は、世界では当たり前となっている、人並みの民主主義国にさえ、いつまでたってもなれないままとなる、ということなのである。

 

 ところで、これまで、この国で行われてきた選挙は、どこの地域の選挙でも、いつの選挙でも、単なる「儀式」あるいは形式的なものとしか言いようのないものだった。

そこで言う儀式あるいは形式とは、それを行うことの意味を深く問うことなど一切なく、決められた時に、決められた事を、決められた通りにただするだけとした行事、との意味だ。それだけにその選挙は、この国に真の民主主義を実現させることのできる本物の政治家を選び出す制度でもなければ、また育てられる制度でも全くなかった、ということでもある。

 現行の選挙制度については、投票する側の私たち有権者も、また選挙戦に臨む国会議員候補も地方議会議員候補も、いずれも、「選挙」について目的と手段とを履き違え、その意味を理解して来なかったのである。

 本来、選挙とは、この国の最大多数の国民が最大に幸福になれるようこの国の現状を変えてくれる、また変えることのできる能力と変えなくてはとの強い意志を持った政治家を選び出すことなのだ。選挙はそのための手段に過ぎない。したがって、選挙は投票することが目的なのではない。つまり、投票すればお終い、なのではない。

また、投票すること、すなわち私たち一人ひとりが有権者として持つ一票を投じるということは、それを投じる相手である候補者に、その候補者が掲げる約束、即ち公約を実現して欲しいと期待するとともに、公約を実現することができる力としての権力を託すことでもあるのだ。したがって、自分の持つ一票を投じた結果政治家となった者については、彼のその後について、付託された権力を公正に行使して、その公約をきちんと果たそうとしているか、また果たしているかを主権者としてチェックし続ける義務を持っているのである。

 だから、“投票してしまえばお終い”では決してない。むしろ自分が投じた候補者が当選した後の方が、私たち国民の主権者としての義務、国家と社会に対する義務の履行が待っているのである。そしてその義務を次の選挙の結果が出るまで貫き通す態度こそ、この国に民主主義を実現させ、私たちの日々の暮らしを安心できるものにする最も早道になるのである。

 一方、もちろん候補者から見ても、当選することが目的なのではない。目的としてもならない。むしろ当選することは、政治家としてのスタートラインに立つことでしかない。だから、“当選すればお終い”なのでは断じてない。当選して後こそが、自己の愛国心と国と国民への忠誠心の有無を含めた形での、政治家としての能力と資質が試されるのだ。

 そこで、こうしたことを有権者である私自身にも戒めとして言い聞かせながら、以下に、私の考える、この国の、これまでとはまったく違う、これからの新しい選挙制度のあり方について提案してみようと思う。

 

 動機については既に明らかであろうが、それでも、ここで改めて明確にしておきたいと思う。

 これまでの日本の選挙制度は、国政レベルでも、また都道府県および市町村の政治レベルでも、選ばれたはずの者は、国民が納得しうる意味での代表とはとても言えるものではなかった。どこの選挙でも、投票率が50%を割るような状況は常態化しているからだ。

国政レベルでも、最大多数党となったとは言っても、全有権者からの得票率は50%に遠く届かない。

 実際、現在の安倍政権などは、政権を執ったとされる2017年の総選挙についてみても、自民党だけについてみれば、比例代表選挙での得票率は33%、小選挙区制の下では有権者の2割にも満たない支持で「当選」とされた者から成る政党に過ぎない。それでいて議席占有率は61%にもなってしまうのだ(赤旗日曜版2017年12月17日号)。

 これでは国民を代表する政権とはとても言えない。代表していると言えるためには、常識的に考えても、全有権者数からの得票率が最低でも50%、いや政権を執れたと言えるためには、憲法改正必要議員数と同様に、全有権者数の三分の二以上が必要であろう。

 それなのに、安倍晋三も、安倍に任命された閣僚も、当然のように総理大臣をやり、閣僚をやっている。それに、この国の現行憲法はそうした状態を無効ともしていないし、司法もそうした判断を避けている。しかも、ひとたび当選してしまえば、議席占有率61%にモノを言わせて、憲法違反の法律を強行可決したり、憲法上の正規の手続きを無視して、解釈を変えるだけで改憲したことにしたりと、もうやりたい放題だ。

ところがこの国では、首相および政権政党の政治家たちのこうした行為に対して、それを権力の濫用だ、憲法への冒涜だ、と真っ向から論難する政治家もいなければ政党もない。

 そもそも安倍晋三は、憲法を“国の理想を語るものだ”などというとんでもない認識でいる。国民が生きてゆく上での原器あるいは物差しであることも知らない。

こんなところは、例えば、アメリカ合衆国大統領が就任時に、神の前にてなぜ次のように宣誓するのか、その深い意味を、この国の総理大臣になるような者はきちんと考え直すべきだ。

“ 私は 合衆国大統領の職務を忠実に執行し 全力を尽くして合衆国憲法を維持し 保護し 擁護することを厳粛に誓う ”

 さらには、一人一票しか与えられていない投票権の重みが、地域によって2倍から3倍もの差が出てしまうような状態にもなっているのに、政権はそれも放置したままだ。裁判所もその状態を明確な「違憲」とはしない————実はこうなるのも、私は、この国では、司法権が行政権、とくに法務省の官僚から独立し得ていないがためであろうと見ている————。

 そんな中、政権政党を中心に、「合区」だとか「△増▽減」といった、形式的で小手先の「数合わせ」だけで済ませてしまっている。

 したがって今のままでは、この国では、儀式の選挙によって、名ばかりの政治家が選び出され、形ばかりの議会が開かれ、名ばかりの総理大臣が選ばれ、またその総理大臣によって名ばかりの閣僚が任命され、形ばかりの政府、形ばかりの組閣がなされ、軍事超大国に追随しては主権を放棄し、総理大臣を含む全閣僚は、官僚たちがはるか昔に設けた「縦割り組織」に相変わらず一様に依存し続け、名ばかりの国家が形作られてゆくことになる。

 しかも、こんな名ばかり政治家を生み出すだけの選挙制度なのに、その制度は、既述の通り、出馬するだけでも、また当選した後にも、あまりにも無意味な金がかかりすぎる制度なのだ。

それに、ある程度の得票を確保できなければそれを没収するといった供託金制度という制度が設けられていることにも、政治家の誰も異議を唱えない。政治を誠実に志す者は誰もが自由に出馬できていいはずではないか。

 これでは、この国は、首相が誰に変わろうが、政権政党がどこに変わろうが、その政治状況は本質的には何一つ変わるはずはない。むしろ、明治期以来の、民主主義など全く理解しようとすらしない、そして本来公僕でしかない官僚による実質的な独裁が維持されてゆくことになるだけだ。そしてその結果として、この日本という国は、主権者であるはずの国民は、いつまで経っても、何をするにも、またどんな矛盾を目にしても、 “どうしようもないのだ”、あるいは“仕方がないのだ”、“長いものには巻かれるよりないのだ”として、精神的に「打ちひしがれた民の国」(ウオルフレン)のままとならざるを得なくなる。

それだけではない。大惨事が生じても、その度ごとに、この国は事実上無政府状態に陥り、多くの国民の命が救われることなく、いたずらに失われてしまう無情の国のままとなってしまうことも間違いないのだ。

 以上が、私が新選挙制度を提案する動機である。

 

 そして以下が私が新選挙制度を提案する目的である。

それは、一言で言ってしまえば、第8章で述べた、《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》とを二大指導原理とする新国家建設の理念と目的と、その国家としての形を実現できる能力と決意を持った政治家を、国民が国民の手で生み育てられるようにすることである。

 そしてその目的は次の3つの事項から成っている。

⑴ 国会を含むこの国の立法権を持つ議会という議会を、文字どおり「議論の殿堂」、「言論の府」としながら、国民の要求する問題に迅速かつ機動的に対処してはそれに応えられる法律や条例を独自につくることのできる真の立法機関として機能させ、もって名実共に「国権の最高機関」とすることができる本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること。

 そこで言う法律や条例には、政策や、これまでは政府に作らせてきた予算も含む。国民のお金の使い道は、国民の代表が自らの手で作るのである。

  また、これまでは、議会は、執行機関に過ぎない政府から提案された案件に対して、“議会のチェック機能を果たしている”などといった弁明と詭弁の下に、肝心の立法はせずに、「質問」するだけの場でしかなかったが、それを改めさせるのである。

中央政府を含むこの国の執行権を持つ政府という政府を、議会が制定した法律や条例を、官僚や役人をコントロールしながら、政府内組織のこれまでの「縦割り制度」を壊し、必要ならば官僚組織の在り方あるいは公務員制度を国会(議会)に諮ってでも抜本的に変えて、執行させられる、国民の立場に立った本物の政治家を生み育てられる選挙制度にすること。

 言い換えれば、政権を執った多数政党の政治家たちが、選挙時以来各自が掲げてきた公約————それは議会で多数を占める政党が可決して公式となった政策であり法律でもある————を、民主主義実現のために、各府省庁の官僚をして、主権者から負託された執行権力を公正に行使しながら、“こうしなさい”、“あーしなさい”と指示命令し、確実に執行させうる、国民の代表としての本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること。国民の代表である総理大臣あるいは閣僚の指示命令に逆らったり、抵抗することは、国民の「シモベ」としての公僕としてふさわしくないので、その場合には、憲法15条の第1項に則って、人事権を持って躊躇なく罷免または降格すればいいのである。その場合の人事権も選挙当選時に国民から付託された権力に含まれているはずだからである。

最高裁判所を含むこの国の司法権を持つ裁判所という裁判所を、官僚たちの気まぐれな独断による支配ではなく、つねに社会の誰もが平等に扱われる「法の支配」の下で公正な裁判が行われるようにするために、裁判所の人事の任免権や評価権に関しても、行政権を持つ政府の官僚から、あるいはその彼らに操られ、彼らに同調した首相および閣僚からも完全に独立した司法機関と為しうる本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること

 

 これから判るように、私が新選挙制度を提案する目的は、この国を、三権分立が真に確立され、民主主義が本当の意味で実現された国家となしうる政治家を生み育てられる制度とすることにあるのである。言い換えれば、政府の官僚のこれまでのような独裁をことごとく封じ、この国を、真の民主主義議会政治の国、「法の支配」と「法の下での平等」を実現した真の法治国家にすることでもある。

 

 ではその新選挙制度とは具体的にはどういうものか。

それは、以下に順を追って示すが、その要点だけを言えば、選挙運動資金がゼロでも、知名度などまったくなくても、また背後に大支援団体などが存在していなくても、後に示す「6つの条件」さえ満たせば誰でも選挙戦に出られ、またそのための必要資金も公金から支給され、そこで有権者の支持を得られれば政治家になることができ、その後の本来の政治家としての活動ができる必要十分な活動資金も、やはり国民のお金から定期的に支給されもする、とする制度である。

 逆に言えば、その「6つの条件」を満たさなければ、どんなにカネがあろうと、どんなに知名度が高かろうと、どんなに巨大な団体をバックに持とうと選挙戦には出られず、したがって政治家には決してなれないとする制度である。

 それは、選挙戦に臨めるための条件を、金持ちであろうとなかろうと、著名人であろうとなかろうと、そういうことには関係なく、あくまでも公平で公正なものにするためである。

 そしてその「6つの条件」とは、以下に示すような6種のうちのいずれかの公約を掲げられることである。

 

1.日本という国を、政治的舵取りのできる真の指導者を持ち、官僚とその組織をコントロールしながら、また現行のいわゆる「政府組織の縦割り」の打破を含めて、必要に応じて、官僚組織を大胆に変革しながら、議会が決めた政策や法律を速やかに執行しうる真の政府を持った、真の国家とするための具体的な方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約

2.とくにこれまで、この国の政治家が取り上げることを敢えて避けて来たがために事態をいっそう深刻化させて来てしまった、この国あるいはその地域にとっての最重要・最緊急課題を取り上げ、その課題の解決に、立候補希望者なりの具体的解決方法を示しながら取り組むことを決意した公約

3.《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国家の二大指導原理とすることに国民の合意が得られるように計らいながら、日本に真の民主主義を実現させるだけではなく、さらにそれをも超えた生命主義をも実現させ、この国を真に持続可能な国にする具体的な方法を示した公約

4.日本という国を、国民の生命と自由と財産の安全、そして人権の擁護と福祉の充実がつねに最優先される国にするための具体的な政策案あるいは方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約

5.不安定化と複雑化を増し、分断化が進む世界に対して、日本が、協調外交を通じてその世界の真の平和と安定に貢献できる具体的な策を示し、それらの実現に努力して行くことを決意した公約

6.今、世界が直面している人類存続の可否がかかった4つの大問題である「気候変動問題」、「生物多様性の消滅問題」、「化石資源のみならず海の資源と山の資源の枯渇化の問題」と「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決に向けて、日本としての具体的な策と方法論を世界に向けて示し、それを率先して実行して行くことを決意している公約

 したがって、もしこれらの「6つの条件」とは反対に、あるいはそれとは無関係に、たとえば「安全で快適、災害に強い県土をつくります!」、「人生100年時代。安心な暮らしを支えます!」、そして「時代を担う若者に思いっきり投資します!」といった類いの、抽象的で、単にその時の社会の受けを狙っただけの思いつき程度のものとしか思えない公約を掲げた者や、自分の選出母体や選挙地盤に利益誘導することを公約として掲げているような者は、候補者となる資格はないとしてその場で失格とされる制度である。そのような態度は、民主政治の出発点である選挙を冒涜し、有権者を愚弄し、愛国的態度ではないからだ。 

 振り返ってみれば、当選しても、自分が掲げてきた公約を議会で実現するわけでもなく、とにかく議会でただ質問すること、それも三権分立の原則を自ら破って、議会に役所の者を入れてはその者たちに質問することを政治家の役割と考え来たのは、そうした輩ではなかったか。

 また、当選しても次期選挙で当選することばかりを議員活動の主目的とするがあまり、特定支持者から頼まれて口利きをしたり、選挙地盤の住民の慶弔行事に祝電や弔電を送ったり、また地域の行事や学校行事に顔を出したり、地元民のエゴに応えて利益を誘導したり、はたまた中央行政府からより多くの税金を補助金として分捕って来ることにばかり専念して来たのは、そうした輩ではなかったか。

 とにかくそのような輩は、官僚独裁をはびこらせ、日本の民主主義の実現を阻み、次代を担う若者たちや子どもたちに「政治とはそういうものか」と誤った捉え方を植え込ませ、害毒をまき散らすだけの存在でしかない。

 

 なおここで特に注目していただきたいことがある。それは、この新選挙制度提案目的からも、また選挙に臨める「6つの条件」からも推測がつくと思われるが、ここで私が提案する新選挙制度は、もはや必ずしも政党政治あるいはその存続ということは重視していないということである。

 それは、この国のこれまでの与野党政治の歩みや議会でのやり取りを見ればはっきりする。

 もはや政党政治は実質的にほとんど機能し得ていないからだ。少なくとも、昨今、特にこの国では、マイナス面ばかりが目立つようになってはいないだろうか。

 例えば、各政党の代表からなる国会対策委員会など、実質的に議会を進める上での談合の場となっている。しかもその議会は、既述のように、立法もしないで、事前通告形式で、質問と答弁は一回限りで、答弁者はどうにでも逃げられる全くの儀式だ。それに、当選しても、一旦特定の政党ないしは会派に所属してしまえば、党議拘束によって、かえって自身が本当に実現したいと思っている政策が否定されたり歪められたり、あるいは自分としては賛同しかねる政策案や法案に賛同を強要されたりする。もしそれに逆らったりすると、除名ないしは除籍処分にされたり、次回の選挙から公認候補とされなくなったりして、何かと不自由を強いられるようになる。かといって、まるっきり無所属では、何の存在感も示せない。また反対に、それまで政治などほとんど無関係の分野に生きて来た例えばスポーツ界や芸能界の者が、たまたま有名人だからということで担ぎ出されて当選した者などは、政党の頭数を満たすだけの存在価値しかない。国民にとっては、それこそ税金泥棒で、有害無益だ。

 では政党政治の利点とは一体何だったか。

 私にはほとんど見当たらない。むしろ、自民党公明党がやってきたことを見ても判るように、数に物を言わせて、憲法を無視しながら、質疑はそこそこにして違憲の法制度の裁決を強行するという「代表の原理」や「審議の原理」(山崎広明編「もういちど読む山川の政治経済」p.12)を無視した行為に出ては、憲法を破壊し、立憲主義を踏みにじってきたのだ。

それに、政党、それも大政党になればなるほど、特定企業や産業界からの政治献金という、見返りを期待しての実質的な賄賂が公然ともたらされ、その結果、法が献金業界に有利なように歪められ、社会の不平等や格差を拡大させてきてしまった。

 また政党というものがあるから、それに所属する政治家は、選挙時、票をカネで買うという不正行為も大胆に行ってこれたのだと私は思う。

 また、国会議員についてみるとき、政党というものがあるから、一人当たり2000万円を優に超える歳費を享受しながら、その上さらに、一人当たり4500万円余にも上る、国民からしたら理不尽この上ない「政党助成金」という金が公然と政党に支給されるのである————ただし、共産党だけは、その金を受け取ることを辞退している————。

 また政党というものがあるから、そこに所属してさえしまえば、後はそこに名を連ねているだけで、政党が面倒を見てくれて、政治家然としていられるのである。

 とにかく、これからは、そんな有害無益な政党政治制度速やかに廃止するのである。

 実際、今や、世界各国、特に先進国と呼ばれている国ほど、社会の格差の拡大や、人々の分断の進化に政党は対処し得なくなって来ているように私には見える。それに、地球の温暖化や生物多様性の消滅にも有効に対処し得なくなっているようにも見える。

 そんなことから、これからの政治家は、政党や会派という集団に縛られず、またそれに埋没することもなく、一人であっても、先の「6つの条件」に基づいて行動する政治家こそが、国民から本物の政治家として切実に求められるようになってゆくだろうし、実際、もうそうなって来ているのではないか、と私は思われるのである。

 それは、主権者である国民の声には絶えず真摯に耳を傾け、その要望に応えうる政策案を自らの政治的哲学に由って独自の「公約」として練り上げ、議会においては、自らの弁論術を磨き、他政治家を弁論をもって説得しては、それを公式の政策なり法律なりへと実現してゆこうとする政治家のことである。

 

 では、その新選挙制度は具体的にどのような流れによって構成されるか。

それについては、「その2」にて、詳述したいと思う。

 

 

 

 

 

第8章 創建を目ざす国家の「理念」・「目的」・「形」

 

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第8章 創建を目ざす国家の「理念」・「目的」・「形」

 この国は、明治維新以来これまで、「殖産興業」・「富国強兵」という公式の国策の下で、戦後は「果てしなき経済発展」・「工業生産力の果てしなき増大」を公式にではなく暗黙の国策としてきた。そして、確かに、1980年代後半では、世界も目をみはるほどの、アメリカに次ぐ、というよりこのまま行ったらアメリカさえ追い抜くのではないかと思われるほどの経済超大国となった。

 本当ならばその時、私たちは「もう、明治からの国の目的は達したのだから、ここら辺で、方針を変え、考え方も変えて、新たな目標に向かって歩みを進めよう」とすべきだった、と、私は思う。

でもそれを言う政治家は誰もいなかった。知識人もいなかった、少なくともメディアによく出てくるような知識人の中には。

 その後、「バブル経済」の崩壊で、この国全体は、今度はそれまでとは打って変わって、急坂を転げ落ちるように勢いをなくし、誰もが自信を失って行った。もうあれから30年が経とうというのに、いまだに立ち上がれてはいない。世界的に温暖化が進んでいるというのに、行くべき新たな道も見出し得ていない。何を重視し、どのような価値観の下で歩んで行くべきかということについても、政治家も知識人も、誰も明確には打ち出し得ていない。

 そういう経過をたどってきたこの国であるが、その中でも、私たち日本国民は、確かに、おしなべて物質的には豊かにはなった。欲しい物は、だいたいの人が手に入れることができた。

 そこで疑問を発したくなる。では、果たしてそれで、私たちは一人ひとり、本当に幸せになれたのだろうか。人間として、他者を大切にしながら、成長し得たのだろうか。

 その答えは、私には、今日の人々一般の物の考え方や行動様式、そして生き方に見事に現れているように見える。あるいはその答えは、多くの人が、自分の将来や国の将来に不安を抱いていて、むしろ昔を懐かしんでいるその世相に現れているように見える。

 

 これまでの《第1部》では、私は、もはや「近代」という時代はどういう角度から見ても終った、否、既にとうに終わっていて、実際には新たな時代に突入してしまっているとの認識を示して来た。もちろん近代が終ったということは、その時代の主流を占めて来た資本主義経済あるいはそれにまつわるグローバル市場経済が通用する時代も終わった、またその経済を支えて来た化石資源を土台としたエネルギーシステムが通用する時代も終わった、近代を主流として支配して来た価値観や思想が通用する時代も終わったということをも意味する、とも述べてきた(1.3節)。

 したがってこれらをワンセットとする時代支配要素をこれ以上継続することに執着することは、結果として、人類は、今度は自分で自分の首を絞めてしまう、言い換えれば、経済を発展させられるどころか、経済を発展させようとする行為そのものが却って発展のための足かせとなってしまい、生きて行くこと、存続させて行くことさえ自分で不可能とさせてしまうことを意味する、とも述べて来た。

 それは、今この地球に生じている気候変動を、引き返すこともできないほどに激化させてしまうことになるだけではなく、人間がその恩恵によって生かされて来た生物多様性をも決定的に消滅させてしまい、その結果として、極めて深刻な食料危機や資源不足を招くことになるということがかなりの確率をもって言えるということでもある。またそれは、多分先進国と言われてきた国ほど、その社会には格差と分断がいっそう激化し、社会はいっそう不安定化し、本来共同体であったはずのその社会を崩壊させてしまい、それこそ、ホッブスが言うところの、万人の万人による闘争状態へと突入して行ってしまうことになるということでもある、と私は考えるのである。

 

 以上の捉え方は世界一般に対する私の推測であるが、しかし目を向ける先を日本に限定すると、私は、日本は、世界一般のそれよりはずっと早く、しかも全般的な危機という形で直面するであろうという認識を持っている。それだけ日本は様々な意味で脆弱だ、と見るのである。

そしてその脆弱性を生じさせている最大の根拠は、私は、この日本という国は統治体制が不備であるということ、すなわち真の国家ではないこと、未だに真の国家にはなり得ていないことである、と考えている。

 そのことは、すでに、例えば、阪神淡路大震災でも、その後に起ったオウム真理教によるサリンばらまき事件の時にも証明されていたと思っている。東日本大震災と、その直後の東京電力福島第一原発炉心溶融による水素大爆発時ではそれがもっとはっきりとした形で証明されたと思っている。

 つまりこの国は、イザッ国難というとき、被害者・被災者となった国民はその生命と自由と財産が速やかに救われることはないどころか、むしろ、半ば見捨てられてしまうような国なのだ。

 それが証拠に、「3.11」とその直後の東電福島原発の大爆発が起こってからまる9年が過ぎたというのに、未だに1万3千人に近くの人が仮設住宅住まいを強いられ続けている。200人以上の人が政府の対応の遅さと劣悪さに希望を見出せなくなって自殺しているのである————しかもこうした数字のデータを示して見せてくれたのは、「3.11」の復興のために中央政府内に設けられた「復興庁」ではない。むしろそこでは、そうしたデータは取っていない、とさえ言う。示してくれたのは、福島県庁であり岩手県庁の職員なのだ­­­­————。

 しかし、気候変動等がもっと進む今後は、被害状況はそんなものではとても済まない、と私は推測する。そしてその都度、この国の政府は間違いなく「無政府状態」に陥ると予想している————実際、今起こっている新型コロナウイルス感染爆発に対しても、もうすでに、実質的に無政府状態に近い状態に至っているのだ————。

 先に、私は、日本は、世界一般よりはずっと早く、全般的な危機に直面するであろうと言ったが、こうした事実に基づいてもっと先を見ると、この国の私たち民は、このままでは、経済先進国など全く幻想と化し、国民全体が生きてゆくことさえできない惨めな末路を迎えることになる、とも想像するのである。

 そこで、ここでは、この国がそんな惨めな国になるのは何としても避け、いや、ただ避けるだけではなく、もっと積極的に、この日本という国を国民一人ひとりが心から誇りに思える国に変えるには、私たち今を生きる国民は、何をどうしたらいいか、ということについて考える。

それは言い換えると、今を生きる私たちは、この国を、子々孫々に託すに値する国、それも本物の国家としての国を実現させるには、今、何をしたらいいか、ということである。

 その場合、土台に据えるものの考え方や生き方は、これまで述べてきた《第1部》の内容のものである。それらに忠実に歩みを進めてゆくことこそが、この私たちの国日本を、途中、脱線したり、道を踏み間違えることもなく、そして最短で、真に持続可能な国へと生まれ変わらせられることになるのではないか、と私は考えるである。

 

 そこで、《第2部》のここからは、そうした、真に持続可能な国、そして本物の国家を建設してゆくことを具体的に考える。それは、民主主義を実現した上に、さらにそれよりも高次元の生命主義をも実現した国である。

 もちろんその国づくりは、徹底的に、主権者である国民の総意に基づいて民主主義的に行われる、いわば“人民の、人民による、人民のための新国家づくり”である。断じてこれまでのような、明治薩長政権以来の、そして今日に至ってもなおそれが続いている、“官僚の、官僚による、官僚のための国づくり”ではない。

そしてそれは、文字通りこの国の有史以来初めての、全国民を挙げての大事業である。

 

 ではそうした国づくりと国家づくりに着手しようとする際、私たち国民が、建国事業の主体者として、真っ先に明確にしなくてはならないことは何だろうか。

それは物事を始めるときには何でも、そしていつでもそうであるが、この場合もやはり、どのような理念に基づきそれを進め、最終的には何を実現し、どのような状態の国を目指すのか、そしてそのためには、どのようなしくみや制度から成り立った国とするのか、ということであろう。

つまり、新国家建設の理念であり、目的であり、形をまず明確にすることだ。

もちろんそれらは、新国家建設に当たって、真っ先につくられなくてはならない新憲法の中に明示されるべきものでもある。

 そしてその次に明確にされねばならないことと言えば、そのような国はどうやって、つまりどのような手順あるいは工程を経て、最終的にはいつまでに完成させ実現させるかという全体行程であろう。言い換えれば国家創建のための戦略である。

 

 では新国家建設の理念と目的と形を定め、しかも国家創建のための戦略を定めるにはどうしたらいいか。

そのためには、先ずは、こうした新国家の理念・目的・形を、「たたき台」として誰が作るのか、である。次は、作ったそれを、大至急国民の前に明らかにすることである。そして国民全員にわかりやすい言葉で筋道を立てて説明することである。そうしては、国民各層の率直な意見や要望を汲み上げて、たたき台の中身を修正し、実行可能な内容のものへと高めてゆくことである。

 実は、この国の政府は、日中戦争を起こすときにも対米戦争を起こすときにも、これをしなかった。いかに天皇を絶対視し欽定憲法下にあったとは言え、国民の理解と協力なくしては戦争遂行など絶対に出来るものではないのに、である。もちろん、開戦に当たって国民の合意を求めることなども一切しなかった。それは、開戦と戦争遂行上の最終的責任を有する統帥権統治権を所持する天皇も、また戦争を実際に遂行する軍部も同様だった。戦争で何を目ざすかについても、誰も国民に説明をしなかった。というより、そのようなものは最初からなかったのだ。そんな状態であるからもちろんのこと、戦争がどうなったら止めるのか、あるいは引き返すかについても、誰も全く考えてもいなかったであろう。

 そうしては、軍部と一体となり、また軍部に流された政府は、国民を「赤紙」一枚で戦場に駆り出したのだ。

 無条件敗北を喫した時にも、これら三者———天皇と政府と軍部———は自国民に経緯を説明することなど全くなかった。ましてや国民に謝罪することなども、である。またそんな状態だから、起こしてしまった戦争の全体を振り返って公式に総括し、そこから教訓を引き出すなどといったこともしなかったし、そんなことは誰一人考えもしなかったであろう。

 そのうちに占領軍が入ってきてしまったのである。

 

 そこで、《第2部》の最初のこの章では、予め明らかにされていなくてはならない前述の2つの事柄のうちの前者である、新国家建設の理念と目的と形について、私なりの考え方を《第1部》に基づいて、「たたき台」として、明らかにする。

本当ならば、国の最高指導者兼最高責任者の公式の命を受けて、本物の知識人・人格の優れた専門家集団がそれを作ってくれるのがふさわしいと私には思えるのであるが、今のところ中央政府にはそうした動きは全く見られないし、またそのような動きを待っている時間的余裕もないからだ。

 なお、新国家建設に先立っての、理念・目的・形等を含む国家存立の基本的条件を定めた新憲法については、後の第16章にて、これも私の考えるものとして示すつもりである。

 また、後者の全体行程あるいは国家戦略については、第14章と17章にて明らかにしてゆくつもりである。

 

目ざす国家の理念:

 《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国づくりの二大指導原理とする。

それは、私たち人間が、地球資源の有限性を前提として、現在世代が人間として生きて行く上で必要なものを満たし続けることができるようにするためというだけではなく、将来世代・未来世代も同様に人間として生きてゆける条件を満たし続けることができるようにするためである。そのために、新国家では、政治制度としての民主主義を実現させながらも、それをも超えた生命主義の実現を目指す。

 生命主義、それは、人は本質的には何によって生かされているかという真理と真実の理解の上に立つ考え方である。そしてそれは、これまでの近代を貫いてきた人間中心・市民中心の民主主義を超えるものである。もともと民主主義あるいはそれを考えた市民の視野には他生物の存在は入っていなかったがために、結局は、人間がそれによって生かされて来た地球の自然を汚染し破壊して来てしまったという教訓の上に立つものである。

 さらにその新国家は、世界のいかなる軍事ブロックや軍事同盟にも与せずに、また特定の軍事超大国にも依存せず、国民一人ひとりの“自らの祖国は自らの手で守る”という精神と気概の下で、真の主権国家となる。そこでは、全方位平和外交を主軸としながら中立を維持して、国の平和と安定を維持してゆく。

 その中で、国民が生きて行く上で絶対に不可欠な食糧とエネルギーについては、国民自らの手で自前で確保する。

 したがってここで目ざす国家とは、当然ながら、もはや、たとえば明治政府の「富国強兵」と「殖産興業」を国策とするような国家でもなければ、戦後の保守政権が一貫して取って来た「軽武装で、果てしなき経済発展」を暗黙の国策とするような、祖国防衛を他国に任せた、半人前の、しかも国家ですらない国でもなく、国民から直接選ばれた真の指導者の下で、社会の全ての構成員が統合された、統治の体制を整えた本物の国家である。

そして、いつでも、どこででも、人類愛に基づいた自らの国家理念の下で、自国の主権を堂々と主張し、また堅持しうる真の独立国である。

 さらには、国際社会の平和と人権そして地球の自然環境の蘇生に具体的に貢献できる国となることを目ざし、支援を求める国と地域に対しても、いつでも相手の立場に立って最大限の支援の手を差し伸べられる国家となることをも目ざす。

 そのためには、私たち国民一人ひとりは、日本国籍を有するという意味での日本人としての自覚と誇りを持ちながらも、もはやその日本人としての意識を超え、アジア人でありながらアジア人としての意識をも超えて、これからは陸続きのアジアとヨーロッパを融合した「ユーラシア」の一員としての意識を持って、国を支え国の発展を図る。

 それは、現状での世界における様々な形での対立や紛争、またそこから絶えることなく生まれて来る莫大な数の難民とその悲惨な暮らしを見るとき、そしてそうでなくとも今、人類の存続の危機が目の前に迫っているという事実を直視するとき、私はこれからの日本の世界における位置付けについて、次のように思うからである。

 アジアとヨーロッパの中にあって、互いの信教となっている仏教、ヒンズー教イスラム教、キリスト教ギリシャ正教ユダヤ教ではあるが、そして、アジアとヨーロッパの中には実に様々な文化と伝統があるが、これからは、これらを互いに認め合いながら、共に地球人としての意識と自覚を大切にして生きて行ける国になる必要があるのではないか、、と。

 そしてそうした考え方と生き方を通して、この日本国を、「人間教育」と「福祉」と「文化」の大国、さらに願わくば、「思想」と「実践」の大国となることをも目ざすのである。

 

国家の目的:

 前記した国家の理念を実現できる条件を創り出すことである。

 

国家としての形:

 政治体制としては、民主主義の実現の下に、もはや議院内閣制によるのではなく大統領制をとり、連邦と州と地域連合体よりなる連邦国家とする。

そして日本連邦は、共和制の統治形態をとる、連邦制法治国家とする。

 

連邦国家とは、複数の州や地域連合体を支分国とし、中央政府である連邦政府———この場合、大統領府となる———の下で、それぞれが互いに権限を明確に分ち持ちつつ、全体として統合された国家のことである。

 したがって、新国家では都道府県や市町村は廃止する。

そしてそれは、明治政権でさえ寡頭政治家の下で「廃藩置県」をやり遂げられたことを考えれば、今の時代、可能だ。それが成し遂げられないはずはないからだ。

共和制体とは、主権が国民にあり、国民が選んだ代表者たちが合議で政治を行う体制のこと。その場合、国民が直接・間接の選挙で国の元首を選ぶことを原則とする(広辞苑第六版)。

大統領制の下では、大統領が元首となる。

 以上が、新国家建設にあたっての私の考える理念と目的と形である。

 

 なお、新国家建設の理念と目的と形をより明確にするためには、またその新国家はどのようなしくみや制度から成り立った国とするのか、それをより明確にするためには、例えば次の諸事項も具体的に明らかにする必要があるのであるが、しかしそれらの大部分は新憲法の中でも明らかにされねばならないことなので、以下の諸事項の説明は、後述する連邦憲法の中で行うこととする(第16章)。

例えば、国家の義務、国民主権、国民の個人としての基本的権利とその保障、立法権と執行権と司法権から成る三権分立、大統領と首相の役割、国を構成している構成主体間での権力の関係、およびそれらの法的地位と権限と管轄事項との関係、連邦大統領の役割りと権限、連邦大統領の軍指揮権、連邦議会の役割、とくに上院(参議院)と下院(衆議院)の管轄事項、連邦政府の管轄事項、司法権の独立等についてである。

 そこでここでは、目ざす国家での連邦と連邦構成主体との間の権力の関係、およびそれらの法的地位と権限と管轄事項との関係についてのみ、予め、ここで、私の考えるそれを明確にしておく。

 それは、これまで、この国では、戦後、都道府県や市町村は自治体と呼ばれ、とくに市町村は基礎自治体と呼ばれながらもそれは名ばかりで、実態はとても自治体と呼べるような公共団体ないしは共同体ではなく、むしろ権力を集中させて、財源を自ら確保する権限も手放そうとはしない中央政府への、誇りも気概も見せず、卑屈な従属体でしかなかったことへの反省に基づくものである。

(1)連邦と州との権力関係と法的地位、および権限と管轄事項との関係

 連邦政府は、各州の政府を通してその州の人々と産業に対して、憲法と法律に拠り自立性と自律性を保障すると同時に、各州の人々の暮らしと産業の存続のための財政的かつ人的な助成をしながら、全州にまたがる次の5つの分野の事業とそれにまつわる事務を責任を持って行う。

−−−−外交、防衛(対内外に対する民生と国土の防衛、すなわち国内的には大規模広域災害に対する予防と対策、対外的には国土防衛を担当する)、通貨(ここでは全国通貨であって、地域通貨は除く)、鉄道、郵便(通信は除く)

(2)州と地域連合体との関係

 州は、集落ないしは集落群と都市とから成る多数の地域連合体から成り、その地域連合体は、それぞれがそれぞれの統治機関としての地域連合体政府(地方政府)を持つ。

州政府は地域連合体政府に対して、三種の指導原理に違反する事業と行為、そして国家の基本法である憲法に違反する事業と行為を除けば、ほぼ完全な自治権を承認しながら、各地域連合体独自の後述する12種にわたる事業に関して財政的にも人的にも支援すると同時に、集落単体あるいは単一の地域連合体では負いきれないたとえば広域の安全と保全(森林警備・山岳警備、河川警備等)や、大規模な人的あるいは自然の災害に遭遇した際の救助・救援活動の場合にも、財政的かつ人的支援を積極的かつ速やかに行う。

(3)地域連合体

「都市と集落の三原則」(第4章4節)に基づき、集い住む人々自身の責任において政治・経済・社会の運営面のすべてに対処(自治)できる限り、集落協同体単体ないしは集落群と都市とから成る地域連合体という協同体は、人口面でも面積面でもその規模は互いに隣接する地域連合体相互の協議により自由とされると同時に、ほぼ完全な自治権憲法により保障される。それだけに、責任も伴う。

 反対に、住民になろうとする人々のうち、その規模では自治に責任を持てないという人の数が過半数を占める場合には、責任の持てる規模にまで分割し縮小しなくてはならない。

 集落協同体単体ないしは一つの地域連合体として、自治権(とくに計画権限と財源確保の権限)を持って行える12種の事業の分野は次のとおりとする。

−−−−①食料の自給。②エネルギーの自給。③自然環境(生態系)の活性化と保全。④教育。⑤福祉。⑥産業。⑦都市(街)づくり。⑧文化。⑨芸術と芸能。⑩科学。⑪外交。⑫安全

  なお、これら12種類の事業の具体的内容については、第13章にて記述する。

 

 なお、以下は、補足説明である。

では、なぜ大統領制とするか。

その主な理由としては3つある。

 一つは、国の政治的最高指導者を国民が選挙で直接選べるようにするためである。

これまでは違った。この国では、議院内閣制の下では、公式に最高指導者兼最高責任者とされてきたのは総理大臣または首相と呼ばれる者だったが、しかし、国民にとっては、彼は国民が直接選んだ人物ではなく、むしろ各政党間での権力をめぐる打算の結果でしかなかったがために、“自分たちの指導者”、“自分たちの首相”という気持ちはどうしても持てなかった。だから、“彼の指示には従おう”という気持ちにもさほどなれなかった。

 このこと自身、国民にとっては淋しいことであるし、またそれだけ国民にとっては、政治を身近なものとは感じられないものとしてしまうことでもある。

 一つは、国民から直接選ばれたわけではない首相自身も、当然ながら自分にはいつも国民が直接付いているという自覚も持てないために、国民の福祉や利益のための行政を思い切って行えないからだ。むしろ、自分は各政党間の利害の産物でしかないと考えてしまいがちだろうから、何をするにも、国民の利益よりも先ずは自分を選んでくれた与党政治家の利害を考えなくてはならなくなってしまう。

 それも、国民にとっては、不幸なことなのだ。

 事実、これまで議院内閣制で来たこの国では、国民の意思が首相に迅速に届いたこともなければ、首相が国民のために迅速に決断し行動したこともなかった。

 一つは、さらに、議院内閣制のこの国では、首相自身もそうであるが、その首相が任命し組閣した閣僚たちは、政治家として不勉強・無知・無策・無能・怠慢・無責任、そして愛国心に乏しく、国民に不忠であって、気概乏しく依存心過多であるために、もっぱら官僚に依存しないでは大臣職を務めることはできなかったのだ。

 ということで、これまでこの国では、首相は、実態としては官僚あるいは官僚組織の「お飾り」でしかなかったし、大臣は大臣で、管轄する当該府省庁の官僚たちにとっては、いずれすぐにさり、抗体が来るまでの「お客さん」に過ぎず、それだけにまた、配下の官僚の「操り人形」でしかなかったのだ。

 そんな首相や大臣だから、官僚や官僚機構をコントロールできるはずもなかったし、思い切った行政的的指導性を発揮することもできなかった。

 要するに、この国を国家としてこなかったのは、歴代の首相であり、また閣僚の全員なのだ!

 

 しかし、国の最高指導者兼最高責任者が国民から直接選ばれたとなると、上記3つの事情は全く変わってくる。

その役を為す大統領は国民に対して直接責任を負うことになり、常に国民の方を向いていればいいことになる。したがって官僚のロボットになる必要もなくなるし、国家としての統治体制も明確になり、それだけ政策執行の機動性も増すことになるのである。

 実際、アメリカやロシアあるいはフランスを見ても判るように、政策は大統領の一声で執行されている。国民の意思も国家のトップに直接伝えやすいのである。

 

はじめに ——— 今のままでは、早晩、日本はもちろん世界人類も生きてはいかれなくなるという私の危機感が本書を書かせた

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itetsuo.hatenablog.com

 

 できたら紙の本にしたいと思い、タイトルを「持続可能な未来、こう築く」として書き溜めてきた原稿を、私の息子の手を借りて、これまで私は30数回にわたって公開してきました。

単行本にしようとしたその内容は《第1部》と《第2部》とから成っています(2020年8月3日公開済みの「目次」をご覧ください)。

《第1部》は、持続可能な未来を築いてゆく上でのこの国と国民のあり方として、土台に据えるべきではないかと私が考える一連の基本的な考え方を明らかにしたものです。

《第2部》では、《第1部》の考え方に基づいて、この日本という国の仕組みや制度を含めて、その具体的な姿や形を明らかにしたものです。

IPCC(気候変動に関する国連の、政府間での専門家集団によるパネル)が幾度にもわたって全世界に向かって警告を発していることからも判るように、人類には今、これからも存続し売るか否かの危機が迫っています。私もそう考えます。しかし、その危機の中で、特に最も早くそれが現実化し、大混乱に陥ってしまうのは、多分、私たちの国日本であり、私たち日本国民であろう、とも私は推測します。

 だからこそ、私は、「持続可能な未来、こう築く」というタイトルの下で、《第1部》と《第2部》の原稿を書き続けてきました。

そして《第1部》の内容はまだ全て公開し終えたわけではありません。《第2部》に至っては、1節も公開してはいません。

 しかし、私は、この辺で、なぜ私が今から20余年も前に「持続可能な未来、こう築く」を書くことを決意したのか、それをより明確にする必要を感じます。それは、本ブログを書き始めた2020年7月27日で述べた内容よりも詳しいもので、この拙著の「目次」における「はじめに」として当初から書いていたものです。

 

 

はじめに

——— 今のままでは、早晩、日本はもちろん世界人類も生きてはいかれなくなるという私の危機感が本書を書かせた

 本書は、もうすぐそこまで迫っていると私にはずっと感じられてきた、日本のみならず地球人類にとっての有史以来最大の危機に対して、その回避策、できれば克服策を、私の考えの及ぶ限り具体的に表わしたものである。

 私が最初にこうした危機の到来を予感したのはサラリーマン時代だった。しかしその時には、私にはまだ世界人類に対する危機感はなく、日本の近未来に対する危機感だけだった。

しかしその後の世界の状況の変化を見渡すと、日本ばかりではなく世界全体にも、それも一部の危機ではなく全般的危機が迫っていると感じられるようになった。

 本書は、私の単なる思いつきの書ではない。当時私の勤務する企業内でのある出来事をきっかけにサラリーマン生活に途中で見切りをつけ、家族を引き連れて思い切って農業へと転向し、その生活と格闘しながら20余年にわたって思索を重ねて来たその結果である。

 具体的な経緯を概略的に記すと次のようになる。

 私は当地に移住する一ヶ月前までは、都内に本社を持つ某ゼネコンに勤務していた。

そこでの在籍期間の大部分は構造力学関係の研究ないしは技術開発の部門で過ごした。

二十数年間勤めたその会社では、多くの有能な上司、人間的に魅力を感じる先輩や同僚に恵まれ、仕事にも、日々、大いにやりがいを感じてもいた。

 しかしその私に、ある大きな決意をさせる出来事があった。

 それは、この国がバブル経済の全盛の時で、日本中が、文字どおりバブルに浮かれ、踊り狂っていると言ってもいい時でのことだった。

 私は、所属長から、これから社内で立ち上げようとしていた研究プロジェクトについてやってくれないかとの打診を受けた。それは、「これからの首都東京の将来像を描いてもらいたい」というものだった。

 それは、それまではずっと構造力学や熱力学また流体力学に関係する分野の研究を主な仕事として来た私だったが、しかし、ちょうどそうした打診を受ける少し前頃から、日本の都市がますます無秩序化して拡大してゆく様を目にする度に、そして全国的にも、それぞれの地域で、かつての特徴あった地方都市の姿が失われて行くのを目にする度に、残念な思いやら淋しい思いを感じていた時であった。と同時に、心のどこかで、果して都市がそのように急速に変貌してゆくことは果たして正しい姿なのか、そもそも都市とはいったい何なのか、どうあるべきものなのか、そしてその時建設会社はどう関わるべきなのか、ということをもしきりと考え始めていた時でもあった。

 だからその時の打診は私にとってはまたとないチャンスに思えたのだった。不思議な偶然を感じた。それまでの問題意識を突き詰められる機会がやって来たと思えたからだ。

 いずれにしても、そのとき私は2つの事象の行方をも考えていた。1つは、今、目の前に展開するバブル経済についてである。こんな異常な事態がいつまでも続くわけはない、しかしそれが破綻した時、この国は一体どうなるのだろう、ということについてである。いま1つは、これからは地球規模での「温暖化」を含む環境問題が、早晩、人類全体にとっての最大の脅威になってくることは間違いないと想われるが、そのときこの国はどうなるのだろう、というものだった。

 それだけに私は、そのプロジェクトをやってみることは、自社の社会的な使命と責任を世に知らしめる絶好の機会にもなるのではないかとの思いもあって、その打診を受け入れた。

むしろその後は、これまでの研究とはまた違う熱の入れようで、そのプロジェクトにのめり込むようにして全精力を傾注したのだった。

 ところが、である。最終報告書を提出したとき、そこに盛り込んだ研究の成果は会社からはまったく評価されなかったのである。少なくとも私の目にはそう見えた。

その報告書は、私たちプロジェクトメンバーの次のような結論を示したものだった。

これからの首都東京のあり方は、これまでのような精緻な人工空間ではなく、環境、とくに生態系との共存を実現させ、人々が人間らしく持続的に暮らして行ける空間でなくてはならないし、そうあってこそ都市なのだとして、その具体的な姿を例示していたのだ。

 ところが、会社側が私たちのプロジェクトに期待していたのはそういう都市ではなかったのだ。バブルがますます盛り上がる中で、文字どおりの超々高層ビルが林立する姿だった。

 実は私はそのことにはプロジェクトを進める途中で薄々気付いていた。そしてそれには私はプロジェクトリーダーとして、どう対処したらいいのか、とひどく葛藤してもいた。

 しかし結局はこう判断したのである。

———こんな狂気じみたバブルがいつまでも続くはずはない、必ずはじける。それにこれからは温暖化はもっともっと加速して行く。そのとき、人々は思ってくれるはずだ。自然と共生する首都で良かった。仮に、あのとき超超高層ビルが林立する都市を造っていたなら、都市市民は取り返しのつかないものを造ってしまったと後悔することになるだろう、と。

 そこで私は、結果については自分が全責任を負うからと前置きし、我々が信じる都市の姿を描き、それを報告書としよう、とプロジェクトメンバーを説得し、決断したのだった。

ところがそのようにして生まれた報告書が見事に無視されたのである。

 私はそのとき思ったのである。「もはやここは、自分のいるところではない」、と。

しかし、その時同時に、私の頭をよぎったものがある。それは、私がこの会社に就職する時、全く初対面かつ突如目の前に現れた某大学院生を信頼して下さり、私が入社できるよう社内で奔走してくださったF氏(後述)の顔だった。

 その方は、その時は既に定年を迎えられて退職され、奥様共々、東京の雑踏を嫌って遠くに引き込まれてしまっていた。

 私は迷った。あの方は、今の私のこんな気持ちをどうお思いになるのだろうか。あの方だったら、こんな時、どう判断されるのだろうか、と。またあの方には、今のこの自分の気持ちをどう説明したら理解していただけるのだろうか、とも。

 しかし、いく日か迷い、葛藤した挙句、私はこう思った。

“結局のところ、これは自分で決断するよりない。あの方に相談したところで、こうした方がいいとか、あーした方がいいと、あの方が言うわけはない。”

 ただ、そこで、私は、最終決断を下すとき、自分にこう言い聞かせたのである。

“あの方にはあれだけのお世話になっておきながら、会社在籍中はその期待に十分に応えることはできなかった。だが自分で決めたこれからの人生ではきっとあの方の期待に応えられるだけの生き方はしてみせる。それが唯一、あの方のご恩と信頼に報いることのはずだから。”

 私はそれからというもの、連日、日中の日常業務が終了して、周囲の社員が三々五々、帰宅し始める頃から自分の第二の進路を定めるための検討を始めた。

それは終電車の時間帯近くまで続くこともしょっちゅうだった。しかし一日の中で、その検討に割ける時間はわずかだったので、遅々として進まなかった。土曜日に出社して、一人、広いオフィス空間で机に向うことも幾度あったろう。

 そうしている中、バブルはやはり崩壊した。そしてそれ以後は、案の定というか、この国は、全体として、急坂を転げ落ちるように転げ落ち始めた。ついこの間までの国を挙げて見えていた勢いは嘘のように消え、産業界や金融業界そして不動産業界はとくにひどく、政府も打つ手なしという感じで、誰もが自信をなくし始めていた。

 私はそのとき思ったのである。このまま行ったらこの国の近未来はどうなるのだろう。それを予測してみれば、その中に自分の第二の進むべき道は見えてくるのではないか、と。

 幸い、その予想を立てる上では、先の都市研究プロジェクトを進める中で集めた様々な資料やデータが手元にあり、それが大いに役立った。

 ところがそれらを綿密に見つめ、照らし合わせながら総合して見てゆくうちに、そこに驚愕すべきというか、震撼させられる日本の近未来の姿が見えて来たのだ。

“今のまま行ったらこの国と国民は、地獄図を見ることになる”、と思えたのである。

 その地獄図とは、この国のあらゆる政治的行政的機能や法制度だけではなく、交通・運輸・物流等ほとんどすべての社会的機能も停止し、人々も何をどうしたらいいのか皆目見当がつかなくなって、日々の生活どころか喰い物すらもほとんど手に入らなくなり、そんな中、もう日常的に略奪や窃盗、さらには殺人が横行するようになって、人々は絶望状態に置かれたままになっているこの国の社会の姿だ。つまり、事実上の無政府状態に陥ったこの国の姿だ。

 私はまたそこで思ったものだ。そんな状態を少しでも回避しうることに貢献できるようになるためには、自分は一体どの方面に進んで行き、そこで何をしたらいいのか、と。

 とにかくその時点までに私がはっきりと認識し始めていたのは、この国は、景気がいい時とか調子がいい時には国民みんなが威勢いいが、一旦予期せぬことが起ってそれまでの状態が続けられなくなると、一気にそれまでの元気をみんなで失ってしまい、狼狽え、誰も新たな方向を見出そうとはしないまま崩れて行ってしまう国だということだ。それは正に、この国は、集団ヒステリー的で情緒的で、冷静に先を見通せない、あるいは起こりうる事態を論理的かつ理性的に想像することもできなければ想像しようともしない国民気質の国であり、それだけになおのこと脆弱ぶりを露呈してしまう国だということだった。

 その脆弱ぶりをもたらしてしまう要因は少なくとも5つあるのではないかと思えた。

1つには、いつもみんなで群がり、同じことを同じようにするだけで、いろんな意味で、多様な人が育っていないことだ。2つ目は、何か事が起こると、その問題の解決を自分たちで議論して図ろうとするのではなく、他者、とくに「役所」に依存してしまう体質が骨身に染み付いていることだ。3つ目は、それだけに一人ひとりは物事を自分の問題として深く考えようとしないし、それに、それぞれが、自分が置かれた状況を冷静に、客観的に知ろうとしないことだ。そして4つ目は、自分が日々暮らして生きている地域社会において、互いに深い信頼関係も連帯感もなく、むしろ互いに孤立している。したがって一旦事が起これば、みな右往左往するばかりとならざるを得ない。5つ目は、都市と田舎は完全に乖離している。都会はもっぱら消費地で、生産地とはかけ離れていることだ。

 そういろいろ思案しているうち、私の頭の中で次第に重みを増して来たのは農業への道だった。農業こそ、いろいろな意味で、自分が家族を引き連れて生きてゆくにはふさわしい道なのではないか、と思えたのだ。

確かにそのとき既に私は、“日本では農業では喰って行けない”ということが巷ではほとんど定説になっていることは知ってはいた。そして実際、地方ではとくに、農業後継者ですらどんどんサラリーマンになって行っているという話も聞いてはいた。

 でも、私はそんな話を耳にするたびに不可解に思ったものだった。農業は人が生きて行く上で不可欠な喰い物をつくり、それを提供してくれる、国の基幹産業のはずだ。そのことは、多分誰もが頭では知っている。なのに、なぜ、そんな大事な農業で人は食ってゆけないのか、と。要するに、そもそも「喰い物」をつくっているはずの農業で、この国では、なぜ「喰っては行かれない」のか、という根本的な疑問だ。

 そこで私はさらに思ったのである。

なぜそうなるのか、自分で農業に飛び込んでみて、そこで生きてみれば判るのではないか。また自分が実際に飛び込んで体験してみれば、喰っては行けないとされる今の農業に代わる新しい農業のあり方というものもひょっとすれば見えてくるかもしれない、と。

それに、我が身は安全地帯に置いていながらただ論評をしているだけの評論家に、日本の新しい農業のあり方が確信を持って見出せるはずもない、と。

 これが私が農業に進むことを最終的に決意した理由であった。それは文字どおり、“虎穴に入らずんば虎児を得ず”の心境だった。

 しかし、そこでもまた疑問と不安が浮かんで来た。

農業とは言っても、どこで、どんな農業をしたらいいのか? そしてその農業で、儲けることは考えなくとも、せめて家族を喰わせて行けるのか? 家族を、とくに幼い子どもたちを路頭に迷わせることになりはしないか?

 しかし、ともかく少なくとも自分が進んでゆこうとしている農業における農法については、農薬も化学肥料も一切用いないものであることには迷いはなかった。とくに農薬は、人間の土地の乱「開発」行為と並んで、否、それ以上に自然環境や生態系を最大に駄目にしてしまうものだという点については、すでに会社時代、私は最後の仕事で十分に知っていたからだ。そしてその農業は、畑一面に単一作物を栽培して、収穫するときには人手を使って一気に収穫しては大消費地にその収穫物をその日のうちに送って生活するという、機械化大農経営というものでもないことも心には決めていた。それは、人間は、自然の中で、自然の力を借りて多様な喰い物をつくり、それを摂取することで生きて行くことがもっとも理に叶っていることであるし———だからこそ人類はこれまでの何万年も生きて来れたのだ————、それに、人を含むいかなる生命体も、たった一種類の他生物を喰うだけでは自己の生命体を維持して行くのに必要十分な栄養素は確保できず、絶えず多様な他生物を喰わねば生きては行けないからである。

 こうして私は、この後は、農業の営み方の具体的な計画に入って行ったのである。

そして、こうした計画がほぼ出来上がったところで会社に「退職願」を出した。西暦1998年2月1日のことである。2ヶ月間の猶予を見て、3月末日で辞めようと考えていたからだ。52歳、定年まで8年を残していた。

 そして退職して一ヶ月後、引っ越しを決行し、私たち家族は当地の住人となったのである。

 

 私は農業を始めてからというもの、会社時代とは違う意味で、一心不乱に農作業に打ち込んだ。少しでも早く農業を確立させ、生活を成り立たせねばと思ったからである。

 しかし、農業を始めると、これまで見えていなかったこと、余り深く考えたこともなかったことが、それも農業分野以外のことが、気になり始めた。とくに政治(家)に対してである。

そして気付いた。この国の政治家という政治家は、その本来の役割・使命を果たしてはいない、その結果、この国の政治全体が機能していないなんていうレベルではなくもはや麻痺している、と。それだけではない。この国は、実態を知れば知るほど、どういう観点から見ても、またどの分野について見ても、既に実質的には崩壊している、と。

たとえば、憲法を含む法制度、経済制度、教育制度、福祉や年金を含む社会保障制度、政治制度、選挙制度、租税制度、公務員制度、科学技術および職人養成制度等々についてである。

またそうした中、政治家はもちろん、その政治家が依存して来た官僚・役人も、これからの時代、何をどうしたらいいのか、もはやさっぱり判らなくなって来ている、とも感じた。だから、これまでやって来たことと同じことを、やって来たとおりにただやっているだけなのだ、ということにも確信を持った。

 そしてこうも思った。本当はこんな時こそ、たくさんいるこの国の各分野の専門家と呼ばれている人たちが、それぞれの立場から、それまでに得た知見を生かして、現状を打開する意見を勇気を持って政治家に向って発言すべきなのではないか。そして、このまま行ったなら近い将来、コレコレしかじかの事態に直面するといった警鐘を鳴らし、だから現状を今のうちにこう変革すべきだ、と提言すべきではないか。そしてそれこそが日頃国民の税金で研究ができている専門家と呼ばれている人たちの、自身と自国民への義務なのではないか、と。

 しかし残念ながら、それぞれの分野の専門家は、大学など公的機関の人も含めて、多くの書物を著してはいるようだが、私の知る限りのそれらの著作物のほとんどどれもこの国の全体状況の中の一部について論じているだけで、目ざすべき方向を語るにしても、抽象的な説明に終始しているだけで、「では具体的には何をどうしたらいいか」、あるいは「こうすればいい」という、現状を変革する上で最も肝心な具体案を示しているものは、ほとんど見当たらなかった。

 しかし、その時も私は思った。もはやこの国は、政治的、経済的、あるいは社会的な諸制度の中のある特定の一部の制度を手直しすれば済むというような状態ではとっくになくなっているのであって、そのような一側面だけを、それも他分野との関連性も考慮せずに、自分の専門分野だからと言って提案したところでいったいどれだけの意味や実現性があるというのか、と。

むしろ、その提案内容が斬新であればあるほど、あるいは画期的であればある程、既存の諸制度との間にはギャップあるいは乖離が生じ、整合性が取れなくなる可能性が高くなることが予想されるわけで、その場合、そこをどうやって調整して行こうとするのか、と。

それと、既往の関連制度の中に旨味を感じていたり既得権を所持していたりする人々や集団にとっては、提案されているその新しい内容は歓迎できないとされる可能性は十分にある。そうなれば、その人たちは改革や変革への抵抗勢力となるであろう。そこをどう考えているのだろうか、と。

 そうでなくても、私が知った限りでも、この国は、戦後ずっと、国民から選ばれた代表である政治家が政治を行っているのではなく、現状維持に固執し、既得権益を守ることを最優先する官僚が事実上独裁して実質的に国を運営してきているのだからだ。つまり現状を変えられることは、現状の制度の中で既得権益を保持して来ている官僚と官僚組織にとっては至って不都合なのだ。

 こうして、私は、世の中に提言された現状変革の構想が受け入れられ、それが実現にまでこぎ着けられるためには、どうしても、一部分だけではなく、あるべき全体あるいは全貌を描いて提示しなくてはダメだ、それにそのようにして全貌を示せば、それを目にする人は、少なくとも次のようには感じ取ってくれるかもしれない、とも思ったのである。

 ある人は、これだったら賛成できる、あるいはできない、と。またある人は、描かれている全貌の中の一部あるいは大部分には同意できかねるが、残りの部分には自分なりの新たな利益と立脚点を見出し得るから賛成できる、と。またある人は、現状の日本を見ると難しい面が多々あるが、長い眼で見たなら、その全体は自分だけでなく自分の子々孫々のためにもなるかも知れないから賛成し得る、と。またある人は、この構想だったら、これが早期に実現されたなら、この国の来たるべき全体的危機は避けられるかもしれない、よしんばそれに近い事態に直面しても、この構想に基づき、本物の国家指導者の下で国民が結集して総力を挙げれば、事態を克服できるかもしれないから賛成しうる、と。またある人は、こんな社会が日本に実現し得たら、日本人全体がこれまでのような閉塞感から脱して、希望と展望を実感できるようになるかもしれないから大いに賛成だ、等々と。

つまり、専門家の書いたものは、その内容は、言ってみれば、森を見ないで、あるいは森との整合性を考えないで、特定の木ばかりを見るような内容になるのであろうと予想されるのに対して、私の書く内容は、各部分は稚拙で未完成ではあっても、全体は一貫した筋が通り、全体を矛盾なく見通してもらえるだろう、と。

 私が本書を書こう、書かねばと決意したのは、こうしたこと諸々を思案した結果だった。

 ただその場合にも大きな問題はあった。

それは、全体像を示すことで、目指すこの国の姿と形、そしてそこに至る道については、これをきちんと読んでもらえる限り、大方の人には判ってもらえるだろうが、では、この国が時々刻々、これまでの制度や体制によって現実に維持されている中で、その制度や体制を根本的に転換させることになる私が描いてみせるこの構想をどうやって実現させてゆくのか、という問題である。

 ここから先は、私には、純粋に方法論の問題となった。

それは、この国は、もはや財源はまったく余裕がないこと、動ける人もきわめて限定されていること、しかも達成しなければならない残された時間は、多分世界中のどこの国よりも短いと想われるということを考慮しなくてはならないからである。

そのため、最大の効率をもって最大の効果を上げ得ると考えられる方法を考え出さねばならない。

 だからと言って「革命」とか「クーデター」というのはこの国には相応しくないし、第一、それでは国民の真の支持を得られないだろう−−−150年前、薩摩長州藩の下級武士が中心となって起こした明治維新は、国づくりの明確な計画もビジョンもないままの、天皇を人質にした上での軍事クーデターだった(原田伊織「明治維新という過ち」毎日ワンズ)———。

とは言え、「世直し」というのは、歴史上、どこの国でも、どうしても一時の大混乱、場合によっては動乱ということも避けられないものだ。

それだけに、その混乱を最短で最小限のもので済ませるためには綿密な計画と戦略が必要となる。

と同時に、まずは国の主権者である国民の大多数に理解してもらえ、協力してもらえるよう、国の指導者となった者から、事前に十分な説明を尽くすことが何と言っても大事なことだ。

その際特に重要となるのは、何のために現状のこの国を大変革するのか、そしてそれは誰のためにするのか、さらには、どのような段階あるいは過程を経て、遅くともいつまでにこの大変革をやり遂げようとしているのか、ということを簡潔明瞭に説明することだ。

言い換えれば、脆弱なこの国を変革し、真の国家、それも持続可能で真の意味で民主主義が実現した耐性のある国家を創建するのだということである。

 なお、ここで、本書の本文の中で、これから頻繁に用いられることになるであろう「持続可能」なる疑念の元になった「持続可能な開発」という言葉の意味を正確に表現しておこうと思う。これは、国連総会の決議の下に設けられた「環境と開発に関する世界委員会」が1987年に国連総会に提出した報告書「Our Common Future(私たちの共有の未来)」のキーワードとなっている重要な概念である。

 持続可能な開発(Sustainable Development):

未来の世代が自らの必要を充足しようとする能力を損なうことなく、しかも現在の世代の必要をも満足させることができるような開発。

 これをもっとわかりやすく表現すると、「われわれの世代だけでは終わりにならない、そして子孫の世代までいつまでも続くことができる開発」、もっと簡潔に言い直せば、「地球の有限性を自覚した開発」となる(林智、西村忠行、本谷勲、西川栄一著「サステイナブル・ディベロップメント」法律文化社 p.23)。

 ともあれ、そんなこんなの経緯をたどりながら書き綴って来たのが本書である。

 なお私は、この本の原稿を書き進める過程で、いつも自分に言い聞かせたことがある。

それは、既存のいわゆる「常識」や「通説」と言われるものには極力惑わされずに、むしろ可能な限り疑ってかかること、というものだった。

それは、それを示して見せてくれたのがデカルトだった。彼はそうすることで、「近代」という時代の幕を明ける上で最大の貢献をしたのである。それがあの「我思う、故に我あり」による、「個」の発見である。

私も、つねに、本当にそれで正しいのか、本当にそれは必要なのか、必要だとしても誰にとって必要なのか、本当にそれがあるべき本来の姿なのか、もっと別の相応しいあり方があるのではないか、等々という姿勢を貫いて来たつもりである。

 そしてこうなるともう、本書を書き進めるに当たって、私には、無関心でいられるモノやコト、ただ漫然と見過ごしていられるモノやコトはなくなったのである。

 本書の内容の全体を、副題にあるように、2つの原理に貫かれた一貫したものにするにも膨大な時間がかかった。

それは「目次」の構成に現れた。

当然ながらそれは一度では定まらないため、幾度も構成し直した。

アッチコッチと部分を執筆しながら書き進めるのであるが、その場合、目の前に私には本の内容と関連する重要な出来事だと思われる出来事が生じると、それをきっかけにして、“この項目も加えねば”、“あの項目も加えねば”と、付け加えるべき新たな項目が頭に浮かんできた。

ところがそれらのほとんどは、それまで自分としてはまったくと言っていいほどに関心を持たずに来たこと、考えてみたこともなかった分野だった。

そんなときには、将来いずれ必要になるだろうと思って買い求めておいた書籍を自分の本棚から引っ張り出して開いてみたり、外国のニュースに登場する人たちのものの考え方や言動を注視したりして自分の考え方を広げようとしてみたのであるが、それでもいつまで経っても自分が納得行くようには内容をまとめらない状態が続いた。そんなとき、“やはりこんな作業、自分には無理なのか”と何度落ち込んだことか知れない。

 やっと書いても、それを全体構成の中に組み込むと、今度は部分的にこれまで書いてきた内容や流れと整合性が取れないところが出てくるのである。そうなるとそれまでせっかく組み立ててきた全体の流れが乱れてしまうので、その場合には改めて全体の流れを再構成しなくてはならなくなったのである。

 こういうことを繰り返しては、全体の流れ、すなわち「目次」を組み立てて行ったのだった。

しかし、幸いにしてその作業は、それまで私の頭の中でゴチャゴチャになっていたこの国にとっての諸問題・諸課題を重要度・緊急度の観点から整理する上で、きわめて役立った。

 結局、こうして目次の全体構成が定まるまでには、少なくとも2年は要したように思う。

 しかしそれが定まると、後は、ひたすら執筆に取りかかるだけだった。

 とはいえ私の場合、専業で農業をしていたから、そして幼い子ども二人を抱えていたから、執筆に避ける時間は、1日の内でも、朝起きた直後のせいぜい2時間程度であった。大部分は家事、育児、そして農業に費やさなくてはならなかったからだ。その日の農作業が終わって、夕食の準備をし、子供たちと夕食を済ませると、もう体も頭も疲れて、執筆どころではなかった。

それだけに、自分で決心したことであるとはいえ、先のことを考えると、果たしてこんな大それたことをやりきれるのか、と、気の遠くなるような思いに襲われることも幾度もあった。

 その上、私は物書きではないし文章力がない。果たしてこんな拙文、人は読んでくれるのだろうか。そんな思いにも幾度駆られたか知れない。そのため、少しでも読んでもらえる文章にしなくてはと、時間をおいては幾度か見直してみたり、またより適切と思われる言葉や表現を捜したりもした。また、寝ていても、ふと新しい発想が浮かんだり、こっちの方がより適切だと思われる表現を思いついたりすると、慌てて寝床から起きて電気をつけ、紙と鉛筆を枕元に持ってきて、忘れないうちにそれをメモしては、朝になってから、これまで書いてきた原稿に反映させる、ということも幾度あったことか。しかし、それとて私には自ずと限界があった。

 そんなことをし、そんなことを思う間にも、私には、この国は崩壊の速度を早めているだけではなく、どんどん世界に後れをもとっている、と感じられるようにもなって行った。それだけに、“一刻も早くこの本を完成させて世に出さなくては”、という焦りも一方ではますます募って行った。

 本当はこんなこと、私のような者がすることではない。この国の政治家という政治家が、とくに国の指導者であり最高責任者でもあるはずの内閣総理大臣が、いわゆる知識人あるいは専門家と呼ばれていて、人格的にも優れた人たちを結集させ、その人たちの手で、言って見れば「救国の書」とでも言うべき提言書をまとめて欲しかった。なぜなら総理大臣こそ、国の舵取りのはずだし、公的研究機関の専門家こそ、国民の税金を受けて、それを為すべき社会的使命と役割を担っている人々のはずなのだからだ。

 だが、この国では、石橋湛山を除く歴代の総理大臣はもちろん、メディアに登場してくるような著名人を見る限り、真の知識人としての役割を果たしている人、この国の危機的状況を真に認識し得ていると思える人は————それに近い人はいたが————、私にはついに一人として見出せなかった。

それだけに私は、“こんなことをしているのは、日本中で自分一人だけなのではないのか”、と思うようにもなって行った。

 考えてみれば、専門家(スペシャリスト)の宿命なのであろう、そう呼ばれている人ほど、その分野の知識や情報は誰よりも詳しくまた豊かであろうが、その専門分野に隣接する分野あるいはそれから遠く離れた分野にはあまり関心がなさそうな人が大部分なのである。

ましてや全体を見渡して、その中に自分の専門分野を位置づけようとしている人などは皆無に見える。

 しかし特に今日の日本にとって本当に必要なのは、全体を俯瞰できる目を持ったゼネラリスト、あるべき国の全体の姿を描き出すことのできる人なのではないだろうか。それも、自然と調和した持続可能な国の全体の姿と形を、抽象的にではなく、具体的に示すことのできる人なのではないだろうか。

そう考えれば、「群盲、象をなでる」の諺が示すとおり、専門家による専門分野の知識の単なる和では、それを示すことは多分無理なのだ。少なくとも一つの考え方で貫かれた全体を示すことは。何故ならば、一国の諸制度や諸要素というのは、互いにバラバラなものではなく、むしろ互いに内的な関連をもって全体を構成しているものでなくてはならないからだ。

 そう考えると、かえって、「農」をすべての土台にして今後の国の全体としてのあるべき姿を捉え直してみようとして農夫になった私のような者こそがこうした本を書くべきではないか、否、私のような立場の者にしか、こうした書は書けないのではないか。

そう思うようにさえなった。そして書いているうちに、誰も私のやっているようなことをやっている人はいつまでも現れて来る風も見られないところから、さらに私は、ひょっとすると自分は、これを書くために生まれて来たのかもしれない、とも思うようになって行った。

 幼い時から、学校から帰ると、毎日のように友と暗くなるまで外で遊び、いたずらもし、またしょっちゅう川(千曲川)や山や池でも遊んで過ごして来た。中学や高校での記憶中心の勉強は楽しいと思ったことは一度もなかったが、大学に進学しては物理学を学び、先輩の影響もあって、そこで本当の意味で物理学を学ぶことの楽しさや面白さを知った。大学院では航空工学を専攻した。しかしイザっ就職しようと思ったら、日本では国際線を飛ぶ大型旅客機を作っている会社はないと知って愕然とした。だからと言って、私は人殺し兵器である軍用練習機の設計に関わるつもりはなかった。結局、考え抜いた末、総合建設業へと進んだ。“破壊のあるところ、つねに建設あり”と信じたからだ。

 そこで、私は大学院在学中、上京の折に、某会社を飛び込み訪問したのである。その時、対応して下さった人事課長Kさんが、“自分は技術的なことはわからないから”と言ってある建築設計部長Fさんを呼んでくれた。実はその方こそ、その後、私が「生涯の師」と仰ぐ人となったのである。

私はその方が社内での仕事上のことを熱く語ってくれている姿を見ているうちに、自分がその方にどんどん惹きつけられてゆくのを感じた。そして思った。“こんな方のいる会社なら、思いっきり、仕事ができるのではないか”と。後で知ったことだが、その方は社内でも「万年青年」の異名をとっておられたのだ。

 結局、その方の人間的魅力に魅せられて、私は、その場で、決意し、なんとかして採用してくれるようその方に強く懇願した。ガッカリするから考え直すようにと一旦は諭されたが、食いつく私を見てか、終いには、そこまでの思いならばと、F部長さんが社内で責任を持って私を紹介して下さるとのことになった。

 私は入社してすぐに研究所に配属され、力学関係の研究を中心とする仕事をすることとなった。上司や人間関係にも恵まれて、仕事も会社も本当に楽しかった。仕事は本当にやりがいがあった。

 なお、サラリーマンとしての最後に携わった仕事は、環境技術の開発だった。

 私は、一度離婚をして再婚した。しかし退職後、当地に来て再び離婚。“農業では喰って行けない”というのが伴侶の言う理由だった。その後は一人で幼児二人の育児をし、家事をしながら農業をした。その農業は、春先、2月に農作業が始まれば、年末のクリスマスまでは、事実上、年中無休だった。

 確かにそれは大変だったが、でもそれを続ける中で、私は実に重要なことを学んだ。

人間が日々を生きるためには少なくともどれだけのことをし続けなくてはならないか、その全体を知り得たことだ。子どもをある年齢にまで育てるということがどういうことであり、どうすることか、何があるか、についてもその全体を知り得たことだ。

 そうしたことの体験のすべてが、そしてその過程で考えてきたことのすべてが、今のこの執筆に直接間接に役立っているからだ。

 実際、その他のことでも、本書に表現されている私の考えは、そのほとんどが、畑や田んぼといった農作業の現場にて、気象や気候の変化を肌で感じ取る中で、成長過程における種々の野菜の姿の変化を観察し、また野菜の種類によって違った棲息の仕方をする虫たちの姿を観察し、気づいたものであるし、思いついたものである。家に帰っては育児・家事をする中で気づいたことだった。

 それらをその都度、忘れないようにと、その場でメモし、帰宅してはパソコンの中にメモした内容をバラバラに書き貯めていって、後々、それらを論理的に組み立て直したのである。

 それだけに本書は内容と論理の厳密さが要求される学術書ではない。あくまでも現状のこの国を変革するための概略的な考え方と具体的な方法を示した提言書である。それに、本書は、現状の行き詰まった国のありようを根本から変革するためには、せめてこの程度のことは事前に考えておかなくてはならないし、この程度の視野で先を見て考えておかねばならないと思って認めたものである。

 だから本書は、たとえば、人間にとって労働することの根本的意義を問わないままの、すなわち「人間」そのものを相変わらず考えないで、単に産業界発展のための安い労働力商品を大量に確保するためだけの安倍晋三の「働き方改革」に見るように、あるいは打ち出す政策すべてが場当たり的でしかもバラバラで、長期的視野に基づくものなどまったくなかったと言っていいこれまでの政策に見るように、これまでの日本政府の事業の提示の仕方や進め方とは、あらゆる意味で対極を成す内容の書である。

 それに、この国は、少なくとも明治以降、国づくりをするにも、戦争をするにしても、目ざすべき目的と目ざすべき姿を明確に描き、それを実現するための戦略を明確にした上で実行に移すということをしたことは一度もなく、また何か事を起こすにも、現場の実情をよく把握した上で論理的に詰めてするということも一度もなく、どちらかといえば常に情緒的気分的で出たとこ勝負といったあり方だったが、本書は、そうした観点からも対極を成すものである。

 したがって読者の皆さんには、本書を読み進められる際には、できるかぎり、絶えず、次の諸点に着目して読み進めていただけるとありがたいのである。

 ①論理的整合性が取れているか。②情緒に流れず、客観的であるか。③誰のため、何のため、といった目的が明確であるか。④細部よりも、まずは大局的な見方や方向性は妥当か。⑤自分だったら、これに代わるどんな新国家を具体的に構想するか。⑥そしてその時の実現手順はどのようにするか。

 

 とにかく本書が、とくに明治政権以来植え付けられて来た私たち日本人のものの考え方と生き方を根本から見直してみるきっかけとなってくれると共に、この日本という国が、惨めな末路を回避しうるようになるというだけではなく、真に持続可能な国へと生まれ変われるための国民的本音の議論が巻き起こるきっかけとなってくれたら嬉しい。

またその際、本書が「カーナビ」ならぬ一つの羅針盤として、議論の方向を指し示し得る一冊の「たたき台」となってくれたなら、私としてはこれ以上の歓びはない。

 そしてその国民的議論の結果として、この国の老若男女一人ひとりが、それぞれの立場で、もはや「自分のできるところから」とか「みんながやっているから」という姿勢ではなく、祖国のために、また愛する子孫のために、「自分として為すべきこと」を自分の頭で考えて見出し、日本国民全体で真摯な議論を起こし、連帯して総力を結集し、この日本が、世界に先駆けて新時代の先頭を行くという意味での真の「先進国」となり、世界に範を示しうる国になって行ったなら、私として万々歳なのである。

そうなったなら、この国は、どんなに希望と活力に溢れた国へと変貌し得ていることだろう。

 

 今、私が何とか本書をここまでの形にし得たのは、何と言っても次の5人の方々に支えられて来たお陰と思っている。その人たちは、そのそれぞれの辿った生き方により、私をいつも無言のうちに、私の信じる道を行けばいいと、励まし導いてくれた。

 その一人が、真下真一先生である。

この方は、私には、先生としか言いようがない方だ。

先生は私が学生時代から私淑して来た、もっとも尊敬する哲学者である。

一度でいいから、先生の講義をお聴きしたかった。

私にとっては、先生は、今もなお、道に迷ったときには決まって、人間としての生き方、立ち返るべきところを教えて下さっている、文字どおり「生き方の師」なのである。

 もう一人は、E・F・シューマッハー氏である。

 私は同氏も直接は存じ上げない。あくまでもその著書を通じてその存在を知っただけである。しかもその著書はたった一冊である。

 でもその書は、私に、思想の面で、そしてとくにこれからの経済のあり方をまとめる上でこれ以上にないヒントを与えてくれた。

 もし同氏の著書に巡り会うことがなかったなら、本書は生まれることはなかったかもしれない。

 もう一人は、K.V.ウオルフレン氏だ。

 この方にも、その著書を通じて私が知ることがなかったなら、本書は確実に生まれてはいなかった。

 同氏は、日本にもすでに何十年と住まわれ、日本のことを、それも日本の現状と将来について、心から案じてくれている著名な国際的ジャーナリストである。

私が同氏の言わんとしていることのどれほどを正確に理解できていたか疑問ではあるが、それでも、書くべき方向を見失うことなく書いてくることができたのは、ひとえに同氏のお陰である。同氏が半世紀以上にわたってオランダと日本に掛け持ちで住みながら、日本を愛し、その二十数冊にわたる日本に関する著書を通じて日本の現状と将来を心配してきてくれたその事実一つを取ってみただけでも、私は、日本人の一人として、同氏の存在と貢献に心から感謝するのである。

 そしてそれと同時に、同氏は、私に、一個の人間として、誰にとっても母国を愛するということはどうすることなのかということをも、身をもって教えてもくれた。

 そしてもう一人は世界中で知らない人はいないL・V・ベートーヴェンである。

 自らの音楽的才能を認めながらも、聴覚を失って行く自分に絶望して、一旦は自分の命を自分で断つ覚悟まで決めた彼ではあるが、彼の音楽的そして人類愛的使命感がその決行を許さなかった。

 そして絶望から蘇った後の彼の生き様こそが私を支え、導いてくれたのである。

 具体的には、着想を得てから40年近くをかけて完成させた彼の人生の集大成とも言える交響曲第9番はもちろん、交響曲第3番、5番、6番、7番。ピアノソナタ第14番、17番、23番、31番、32番。ピアノ協奏曲第4番、5番。そして第9交響曲の直前に作曲された彼の最大の自信作でもある作品123の荘厳ミサ曲。そして最晩年の弦楽四重奏曲第14番と15番。

 作品のどれをとっても、聞き込めば聞き込むほどにそこに現れるベートーヴェンの、自らの運命を鷲掴みせんとするような強固な意志と生き方に圧倒されてしまうのであるが、しかし、私にとって彼から何よりも学ばせてもらったのは、人類愛に基づく音楽的使命感を持って、作曲を重ねる度に、人間精神が昇華して行く階段を上って行くその姿であった。最期は、世界中の苦しみ病める人々に向って、自らの生き方を振り返るようにして、「苦しみを貫いて歓喜に至れ」と呼びかけるその精神の気高さは、もう私には言葉もなく感動的だった。

 一人、身をもって示して生き抜いて見せてくれたその生き方は、ともすれば次々と目の前に展開する現実に挫けそうになる私をどんなにか励まし、勇気づけ、支えてくれたか知れないのである。“自らの信じる道を行け”、“自らの運命に挑め”、と。

 そして5人目は高木史人氏である。

彼は私のサラリーマン時代からの親友である。私が入社し、配属された研究所には既にその部署にいた人物だ。互いの会社時代も、そして私が既述したように先に中途退職した後も、その後、彼が定年退職した後にも互いにずっと家族ぐるみで交友を続けさせてもらって来た親友である。それは、「カイシャ」という営利集団の中にあって、きわめて得難い出会いだった。

 その彼は4年前に物故したが、農業生活に入った私と私の家族を経済的にも精神的にも支え続けてくれた。

 本書をここまで書き続けて来ることができたのも、その彼の存在と励ましを抜きにしては考えられないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

7.6「人類存続可能条件」が私たちに要求する生き方とは何か。そしてそれを私たちはどうしたら受け入れられるか

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 スエーデンの若干16歳の環境活動家グレタ・トウーンベリさんに触発されて、2019年、数百万人の若者が世界の路上や広場を埋め尽くしました。止まらない地球の温暖化に因る気候変動に危機感を抱いたがためです。それも、あらゆる手段を尽くして、既存のあらゆる社会システムを変えさせようと、政府や企業に訴えるためです。

その運動の中心にいたのはフランスはパリの若き環境活動家たちでした。彼らがそうした抗議行動に出る根拠とした主張はこうです。

“これは私たち人類が、地球で尊厳を持って生きるための闘いです。”(ポリーヌ・ボワイエ)

BS1スペシャル「クライメート・ジャスティス パリ“気候旋風”の舞台裏」2021.1.3NHK

BS1

 彼らはその環境活動の拠点を「ラ・バーズ」と命名しています。

 思えば、あの「ベトナム戦争」を契機にして起り、それが瞬く間に全世界(ロンドン、サンフランシスコ、ローマ、サンパウロ、ベルリン、ハノイ、ワシントン、東京)に広がった、1968年の学生を中心とした運動も、やはりフランスから起りました。

 パリ郊外のナンテール大学の学生たちからでした。それは、既存の社会システムに対して抗議し、それの全面的変革を迫る運動でした。その運動はその後、フランス全土に拡大してゼネスト状態をも現出し、「5月革命」とも呼ばれるようになったのです。

 しかし、それよりもはるか230余年を遡れば、長く続いた近世絶対王政の社会を打ち破ろうとして、「自由・平等・友愛」をスローガンに掲げて立ち上がり、世界に先駆けて「市民大革命」を起こし、近代という民主主義の時代の幕を開けたのもフランスでした。フランスの都市市民でした。

 では果たして、「近代」を超えて、ポスト近代、すなわち私の言う「環境時代」を到来させる上でも、世界をリードし、世界に先駆けて環境時代先進第1号国の名乗りを上げることになるのもフランスなのでしょうか。若者を中心とする市民に導かれたフランスなのでしょうか。

そしてその時、そのフランスとは対照的に、「先進国」と呼ばれながらも、世界で最も恥ずかしい振る舞いをするのは、やはりこの日本なのでしょうか。

 それは、国民一人ひとりが相変わらず自分の頭では考えず、またかつての「江戸時代」には、世界に誇ることのできる世界の最先端を行く「自然と社会の持続を可能とさせる文化」があったことを顧みることもせずに、またこの国には他国にはない地形的な特質があるのにそれを生かそうともせずに、さらには、環境時代に移行すべき意味も目的も深く考えずに、ただ世界の趨勢に乗り遅れまいとして、よその国がやることと同じことを真似しては、「金魚の糞」のごとくにくっついて行こうとする様を意味します。

 もういい加減にそんな情けない状態は返上しようではありませんか。

自分自身と祖国の将来に対して、責任と覚悟を持って立ち上がろうではありませんか。

 

7.6「人類存続可能条件」が私たちに要求する生き方とは何か。そしてそれを私たちはどうしたら受け入れられるか

 

 表題のこの問いに答える前に、私たちが先ずはっきりさせておかねばならないことがある。それは、3.2節にて明らかにして来た、人類存続可能条件としてのエントロピーの総量とは、私たち現在の地球上の人口およそ77億人にとって、平均すると一人当たりどれほどのエントロピーを生じさせることまでを許されることを意味するのだろう、ということである。さらに言えば、その量とは、たとえば石油を燃やす場合を想定したとき、一人当たりどれだけの石油を燃やし、消費することを意味するのか、ということである。

 ただし、3.2節では、私はその概略の数値を計算してはみたが、その計算法方法が本当に正しいのかどうか、計算に入る際の仮定が本当に妥当なのかという点も含めて、世界の関係科学者の協力の下、全世界に共通に通用する、より詳細で信頼できる数値を算出することがどうしても必要であると考えるのである。

 そうすれば、少なくとも、あらゆる個人にとっても、また団体にとっても、そこで定まるある制限値を守ればいいことになるので、2015年の「パリ協定」の三つのポイント(①産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑える努力をする。②21世紀後半には、温室効果ガスの排出量を実質ゼロに。③5年ごとに削減目標の見直しを義務づける。)を守るよりもはるかに判りやすくなるのではないか、と私は考えるのである。

 その際重要なことは、そこで得られた結果は、私たち地球人のすべてに平等に適用される、ということである。先進国の人間だからとか、新興国の人間だからとか、途上国の人間だからという区別や差別はされないものだ、ということである。

 そこで問題となるのは、そうしたことを、特に先進国の人々はそのまま受け入れられるか、ということだ。

 それだけではない。そこで得られた結果は、もはや経済社会が資本主義経済社会であることを、さらにはグローバル経済システムの社会であることを否定し、言葉だけではない、本当の意味での物質循環型経済社会を要求するものであるはずであるが、それをも、特に先進国、ついで新興国の人々は受け入れられるか、ということである。

 このことが意味することは、要するに、もはや地球人類である私たちにとって最も重きを置かれなくてはならないことは、万人が等しく生きて行けること、それも、子々孫々にわたって生きて行けるということなのである。それもできれば、誰もが「幸せ」と感じられて生きて行けることである。決して一部の人、例えば金持ちだけが生きて行ければ良いとか、先進国だけが、新興国だけが生き永らえられればよいということではない。

 だからと言って、私は「共産主義」の社会が望ましいと言っているのでもない。

 そして万人が等しく、永続的に生きて行けるようになり、それも、子々孫々にわたって生きて行けるようになるためには、好むと好まざるとにかかわらず、多様な他生物との共存を実現しなくてはならない。多様な他生物が永続できるためには、それが可能となる自然を人間が回復し、人間が維持しなくてはならない。それは、大気と水と栄養が大地をあまねく循環する自然のことだ。

 こうした関係が維持されていなくては人類の存続は間違いなく不可能となる。

実はそうした関係を図式的に示したものが、4.3節で述べて来た「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」の図である。その図において、生命一般にとっての普遍的原理が一番土台の位置を占めているのはそのためである。その原理がまず実現され、しかも常に実現されていることが、万人が等しく永続的に生きて行けるようになるための前提条件となるからだ。

 この図が意味している真理には、多分議論の余地はないであろう。なぜならヒトは、自分(の力)だけで、それも一人で生きているのではなく、常に、必ず、他生物の命をいただくことで生きることが出来ているのであるのだからだ。そういう意味で、私たち人は、「万物の霊長」などと言われてはきたが、実際は、とんでもない。紛れもなく、他生命に生かされて来ているのだ。そのことは、普段、私たちが食べているものは、植物動物あるいは魚介類を含めて、すべて、他生命であることを思い出していただければわかる。そしてそれらを生かしているのも、無数の種類と数の昆虫であり微小生物でありバクテリアまたはプランクトンである。

それらは土壌という生態系あるいは海または水系という生態系に生きている。

 こうしたことを知ってしまえば、当然ながら、そんな人間に、他生物に対して、生殺与奪の権利などあるはずはない。存続しうる他生物の種類を選定できる権利などもあるはずはない。そういう意味では、雑草、雑魚、害虫、害鳥、害獣とみる見方も同類だ。

そもそもそうした他生物に対する見方が、あるいは、自然は人間が豊かになるための手段であるという見方が、今日の生物多様性の消滅の危機を招いてしまったのだからだ。

 こうしたことを考えると、本節表題のテーマである、「『人類存続可能条件』が私たちに要求する生き方とは何か。そしてそれを私たちはどうしたら受け入れられるか」との問いは、私たち日本国民にだけ突きつけられるべきものではなく、むしろ、全人類に共通に突きつけられたものと捉えるべき問いなのである。なぜなら、《エントロピー発生の原理》も《生命の原理》も一国だけで実現できる原理ではないし、『人類存続可能条件』も一国だけで実現できる条件ではなく、いずれも全世界、全人類が協調し、協力し合わねばならないものだからである。

 

 では、全人類に共通に突きつけられたものと捉えるべきその問いに対して、私たちは、まず日本国民として、どう答えるべきなのだろう。

その場合、重要なことは、私たちは誰かの出した答えを真似するのではなく、それぞれが、自分で、自分の責任において出すべきだと考えます。それも、地球市民の一人として。

 では各人が自分に向けられたと考えるべき問いとはどのようなものなのだろうか。

 それは、例えば次のようなものではあるまいか。

 一つは、“ 今、目の前の経済あるいは経済システムを直視しながら、あるいは今、当たり前とされている世界の主流ないしは支配的とされる価値観を直視しながら、このままのシステムそしてこのままの価値観を持ち続けて、このままの暮らし方を続けて行ったなら、自分たちの子どもたちや孫たちの10年後、30年後、80年後の暮らしは、またその彼等の子どもたちの暮らしは、どうなって行くのだろうか。彼らを等しく窮地に追い落とすことになりはしないか。”

 一つは、“そもそも「消費」することが経済活動の唯一の、あるいは主たる目的なのだろうか。消費は目的などではなく、人間が幸福を得る一手段に過ぎないのではないかシューマッハー「スモールイズビューティフル」講談社学術文庫 p.74)。”

 一つは、“多くを消費する人は少なく消費する人より「豊か」なのだろうか。

 そもそも「豊かである」とはどういうことか。私たちが求めて来たのはどういう種類の、どんな中身の豊かさだったのか。それは量の豊かさだったのか、質の豊かさだったのか。”

 一つは、“人間は、生きる上で、「お金」は、いつでも、どこでも、必要なものと思わされ、信じさせられて来たが、とくに前記の二つの問いを考慮するとき、それは真実か。

お金を得る目的のほとんどは、「消費」することを煽られてのものだったのではないか。

 そもそも人が人間として「幸せ」と感じられるようになるために、お金があることは不可欠なのか。何を消費するために「お金」が要るのか、そしてその消費は、本当に自分を幸せにしてくれるのか、それこそが考え直されねばならないのではないか。

なぜなら、その過剰な消費こそが、今日、地球人類が直面している、その存続を危うくしているあらゆる大問題————例えば気候変動問題、生物多様性消滅問題、化石資源のみならず海洋資源・森林資源等すべての資源の枯渇問題、核兵器の拡散と核戦争の脅威の問題————の根源的原因となっているからだ。”

 一つは、“そもそも人間にとっての「幸せ」、それも一時的な幸せだではなく、永続しうる幸せ、しみじみと感じられる幸せとはどういうものなのか。

 今の経済社会、すなわち資本主義経済社会、正確に言えば、一人ひとりの人間を競争に駆り立て、人間を一個の歯車、それもいつでも取っ替えられる安価な歯車としてしか扱われない経済社会、貧富の格差を激化させ、人間同士を分断し、人間同士を切り離してゆく経済社会においては、そんな本当の「幸せ」や「豊かさ」は果たして手に入れられるのか。”

 一つは、“それに、そもそも私たちは、人間として、何のために生きているのか。その目的や意義とは何なのか。また「進歩」とはどういうことなのか。何がどうなることか。

果たして、その資本主義競争経済は私たち一人ひとりにそうしたことを教えてくれたことがあったか。否、資本主義競争経済はそのようなこと、人間に教えられる経済なのか。” 

 一つは、“私たちの子どもたちや孫たちに、私たち以前の大人世代が破壊してきた自然を、温暖化する一方の地球を、多様な他生物がどんどん消滅して行くばかりの地球を残したまま、逝っていいのか。その上、「便利がいい」、「快適がいい」と言っては化石資源を浪費しながら無用な道路や公共事業をはびこらせては、自分では返済する気もない超莫大な借金を国に残したまま逝っていいのか。”

そしてもう一つは、次のような前提に立っての問いである。

 今、人類の存続を脅かしている既述の種類の問題は、どれも、一国だけで対処できる問題ではなく、どうしても全世界が協力し合わねば、実効ある対処も克服もできない、しかし喫緊の問題である。

 ところが今や、「世界のリーダー」としてのかつてのアメリカはない。共産党一党独裁権威主義的政権が続く限り、中国も、どんなに経済力を増大させても、世界のリーダーにはなり得ない。ロシアも同様だ。なぜなら、人間は、誰も、本能的に、自由と尊厳が守られることを欲するからだ。

 また、今、世界では、国のあり方や社会のあり方において人類存続が可能となる模範を示し得ている国はない。

 日本は、「先進国」とは言われるようになっても、国際社会の中で、それにふさわしい責任ある行動をとってきたことは一度もなかった。いつでもアメリカに追従し、アメリカの傘の中で行動して来るだけだった。つまり、こと国際政治の中では、日本はいてもいなくてもどうでも良い国だった。

 そこで、問いである。

 “世界と人類のこうした現状を直視し、それを認識して、日本が本当の意味で、世界平和に貢献でき、人類的課題の解決に貢献できるようになることを望むならば、その時、日本国の主権者である私たち日本国民は、まず私たち自身、これまでのものの考え方や生き方の何をどう変えて行ったらいいのか。またその時、どのような価値観を重視し、どのような社会のあり方をビジョンとして描き、世界のあり方をビジョンとして描き、その実現に向けて、どのような責任ある行動をとってゆけば良いのか。” 

 ・・・・・・・・・・。

7.5 生物としての「ヒト」と社会的存在としての「人間」

 

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今、世界では、特に先進国になればなるほど、人々は、「人間の疎外化」という状況が深まる中に置かれています
7.4節。疎外化、それは、人間が、それぞれ、統一的、全体的視野が失われて一面化あるいは断片化し、互いの関係がバラバラになる孤立化を招き、そして内面的空洞化あるいは人間として浅薄化してゆく、この三つの現象をひとまとめにした言い方です。

そしてその結果として、社会は壊れつつあること、同時に自然も人間の手によって壊れつつあること、さらにその中で、気候変動は半ば必然的に進み、生物多様性の消滅も進んでいること等々についても、すでに述べてきたとおりです。

そんな状況であるからこそ、私たちは、改めて、「人間とは何か」、それは「生物としてのヒト」とは何が違うのかということを真剣に考えてみる必要があるのではないか、と私は思うのです。

なぜならば、資本主義経済に支配されたがゆえにそんな状況をもたらして来てしまった近代という時代は実質的にはとうに終わっていて、すでに「環境時代」に突入してしまっていると私は観るのですが、そしてそうした見方をもし読者の皆さんも少しでも受け入れていただけるのであれば、なおのこと、一人ひとりがそうした問いを発し、一人ひとりがその答えを見出しておくことがとても大切なことになるのではないかと考えるのです。

これからの環境時代においては、近代のそうした失敗を二度と繰り返さないようにして、今度こそ私たちは皆、本物の幸せを実感できるような時代にしなくてはいけないと思うからです。

 

7.5 生物としての「ヒト」と社会的存在としての「人間」

 古くから問われて来たことではあるが、改めて人間とは何であろう。とくに社会的存在とされる人間とは? 一方、生物としてのヒトとは何であろう。両者の間では何が違うのか。

そもそも、ヒトはどうやって人間になれたのであろう。あるいは、どうなればヒトは人間になったと言われるようになるのだろう。

いずれにしてもこれらは難しい問いだ。とくに「人間とは何か」については、古代ギリシャの時代から今日まで、哲学者だけではなく、どれほど多くの人が問い続けて来た問いであることか。それでいていまだに最終的に統一された見方には至っていない。というよりもむしろ、この「人間とは何か」という問いについての答えはますます判らなくなっているというだけではなく、むしろその答えを真剣に求めようとさえしなくなって来ているのではないか、とさえ私には思われる。一方では科学はますます進んでいると言われながら、である。

それほどに、これは難問なのだ。何せ、人間とは何かを問う以前に、「自分とは一体何者なのか」さえ、自信を持って答えられる者はほとんどいないのだ。

それだけにここでは、私は、その問いの答えについて一般的に考えるのではなく、これからの「環境時代」における社会や国家のあり方を考える上でのヒントになるのではないかと思われる範囲に限定して、その範囲内で、生物としての「ヒト」と社会的存在としての「人間」とは何か、について考えることにしようと思う。

それは、これを考えておくことは、これからますます「人間」にとってその是非や扱い方について判断することが難しくなると推測されるバイオ・テクノロジー(生物工学)AI(人工頭脳)のあり方を考える上でもとくに意義があるのではないか、と私は考えるからである。

ところで、生物としてのヒトとは何かについては、ヒトも生物そのものであるという意味で生命一般の中に括れるのではないかと思うので、それは4.1節で明らかにして来た「生命」の定義の範囲に納めて理解しておこうと思う。

その定義を改めて確認すると次のようになると私には思われる。

「生命」:外界から取り込んだ水と栄養(物質あるいはエネルギー)をその個体の内部の全域に分配し、その結果生じた廃物と廃熱と余分のエントロピーを外部に捨てるという循環過程を持続させることによってその個体としての全体を維持してゆく熱化学機関としての物質的実在であり、さらに、性的に相異なる雄と雌という個体の「調和」的合体により、その雌雄の存在期間を超えて行く新たな個体を生み出す能力を持った物質的実在のこと。

なおその物質的実在としての個体は、その内部と外界との関係が、内部での循環と外界への廃棄ということを通して調和して連結し得ているときには「健康」であり、内部に溜まった廃物・廃熱・余分のエントロピーを外界に捨てることが困難になったときには「病気」になり、それらを捨てることができなくなったとき、あるいは外界との関係が遮断あるいは分断されたとき、さらには外界に捨てる場所・空間がなくなったときには、内部の循環も止まり、全体を維持できなくなって「死」を迎えることになる。

 

そこで本節では、人間とは何か、とくに「社会的存在としての人間とは何か」に主眼をおいて考えてみる。それも、ポスト近代の、すなわち環境時代における「社会的存在としての人間とは何か」についてである。

そこで先ず、ポスト近代ということに拘らずに、いつの時代においても、社会的存在としての人間になる一歩手前の段階において、つまりこのような能力や特徴を備えていたから社会的存在としての人間となれたと言える特徴とは何かということについて考えてみる。

それは、いくつかの書籍を参考にすると、少なくとも次のようなことが言えるように私には思えるのである。

立って歩く生物である。

考えることができる生物である。

目的を持つことができる生物である。

集団で目的を共有できる生物である。

道具をつくる生物である。それも、ただ単に道具をつくるというだけではなく、加工のための道具をもつくり出すことのできる生物である。

物事を事前に計画することができる生物である。

時を選ばずに食欲を持つ生物である。

時を選ばずに性欲を持つ生物である。

愛の感情を持つ生物である。

つまり、この限りでも、人間とは、必ずしも本能が主導的にはならない生物、少なくとも本能だけでは動かない生物である、と言えそうである。

では、「社会的存在としての人間」となるとは、こうした基礎的な生物状態である上に、さらにどうなることであろうか。

それについては私は、一人ひとりが集団を構成する中で、その集団の中でのそれぞれの体験を通じて、考え、迷い、判断しながら、次のような行動グループに分けられる段階を経て、能力面でも感情面でも豊かになってゆくことなのではないか、と考えるのである。

(段階Ⅰ)

信じること、予想すること、ができる。

思い出すことができる。過去を記憶できる。

孤独を感じたり、淋しさを感じたりすることができる。

他者の感情に共感できる。

(段階Ⅱ)

個としての自己の存在を認められるようになる。

自己の存在を認められようとする。認められたいと思うようになる。

誇りを感じられるようになる。

悩んだり、不安になったりもするようになる

他者を憎んだり、嫉妬したり、羨んだりするようになる

他者の物を盗んだり、嘘をついたり、他者を殺したりするようになる

(段階Ⅲ)

他者と約束を交わし、それを守ることができるようになる。

規則を作り、それを守ることができるようになる。

未来に向かって計画したり、目的を設定したりできるようになる。

みんなで一つのことを信じ、その信じたものの下で、集団を構成することができるようになる。

過去と現在と未来を連続させて考えることができるようになる。

物事の意味や価値を考え、判断することができるようになる。

自分の行動に責任を持てるようになる。無責任とは何を意味し、どういう結果をもたらすかを判断できるようになる。

自分の言動に反省できるようになる。良心を持てるようになる。

恥を恥と感じられるようになる。良心の呵責を感じられるようになる。

美しいものを美しいと感じ、醜いものを見にくいと感じられるようになる。

他者のために自分が役立ち、自分の存在を他者に認められることに喜びを感じられる。

嘘をつくことは集団の秩序を壊す最も悪いことだと判断でき、真実を大切にし、善なること誠実であることを大切にし、美しいと思えることを大切にできるようになる。

  

結局、ヒトが人間になる、より正確には、「生物としてのヒト」が「社会的存在としての人間」になる、あるいはなれたということは、私は、「生物としてのヒト」が上記したような幾つもの段階からなる過程を経て、最終的な段階と私には考えられる(段階Ⅲ)へと進みゆく状態を言うのではないか、と考えるのである。

なおその場合、「社会的存在としての人間」になる上でとくに重要だったのは、集団を構成しうる契機になる要素としての、信じるものを共有し、意味や価値を考え、未来を考えて計画することが出来たことであり、また、計画したその方向にみんなで行動できるようになったことだったのではないか、と私は考える。

そしてその場合、人と人との間で、関係を急速かつ飛躍的に深め合って行く上でだけではなく、互いに深い信頼関係で結ばれるようにもなってゆく上でも欠かすことの出来なかった要素が、他者を思い、他者への尊敬と愛を土台にした「自由」、とくに「表現の自由」を互いの間で価値として共有したことだったのではないか。それによってこそ人間は、「社会的存在としての人間」に留まらず、互いに初めて「人格的存在」にもなり得たのではないか、と私は考えるのである。

ここに、人格的存在とは、明日の約束ができる存在、昨日の言動について責任をとれる存在、現在の言動に統一性のある存在、ということである(高田求「未来への哲学」p.41と47)。

なお、ヒトが人間になる上で、さらには人間が人格的存在となる上での表現の自由、すなわち、自分の信じるところや思うところを自由に表現できることがどれほど大切なことか、その意義については、6.4節を参照していただきたい。