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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その2

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以下は、「その1」に続くものです。

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その2

 以下は、「その1」に続くものです。

その際、参考にさせてもらったのは、以下の書物である。

いずれも元官僚だった人の著書である。

通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)。元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)。元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)。

 これらから見えてくる官僚、広くは役人の公務遂行上の手口とは、結局のところ、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもので、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということだ。そうすることで、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟める」としているのである。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を見破られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 しかし私はこれ以外にも気づいたことがある。それは、外に出す文書の中の文章では、つねに主語を明記しないことだ。すなわち「誰が」そうするのか、「誰が」それの責任を負うのかが判らないような文章表現していることだ。これも、極めて狡猾な行為だ。

 なお、元官僚らは、官僚が外に向けて出すあらゆる文書については、そこに用いる用語についても、それを読む国民には細心の注意が要る、と注意を促す。

 たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党の代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

 例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

 官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、元官僚はこう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と。

 要するに、官僚たちの国民に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにすること、あるいは全貌は知らせないようにすること、知らせるにも明確には知らせないこと、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまうこと、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、つまり意思決定の過程をも判らなくさせてしまう、というものだ。

 要するに、これらは、秘密主義を通す、ということなのである。

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり主人であり、自分たちはその主権者「全体の奉仕者」であるにもかかわらず、そしてそのことは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。例えば、その文書を書いた年月日が書かれてはいない。書いた部署名が記載されていない。そしてその場合も、既述のような官僚用語を駆使して答える。

そうした答え方の典型例は、情報公開法に基づく住民の情報開示請求に対して、国民が最も知りたいことについては「黒塗り」にして出す、というものだ。

 これがこの国の官僚すなわち役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているのである————問題は、本来公僕である官僚のこうした、主権者に対する公僕としてのあるまじき傲慢不遜な態度に対して、彼らをコントロールしなくてはならない、国民の代表でもある当該府省庁の担当大臣が何も諌められず、あるいは日本国憲法第15条では、その第1項において「公務員を罷免することは、国民固有の権利」と明記しているにも拘らず罷免もできずに、ただ傍観していることだ。こういうところからも、この国では、国を実際に動かしているのは官僚であって政治家ではない、すなわち実態は官僚独裁の国なのだ、ということがはっきりするのである————。

 以下は、さらに私自身が彼ら官僚の幾人かとこれまで直に接する中で確信を持った、冷酷で狡猾な手口であり、姿だ。

 1つ。

 自分たちが所属する府省庁の既得権益や組織が縮小するようになることには、その組織をあげて抵抗し反対する。

 そうならないようにするためには、この国を経済面で果てしなく発展させること。そしてそれを官僚間での暗黙の了解事項とすること。またそのためには、自分たちの所属する組織である府省庁が専管範囲とする産業界を優遇しては恩を売り、その見返りとしての「天下り」を確保すること。

 そしてそれをそれぞれの府省庁が確実に継続できるように、府省庁間では、互いに相手の専管範囲には干渉しないこと。つまり、行政の「縦割り」を断固守ること。

 1つ。

 この国では、政治家一般が自己の役割や使命を全く果たさず、無責任で自己に甘いことをいいことに、彼らを徹底的に利用すること。

 そのためには、政治家、とくに国の執行機関の長である首相、地方の行政機関の長である首長をオモテに立て、自分たちがウラに回って、自分たちの望むように彼らを操ること。

「自分たちの望むように」とは、自分たちの既得権益が減るようなことになったり、自分たちのやっていることに対する国民の自分たちの行政への不信が首長の耳に届かないようにするために、首相や首長の前に立ちはだかり、妨害すること。

むしろ首相や首長には、不都合な情報は握りつぶしながら、自分たちに好都合な情報のみを伝えては操って、その通りに国民の前にて発表させること。

つまり閣僚を自分たちのメッセンジャーにするわけである。

 1つ。

 とにかく自分たちの利益を守り、確保することを、つねに最優先する。

だから、表向きは国民の福祉を口にしながらも、実際には、それを実現することは二の次、三の次にすること。

 1つ。

 たとえ行政組織間の「縦割り」を当然として、他の府省庁の管轄範囲には踏み込まないことを府省庁間での暗黙の了解事項にするにしても、自分たちの組織を守るためには、他の府省庁の組織をも守ってやる必要がある。そうでなくては、自分たちの組織が危機という時、周りからも守ってもらえないからだ。

 したがって、どこの府省庁の官僚であれ、不祥事を起こしたり失敗したりして、国民からその原因究明を迫られたような場合には、公正を期すためには「第三者委員会」や「査問委員会」を設立してそこに対応してもらうのが正しいことは誰でも知っていながら、敢えて官僚の仲間内だけによる「調査委員会」を作って対応するようにすること。

 

 ざっと以上が、私が知ったこの国の官僚という官僚の、事に当たるときの冷酷さと狡猾さの実態である。

しかし、実は、官僚らの上記のいずれの手口も、明治期以来、天皇に対してさえそうしてきたと同じく、官僚の一貫した組織防衛の仕方であり、自分たちの野心を貫くための仕方であり、また自分たちが黒子となって公式の権力者を操ってきた操縦法なのだ。

つまり、官僚たちは巧妙に二重権力構造を作ってきたのだ。そんな狡猾さや冷酷さは何も今に始まったことではなく、彼らはそれらを、明治期以来、ずっと「組織の記憶」(K.V.ウオルフレン)として受け継いでいるのである。

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その1  

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本当ならば、今回も第4章の続きとして、その章の最後の節である4.5節を公開すべきところなのですが、今回はその予定を変えます。

それは次の理由によります。

どうも「新型コロナウイルス」に対する中央政府の対応、特に、そこでのこの国の公式的には最高責任者であり、また日本国の舵取りでもあるはずの菅首相以下各閣僚の国民に対する一連の対応の仕方をじっと見ていると、やはり私がもう20年以上前から抱いてきたある危機感が改めて、それもいっそう確信をもって蘇ってきたからです。

実はこの拙著「持続可能な未来、こう築く」も、その時の危機感がこれを著さねばということを私に決意させたのですが、改めて感じたこの度のその危機感とは、“この新型コロナウイルスの問題程度のことで、明確な大方針を示せず、国民を統制のとれた方向に統治もできず、うろたえてばかりいるような首相からなる中央政府では、つまりこの程度のことで事実上無政府状態に近いような状態を露呈してしまうようでは、近い将来起ってくるであろうと私には推測される、これよりもはるかに規模が大きく困難で長期化するであろう全般的危機の時には、一体私たち国民はどうなるのか”、というものです。

しかもその全般的危機をいっそう深めてしまうのではと私には考えられるのは、首相以下、スポークスマンである官房長官を含む全閣僚は、国民に物を語るときには、誰も、あたかも政府内の統一見解であるかのように語ってはいるが、実は彼らは誰も、彼らの背後にいる官僚の筋書き通りに動いているにすぎない、つまり官僚および官僚組織の操り人形(ロボット)にすぎないと思われることです2.2節2.6節を参照)

そのことは、例えば次の事実を思い浮かべてみていただければ、頷けるのではないでしょうか。彼らが国民の前で少し込み入った政治状況を説明する際には、とにかく官僚の作文を読まなくては、筋の通ったことは何も語れないことを。原稿なしで説明しようとしたらたちまち無知と不勉強をさらけ出してしまって、ボロが出てしまい、後で “失言でした”と謝らなくてはならなくなるようなことを、これまで、一体、どれ程繰り返してきたかということを。

この事実自身、私たち主権者である国民にとっては、彼らは選挙で政権すなわち政治権力を獲ったことになってはいますが、そんなこと以前に、国民の「代表」として振る舞えないのだから政治家失格と言うよりない、と私は見るのです。

ところが私たち国民にとってそんな事態をさらに深刻にしているのは、そうした政府の政治家たちを裏で動かしている官僚たちは、実は、歴史的にも、その職業的本性において、国民に対して極めて冷酷かつ狡猾だということです。

そのため、首相をはじめ、政府の政治家たちが打ち出してくる政策は、国民から見れば、そのほとんどが、“これが本当に国民のことを考えての政策なのか”と思えるようなものばかりです。時期を失したものであったり、本当に困っている人を救済するような細やかなところまで配慮するものではなかったり、主権者である国民よりも特定産業界を優遇するものであったりするわけですから。

この国の中央政府の政治家たちのこうした情けない姿を、この度の新型コロナウイルス禍の中でも目の当たりにすると、この国の中央政府の首相以下全閣僚はなぜこうなるのか、私なりに考えられるその理由を、先に公開済みの2.2節(8月11日、13日、16日公開)と2.6節(9月6日、8日公開)と関連させて、この際、是非とも読者の皆さんにはお伝えしなくては、と思ったのです。

そのために、今回公開するのは、先に、私がそのことに関して既に書いておいた原稿です。

それが第7章の1節、すなわち7.1節です。

実はこの7.1節は、2.2節と2.6節と共に、「この国の政治家は、この国を本物の国家とはなし得ていない」、「この日本という国は本物の国家ではない」ということとも不可分に関係しているのです。

そして、新型コロナウイルス禍の中で、この国全体に今起っている大混乱は、「国が国家ではなかったなら、その時、国民は一体どうなるのか」ということを文字通り象徴的に表している、と私は確信を持つのです。

なお、2.6節の方は、後から読み返してみると、どうも文章が判りづらいので、今、書き直しているところです。

今回も、読者の皆さんには、この7.1節が、「持続可能な未来、こう築く」の「目次」(今年8月3日に公開済み)の中でどういう位置を占めているかご確認の上、お読み下されば幸いです。

なお、4.5節は後日、公開します。

itetsuo.hatenablog.com

 

 

 

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————「その1」                     

 この国では、どうして次のようなことがしょっちゅう起こるのだろうか。

以下に羅列的に挙げる実例はそのほんの一部である。

 ◯経済大国と目されているこの国で、前代未聞の阪神淡路大震災が起こって多くの国民が被災した時に、それまで、政治家に代わって実質的に立法をして来た官僚たちは、およそ70年前の昭和22年(1947年)に制定された「災害救助法」を一部改正しただけで根本は何も改正もせずにそのままにしてきた。このこと自身、本当の公僕とは言えない姿だが、その結果、阪神淡路大震災よりもさらに大規模な3.11(東日本大震災発生時)が起こった時も、70年前の「災害救助法」で対応せざるを得なくなり、そのために、それから丸6年経ってもなお3万5000人に仮設住宅住まいを強いたままとするようなことになり、12万人余に避難生活を余儀なくさせたまま、となっていること。

こうした状態を生んだのは、実質的な立法権を閣僚らから委譲されてきた、主に国土交通省厚生労働省の官僚だ、と私には思える。

 なおこうした官僚の態度は、その後の九州北部豪雨災害でも、西日本豪雨災害でも全く同じ状況を生んだのだ。

 ◯東日本大震災直後、東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による大爆発を起こして、自国民は何十万人と死の灰を被り、またその事故は世界中の原発保有国をして震撼させ、中には即刻原発行政を根本から見直した国もいくつもあったというのに、この国では、その事故発生原因に関するまともな調査も検証もせずに、その大事故で犠牲に遭った31万人の人々を事実上見捨てた状態のまま、国内の他の原発の再稼働を決めたこと。

 こうした状態を作り出したのは、主に経済産業省の官僚だ。

 ◯日本の教育制度、それは子どもたちに最良の環境を願う親たちの要求や知恵を結晶させて作ったものではなく、高度に官僚主義化したビジネス社会において、賃金が安くても従順に仕え、そしていつでも取っ替えることができる労働力商品としての人間を大量に生産するための制度として考え出したものであること。

 こうした状態を作ってきたのは、主に文部省と文部科学省の官僚である。

 ◯この国は、国連のILO(国際労働機関)やOECD経済協力開発機構)から、子どもの人権や女性の人権について再三注意勧告や警告を受けているのに、子どもの人権や女性の人権を積極的に擁護する法律を一向に作ろうとはしないこと。

 こうした状態を作っているのは、主に文科省厚生労働省と外務省の官僚だ。

 ◯「女性が輝く社会」とか「働き方改革」を掲げる安倍政権ではあるが、それは表向きのことであって、その真の狙いは、教育制度と同じく、人間にとっての労働の真の意味を考えた、人権尊重を土台にしたものではなく、人間を労働力を持った商品と見なした上で、女性を産業界の発展のために、いかに安くこき使うことができるようにするか、またどんなに働き過ぎて過労死してもそれが「労災」として認定されることがないようにする、ということを真の目的として立法したこと。

 こうしたことを仕組んだのは、主に経済産業省の官僚だ。

 ◯母国での弾圧や迫害から逃れて日本に来て難民申請する者に対して、「難民の地位に関する条約(1951年)」と、同じく、「議定書(1967年)」を全く無視して、難民認定申請者の抱える本国での事情をまともに調査もせずに、0.4%という、G7各国中、最低も最低で、桁が3桁も4桁も違う難民認定の仕方をしていること。

 また、それだけではなく、難民の収容の仕方も、国際条約と議定書を無視したもので、期間も理由も説明せずに「収容」するという仕方であること。それはかつての太平洋戦争前夜に成立させた悪名高き「治安維持法」以上に人権を無視した拘禁の仕方であり、定まった法律によるのではなく、「難民認定制度の運用の見直し」とそれのさらなる「見直し」に基づくだけの、恣意的な運用を入国者収容所長に放任しているだけのものであること。

 実際その収容の仕方は、日本国内で犯罪を犯した訳でもないのに次のような状態なのだ。

収容部屋は6畳で、そこには国籍も宗教も違う者が4〜5人詰め込まれる。外部者との面会時間は30分だけ。家族ですらアクリル板越しの面会で、互いに手や体を触れ合うこともできない。窓には黒いシールが貼られ、外の風景を見ることもできない。病気になって医療受診申請をしても、受診できるのは早くて3日経ってから。ひどいと一ヶ月も待たされるという始末だ。

 そこでは、放免される希望も持てず、絶望感に襲われ、自殺する者、ハンガーストライキする者等々が続出しているのだ(樫田秀樹「死に追いやられる難民申請者」、および児玉晃一「先ず、人間として迎えよ」岩波「世界」第927号)。

 人間に対してこんな扱いをしているのは、紛れもなく、戦前の「統制派官僚」の記憶を受け継ぐ法務省の官僚だ。

 ◯法務省の官僚の冷酷さや非情さを示す実例の中で、極めつけは次のものである。

死刑判決を受けて28年間獄中にあった死刑囚を、途中、一旦は無期懲役減刑し、その後、差し戻した控訴審でまたも死刑判決に戻し、それを執行する、ということをしたことだ。

 これがなぜ人間として冷酷で情け知らずかというと、死刑判決を受けて28年間も執行日に脅えて獄中で過ごしてきた当人の心中というものは、法務省官僚はそれを自分たちに置き換えて想像してみるだけで容易に察することができるはずなのに、組織を挙げて判決を二転三転させ、最後は、「国家」の名において死刑を執行したからだ(1997年8月1日 K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社p.207)。

 死刑を執行させたのは形の上では法務大臣だが、そのように持って行ったのは法務省の官僚なのだ。

 ◯国家の政府債務残高の対GDP比が、財政破綻に喘ぐ世界のどんな国と比較してもダントツに悪化していてもなお、各府省庁の官僚たちはそんなことには一向に構わずに、自分たちの組織の既得権益や組織の規模を縮小させられることを避けるために、予算を減らすどころか、むしろ何かと理由をつけては予算規模を増やし、結果として毎年の国家の予算の一般会計は過去最高を続け、政府債務残高を増やし続けていること。

 しかもそうしてますます増える借金の返済については、自分たちの代で返済する覚悟などさらさらなく、次世代や将来世代に返済してもらうことを当たり前にしていることだ。

つまり自分たちの身の安泰を考えるだけで、国の将来や、これから国を背負って立ってゆかねばならない若者や子供達にのしかかる負担の大きさなど全く眼中にないことだ。

 これをしているのは、全府省庁の官僚だし、各府省庁の官僚が出してきた予算を取りまとめる財務省の官僚だろう。

 ◯ところがその官僚らは、国の借金をそのように天井知らずに膨らませながら、これまでどおり、特に「高級」官僚は「天下り」や「渡り鳥」を続けては、格安の公務員宿舎に今までどおりに住み続けている。民間のサラリーマンに比べて、生涯賃金の面でも、退職金の面でも、年金の面でも、福利厚生の面でも、休暇の取得日数面でも、仕事への責任意識の面でも、「死ぬまで安心な老後を送れる特権」(「週刊ポスト」2017年9月22日号)の幅を膨らませているのだ。そして、国家公務員と民間サラリーマンとの老後の格差を、いつのまにか2倍以上へと広げていることである。

 こうしたことを率先してやっているのは、多分、主に総務省の官僚だ、と私には思える。

 ◯国民年金基金についても、その運用のためと称してギャンブル市場に曝し、その結果、17兆円もの損失を出してはその国民年金基金の運用を危機に陥れながら、一方の官僚を含む公務員一般が加入している共済年金基金の運用については、ギャンブル市場には曝すことなく、ガッチリと守っていることである。

 これも主に総務省の官僚の仕業と思える。

 ◯何百万人分もの国民の年金記録を消滅させても国民に公式に謝罪もしないこと。

 これは直接的には社会保険庁の官僚のやったことだが、本質的にはこれを下部組織に持つ厚生労働省の官僚の仕業であろう。

 ◯公文書である森友学園の決済文書の改竄および国会や会計検査院への虚偽報告を自分が指示しておきながら、その指示に忠実に従ったがゆえにその後罪悪感に苛まれて自殺した部下に対して、指示した当の佐川理財局長(当時)は遺族に正式に謝罪もしなければ、良心のひとカケラも見せなかったこと。

また官僚組織の上職者は、その文書改竄に関った官僚を、その後、皆、要職に就かせるという人事評価をしたこと。さらには、その問題を捜査した大阪地検特捜部の官僚は官僚で、自分たちの仲間である佐川ら38名を不起訴にするという結論を下したこと。

 これをしているのは財務省の官僚であり、彼らと同調して動く法務省の官僚であろう。

 ◯新型コロナウイルスの拡散に因って自分たちが後れに後れて作成した「緊急経済対策」(2020年4月7日)では、所得が急減した人々への援助支給額についての本人申請制度を、今すぐにも援助資金を必要としている人の立場など全く考慮もせずに、11枚もの書類を提出しなくてはならないような煩雑を極める支給手続きを決めたこと。

また、そんな煩雑な申請制度でも、やむなくそれに従って申請しても、実際に支給されたのは申請日より1ヶ月も2ヶ月も後になるような支給の仕方をしたこと。

 これは、財務省の官僚たちの仕業だろう。

 ◯そして新型コロナウイルスの感染拡大を抑えながら経済活動を維持しうるために最も有効な手段の一つと感染症の専門家の間でも考えられているPCR検査について、それを受けることを希望する人には誰もが受けられるようにして欲しいと国民の多くが切実に望んでも、「保健所を通せ」の一点張りで、今日に至ってもなお、自分たち省庁の縄張りを守りながら、既得権益の維持を国民の生命の安全以上に位置付けていること。

 これをしているのは紛れもなく厚生労働省の官僚だろう。

 ◯またこれと同様に、医療機関が、コロナウイルスに対応するのに防護服が足りない、マスクも足りないとして、至急供給して欲しいと政府に懇願しても、また、経営が逼迫しているから、緊急にもコロナ交付金を回して欲しいと願い出ても、いつまで経っても届かないこと。

 こうした事態を長引かせているのは、主に厚生労働省経済産業省財務省の官僚であろう。

 

 以上の実例は比較的最近のものであるが、しかしこうしたことは、最近に限った話ではない。

 もっと古くはこうしたこともあった。

 昭和の頃のことだ。

国体の変革を目的とする結社活動や共産主義運動を抑圧する策として、違反者には極刑主義をもって臨もうとした「治安維持法」を制定したのも政府の官僚だ。中心となったのは、内務省の官僚だ。

 米英を主要敵国とするアジア・太平洋戦争を開始する際、開戦理由も開戦に至った経緯も国民には一切説明せず、戦争状態に入ったことをいきなり国民に告げたのも政府の官僚だ。

 そして以後、国民には無条件に戦争協力を強い、国民を「一銭五厘赤紙」一枚で駆り集めては戦場へ送り出したのも政府と軍の官僚だ。

国民一般には、戦争協力に消極的な者には「非国民」と呼ばせ、戦争に異を唱える者には「国賊」と呼ばせて来たのも政府と軍の官僚だ。

 日本陸軍の上層部の官僚の自国民に対してこの上なく冷酷で非情、そして無責任であることを世界にまざまざと知らしめたのは「インパール作戦」だ。

 それは、牟田口簾也中将を始めとする日本陸軍の上層部の官僚たちが、誰がその作戦実施の最終意思決定をしたのかも判らないまま、したがって最終的な責任者も判らないまま、自国の兵士を人間とも思わずに、途中、大河あり、山あり、沼ありの470kmという長距離を、戦略も全くなく、戦場への兵站もない中、たった三週間で踏破して敵の陣地を攻略するというその無謀極まりない計画を強行し、当初9万人いた将兵のうち実に3万の兵士を、戦闘によってではなく飢えと病気によって文字通り無駄死にさせてしまうという、日本の戦史上最悪で最低の、作戦とも言えない作戦のことである。当然それは大失敗に終わった。

 ところがそんな作戦を指揮した牟田口を始め、その作戦を許した陸軍の上層部は、大本営を含めて、戦後になっても、皆、自らを正当化するばかりで、責任を取ろうとする者は皆無だった。それどころか、後に首相になった東條英機は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残さず」との「戦陣訓」を作って、兵士には、投降して捕虜になる自由も認めず、死を強制していたのである。

 そんな軍官僚だから、戦場において、上官による「教育」ないしは「指導」の名の下での、兵士に対する「殴る蹴る」の扱いは日常茶飯事だった———この風潮は、その後、つい最近まで、この国の様々な分野で、原形となって、深い影響をもたらした、と私は考えている。1つは、教育現場において、教師が生徒を「教育」ないしは「指導」の名の下で殴っても平然と見過ごされる風潮だ。1つは、家庭において父親が子どもを「躾」と称して殴ることを当たり前とする風潮だ————。

 そしてこれも、今や、成人した日本国民だったら誰もが知っていることだが、戦時に設置された国の最高統帥機構であり、当時エリート中のエリートとされた軍官僚からなる陸軍の参謀本部と海軍の軍令部とから成るいわゆる大本営は、自国民に対して、戦況について、真実を隠し、嘘ばかり伝えていたことだ。

 このように、この国では、政府の官僚と軍の官僚こそが、社会の隅々にまで、「上」の者が「下」の者を見下すことを当たり前とする風潮をつくって来たのだ。

 国民に嘘を言いながら、また国民を捨て石として利用するだけ利用しておきながら、敗戦が決定しても、国民に経過報告もしなければ謝罪もしないで済ませて来たのも政府と軍の官僚だ。

日本はただ負けたのではない。無条件に降伏したのである。にも拘わらず、それも認めようともしないのも政府と軍の官僚だ。世界が認める日本の終戦日=敗戦日は9月2日なのに、戦後70余年経ってもなお8月15日を「終戦」記念日として国民を騙し通しているのも政府の官僚だ。

 また、誰が見ても無謀きわまりないと思われる戦争を引き起こしておきながら、戦後いつまでたっても、戦争の顛末を公式に総括しようともしなければ公式の戦争記録として残そうとしないのも政府の官僚だ。

 戦場に駆り出しておきながら、戦場で死んでいった自国兵士の、少なくとも120万体以上の遺骨を未だ収拾もせず、野ざらしにしたままでいるのも政府の官僚だ。

 敗戦後は敗戦後で、今日まで、世界からも「富める国の貧しい国民」と揶揄されながらも(K.V.ウオルフレン「システム」p.16)、国民の幸せは二の次、三の次にして、国民の税金を使いながら産業界を税制上でも最も優遇してはその発展をつねに最優先にしては、その引き換えに「天下り」や「渡り鳥」による優雅な暮らしを続け、各府省庁とも、組織の維持、そして既得権の拡大に最もこだわって来たのも政府と財界の官僚なのだ。

 

 以上が、ほんの数例ではあるが、この国の政府の官僚、軍の官僚、財界の官僚の、自国民に対する対応の仕方である。

そこには、人間的な思いやりなどひとかけらもない。「自由と民主主義は人類普遍の価値だ」と首相は言うが、官僚たちにはこの国に自由と民主主義を実現しようなどといった意識は全く見られない。常に自分たちの利益が最優先なのだ。それが日本の国の公務員=「公僕」とされる官僚の実相なのだ。

 

 ではこの国の官僚は、自国民に対してどうしてこのように冷酷かつ非情になったのであろう。そして、それはいつ頃からなのであろう。またどういう経緯を経てそうなったのか。 

 その第1の問いの私の答えは、一言で言えば、直接的には国民に対する「恐怖心」であり、その恐怖心を国民には悟られまいとしたためであろう、ということである。つまり恐怖心の裏返しなのだ、と思う。

第2の問いの答えは、幕末から明治初期に掛けて誕生した薩摩藩長州藩の下級藩士からなる薩長政権からであろうと思う。具体的には、西郷隆盛大久保利通木戸孝允桂小五郎)、伊藤博文井上馨山県有朋森有礼そして下級公家だった岩倉具視等によって成る政権からであろう。

 では第3の問いである、何を契機にそうした恐怖心を国民に対して抱くようになったのか。

それは、最も重要な問いだ。そしてその答えは、一言で言えば、日本国の改革を断行していた彼らに、いつもつきまとっていた不安だ、となる。

“自分たちに国を造り換えるだけの権利が本当にあるのか”、というそれだ(K.V.ウオルフレン)。

 それは、幕末、開国を迫る列強の使者たちが日本を訪れるたびにもたらした列強の文物に触れたり、欧米列強への大規模長期視察をして民主主義や民主主義議会政治の行われ方をつぶさに見たりして来た薩長政権の寡頭政治家らは、政府というものは国民から支持され合意されてこそ政府として成り立ちうる、ということを知ってしまったからだ、と思われる。

 ところが、明治政府の実際は、「大政奉還」により政治権力が徳川幕府から朝廷に返還されるはずだったところ、それでは薩長の下級武士達としては、これまでの自分たちの倒幕の苦労は無意味になるとして、その政治権力を武力をもって横取りして(戊辰戦争)、成り立たせた政府に過ぎなかった。そのことを、すなわち自分たちの打ち立てた政権には正統性がないということを、上記寡頭政治家らは十分に判っていたからだ。当時の庶民も、明治政府を、「勝てば官軍さ」、皮肉を込めて見ていた。それは、横車を押してでも、勝ってしまえば、世の中の人々には文句を言わせない存在になるのだ、という揶揄を込めた言い方だった。

 だから政府は不安だった。その「正統性がない」ということに国民がいつか気づくのではないか、と。

 それだけに彼らは、自分たちの政権の安定を図るために、何とかして、国民の前で、自分たちの政権は正統な政権であるというふりをする必要があった。

 実際、政権発足後数年して、板垣退助らは、「市民」的蜂起として、民選議院の設立へと動き始め、反政府運動を展開し始めたのだ。「自由」や「民主主義」に目覚める民衆による一連の「自由民権運動」の中でも「秩父困民党事件」が特に有名である。だが、それらのどれをも、薩長政権の後継官僚は、過酷なまでの弾圧をして鎮圧してきた。

 そんな中で寡頭政治家たちの後継官僚たちが政権を正統化するために思いついたのが、「天皇を、以前より目に見える形の公式の権力者として復帰させ、その天皇に、『天皇の意志』はこうあるべきだとそっと耳打ちする」という方法だった(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社 p.336)。つまり天皇を巧妙かつ狡猾に利用し、その裏で、自分たち官僚が実権を握る、という方法だ。

 だから官僚たちは、国民の前では、自分たちを、天皇に忠実に仕えるシモベであるということにした。そこには、官僚は天皇の意志を体現する役柄という意味をも込めていた———庶民が、役人のことを「お上」と呼ぶようになったのはそのときからだったのではないか、と私は推測する————。

 こうなれば、役人らは、“自分たちのすることはすべて天皇の意志に基づき、天皇の御名において行われるのだから、不正や間違いなどあるはずがない”、という態度になる(K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社 p.240)。

 彼らはさらに、自分たちの政治権力をより強固にするためにより巧妙な策をも思いついた。よく知られた、あの、国民に対しては「知らしむべからず、依らしむべし」という秘策である。ここで言う庶民をして「依らしむ」べき相手とは、もちろん天皇である。あるいは天皇の意思を体現する役柄を負った官僚である。

 実はこの秘策は、1825年、当時水戸藩国学者であった会沢正志斎が「新論」を著して次のように説いたことに拠るのである。

 「一般庶民には国家のルールが厳然と存在することを認めさせ、そうしたルールが彼等にとってよいものであることを理解させよ。だが、そうしたルールがいかなる内容のものであるかは彼等に知らせるべきではない」(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.85)。

 新論なる書物、それは、明治の後々の権力保持者たちに、徳川幕府には民を愚かに保つことでその民の力を抑える伝統があったことを思い出させるための書物だった。

 自分たち統治者・支配者の立場を安泰にさせようと思ったなら、とにかく国民には、物事、とくに政(まつりごと)や自国の歴史の真実を知らせるな。そして国民同士で団結しないようにし、むしろ国民には「お上」を頼るようにしろ、というわけである————そして、ここから、国民には、さらに、「政治には無関心でいるのがいい」という策が、やはり官僚から生まれてきたのである————。

 この秘策がその後、今日に至ってもなお、この国の官僚主導政治の中で巧妙に活用され、国民の知る権利の実現を含む民主政治の実現をどれほど阻んで来たか、それは今さら言うまでもないであろう。

 なおこのことは、国民に対しては、自分たち役人のすることは神である天皇の意思に基づくものなのだから間違っているはずはないし、したがって一旦始めたことを途中でやめたり変更したりすることなどもあり得ない。だから、自分たち役人のすることに反抗したり批判することは絶対に許さないという姿勢を示していることでもあった————そしてこの姿勢や態度は、その後、今日まで、公共事業であれ、国の政策においてであれ、官僚たちの間で「組織の記憶」として、脈々と受け継がれてきているのだ。————

 

 ともかくも、こうして官僚は、「天皇の官吏」となり、国民をおさえつける仕方、つまり権力の行使の仕方を知り———もちろんそれは定まった法に基づく仕方ではない———、いかなる時にも罰せられないしくみを編み出したのである。その上、その後、軍官僚によって、天皇には「統帥権」と「統治権」からなる「大権」があり、それは議会といえども、また政府といえども、一切口出しのできない絶対権力とされたのだ。

天皇制」という、結局はこの国を滅ぼすことになる統治体制も、こうした流れの中で、天皇に忠実に仕えるシモベとしての官僚によって創り出されていったのである。

 官僚らはさらに、自分たちの地位をより安泰にするために、天皇を神格化することをも画策した。

そのために打ち出した政策が、「日本は、慈悲深い天皇を家長に仰ぐ大家族主義の国家だ」、それも、当時のアイヌ、ウイルタ、ニブヒ、沖縄、小笠原の人々、そして帰化人である「元」朝鮮・韓国人であった人々の存在をも無視して「単一民族の国だ」とするものだった。

実際そのことから始まる「一民族・一言語・一文化」というウソで固められた政策により、こうした人々がその後、つい最近になるまで、どれほど長い間虐げられることになったかは、既に私たちの知るところである(網野善彦「『日本』とは何か」 講談社学術文庫 p.320)。

 しかし、「単一民族の国だ」どころか、正確に言うのなら、元々、この国には、「日本国籍所有者という意味以外では、日本人なんてものは、ない」、すなわち日本人などという民族はいないというのが真実なのだ(森巣「無境界家族」集英社p.212)。

 余談だが、この国の中央政府の文部省と文科省が「検定」という憲法違反(日本国憲法第21条第2項)をしてまで、とくに日本史については細かく教科書をチェックしては行なっている歴史教育と、「検定」不要なお手盛りの道徳教科書によって行なっている道徳教育においては、今なお母国の歴史の真実を教えず、また国民一人ひとりの個性を育て多様性を尊重するという世界ではとうに当たり前となっている道徳教育もせずに、もっぱら画一教育を続けることに固執し続けているという背景には、実はこうした歴史的事実が厳然としてあるのである(第10章)。

 この国の実質的統治者が、つねに正統性と正当性に不安を持ち続けたのには、彼らにしてみれば、多様な民族によって構成され、多様な生き方をする国民の社会よりも、単一民族の社会、画一の生き方をする国民の社会としておいた方がずっと統治しやすいし、統治しやすいからだ。それにその方が、彼らの地位も安泰である、というわけだ。

 こうした一連のウソを国民に真実らしく思わせるために、さらにでっち上げた話こそが、実は今日、私たち「日本国民」としての意識をあらゆる面で漠然としたものにさせてしまう、あるいは明確なアイデンティティを持ち得なくさせてしまう契機となった「日本の建国神話」であった。

それは、かつて幾内において建国したとされる初代天皇の統治の時代にこの国を戻さねばならないとする「王政復古」という考え方や、そのために自分たちは徳川政権より権力を武力で奪ったのだ、とする薩長政権の考え方と軌を一にしていたである。

 その建国神話とは、出雲国風土記(733年)に伝わる神話を結合吸収しながら、しかしそれを改竄し、古事記(712年)と日本書紀(720年)に伝わる神話の方を圧倒的優位に置いた話のことである。在位76年、127歳で没したとされ、実際にはどのような政治を行ったかも判らない神武天皇を建国の祖とし、以来、「諸事、神武創業の始め」にもとづく、とするものである(岡本雅享「建国神話と日本の民族意識週刊金曜日2015年2月6日号)。

 実際、このような欺瞞に満ちた統治策は世界中どこの国の歴史を見ても、多分例がないだろう。

 

 なお、ここで、私は、次のことをも思い出すのである。

それは、この国の政府が2013年12月に成立させた「特定秘密保護法」、そして2017年6月に政権党が中心となって強行可決した、共謀罪の趣旨を含んだ「改正組織犯罪処罰法」、通称「テロ等準備罪」法についてである。

 前者の法は、そもそも「何が秘密なのか」ということ自体も秘密にし、曖昧なままにし、その上「何が特定」なのかも秘密あるいは曖昧なままにした法律である。それは文字どおり「会沢正志斎」の授けた教えのとおりだ。秘密かどうかの判断、そして何を特定とするかの判断はすべて省庁の官僚の自由裁量に委ねられている。したがって、政府(官僚)が「これは秘密事項だ」「国家機密だ」ということにすれば、あるいはそう宣言すれば、その瞬間に議論もできないように封じ込めることことができ、しかもその秘密を漏らした者への罰則が伴うために、情報源をも萎縮させてしまう代物の法律だ。

 後者の法も同様で、この法律を成立させる重要な用語の定義と適用条件が曖昧なままなのだ。たとえば、「組織的犯罪集団」の定義も、取り締まりの条件とする「準備行為」の定義も、である。しかもこれらいずれも判断するのは官僚から成る捜査当局なのだ。

 実は、こうした定義や適用条件を曖昧なままにして、しかも、犯罪を実際に実行に移した段階ではなく、準備行為をしたと判断された、あるいは推測されただけでこの法が成立してしまうという、まさに過去のあの暗黒時代の「治安維持法」と同様の法律を国会の政治家が成立させてしまった事実それだけをとって見ても、この国の総理大臣を含む政権政党の政治家たちがいかに現行日本国憲法第19条【思想及び良心の自由】を理解できていないかということと法の概念に対して無知であるか、そして官僚を指揮しコントロールする自信がないか、ということ、一方の官僚たちも、国民統治に対していかに自信がないか、等々の現れだと言ってよい。

 

 K.V.ウオルフレン氏は、こうした日本の状況に対して次のように言う。

 「人々に対するこの(官僚の抱く)恐怖心と、その結果としての人々へのあしざまな扱いこそが、多分、今日の日本につながった深刻な筋立ての核心部分であろう。それが、日本の政治的欠陥の根本にある。」(K.V.ウオルフレン「システム」p.335〜337)。

 

 ざっと、以上が、今日にまで続く、この国の官僚がどうして冷酷非情、そして狡猾になり、またその延長上で、傲慢にもなってきた理由ではないか、と私には思われるものである。

 ところで、官僚たちがどうして自国民に対して冷酷になり、また狡猾になるのか、その理由はおおよそは判ったが、では、その官僚たちは、自分たちが組織を守り、組織として実現させようと決めた野心を貫徹させるために、国民の前にとってきた常套手段としての手口とはどんなものなのであろう。

 最後にそれについても考察してみる。

ただし、以下は、本節同名のタイトルの下での「その2」に譲りたいと思います。

4.4 都市および集落の三種の原則

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 前節の「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」に続いて、今回公開する以下の節の内容も、今、地球温暖化の危機そして生物多様性の消滅の危機に直面している私たち地球人類にとって、その危機を克服するためというだけではなく、私たち一人ひとりが、本当の意味で人間として、それも未来永劫、持続的に生きてゆくことができるようになるためには、今、少なくともこのくらいのことも、きちんと考えておく必要があるのではないか、と、私は考えるものです。

これも、拙著のタイトルであり、全体原稿を貫く主旨でもある「持続可能な未来、こう築く」の「目次」(2020年8月3日公開済み)の中に位置付けてお読みいただければ幸いです。

 

4.4 都市および集落の三種の原則

 すでに突入してしまっていると私には思われる環境時代においても、集落あるいは都市は、人々が互いに人間として、共に生き、共に暮らして行く共同体であることに変わりはない。しかしそこでの都市づくりそして集落づくりは、もはやこれまでこの日本の政府がとって来た、自然を無視し伝統の文化を無視または軽視しては「果てしなき経済発展」なる暗黙の国策を最優先する無秩序な建設の仕方ではなく、前節で明らかにした「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を踏まえながら、「三種の指導原理」が実現された場でなくてはならないのである。

しかし、とくに人間の集住する場としての集落や都市は、さらに次の原則も実現されていなくてはならないと私は考える。

 それはやはり三つの原則からなり、①小規模で、かつ分散していなくてはならないという原則、②経済が自立していなくてはならないという原則、③政治的にも自決できていなくてはならないというものである。

こうした原則がともに実現されてこそ、都市や集落でも三種の指導原理は実現されやすくなるからである。そこで、これら三つの原則からなるものを今後は三種の指導原則と呼ぶことにする。当然ながら、三種の指導原則は、三種の指導原理が成り立った上で成り立たせられるものである。

 なぜなら、もしこうした階層関係を考慮せずに都市あるいは集落を建設していったなら、早晩、都市や集落には必ず様々な矛盾やら不具合が生じてきて、そこは人間が持続的に住み続けるには不都合で不適切な空間となってしまうであろうからである。

つまり、ここでも、三種の指導原則と三種の指導原理との間には階層性が成り立っているのである(「原理」と「原則」の定義については、4.1節を参照)。

 では、なぜこれからの環境時代の都市と集落は先の三原則を満たさねばならないと私は考えるか。以下がその理由である。

(1)「小規模」で、かつ「分散」していなくてはならない理由

 まず「小規模」でなくてはならない理由は少なくとも5つはある、と私は考える。

1つ目は、その都市も集落も、そこが集まり住む人々の共同体である以上、住人の一人ひとりがそこの主人公として、自分たちの共同体を自分たちで責任をもって運営できる規模でなくてはならないからである。大規模であったならそれは不可能になる。

つまり住民の一人ひとりがそこの主人公として責任の持てる規模であってこそ、その共同体は、自分たちのことは自分たちで責任を持って決められ実行できる本物の「自治体」となりうるのである。その点、この国の現状はどこの都市も集落も、とても「自治体」とは言えない。住民は地方行政府に依存しているし、地方行政府は中央行政府の(官僚の)言いなりだ。そういう意味では、現行の地方公共団体の実態は自治体どころか従属体でしかない。

 もはやこれからは、都市も集落も、その運営に関しては、“誰かが適当に管理・運営してくれるだろう”、といった他力本願で、「あなた任せ」の姿勢では済まないのだ。それは、もう、行政には金もなく、人間もいないからではない。共同体の一人ひとりは、都市ないしは集落の共同経営者であり、したがって主人公、すなわち主権者なのだからだ。そこでは、自分たちの住む場は自分たちが自分たちの責任において物事を決め、維持・管理して行くのである。それは、自分たちの運命は自分たちで決めるということでもある。

 そのためには、どうしても、住民自身の運営能力と責任能力を超えるような規模であってはならない。超えたら、それだけ無関心な者が出てくる。無責任な者が出てくる。他人任せの者が出てくる。

 むしろ小規模となって初めて、人々は互いの顔を知り得、互いに接触する機会が増える。そのとき、互いに本音で語るようになれば、それだけ互いに理解できるようになり、信頼感も湧き、また強まる。またそうなれば、それだけに周りの人がどういう悩みや苦しみを抱えているかが相互に見えるようになる。そうなれば、互いに支え合う空気も生まれ、互いに孤立することはなくなり、強固な絆で結ばれた強固な共同体となるだろう。

 そして小規模であれば、政治家一人ひとりの挙動も住民には眼に見えるようになるから、政治家も住民の要望をきめ細かく的確に捉えなくてはならなくなり、それを受けた議会活動も迅速になり、住民の要望を容れた政策として決められるようになる。そうなれば、議会が決めたそれを受けて、行政府もそれを速やかに執行しなくてはならなくなる。

 つまり、議会と行政府の相互のあり方は、これまでのように役人主導による行政主導ではなく、住民主導の代議政治が本来の形で行われ、本来の民主主義議会政治が実現されてゆくのである。そしてその過程で、住民一人ひとりは本物の「市民」となり、さらには「新しい市民」もどんどん育って行くようにもなるだろう。

 小規模でなくてはならない2つ目の理由は、小規模化すればとにかく何事も小回りも利く、ということである。

 共同体の人々の暮らしに共通して関係のある何かが起これば、すぐにも、みんなで共同して対応しうるようになる。みんなで話し合って、みんなで方針を決め、決めた方針に従ってみんなで行動して行くのである。

 これを納税と徴税との関係で見た場合、これまでは、毎年、その年の事業の計画も内容も定まらないうちから、機械的に行政府の徴税部署によって徴税されていたが、小規模化すれば、必ずしも単年度毎の納税や徴税ということに拘る必要はなくなり、みんなで今年どんな事業をするか決めた上で、徴収すべき総額を決められるようになるだろうし、納税する側も、自分の金が何に使われるかが事前にはっきりするから、納得して納めやすくもなるのである。

 税金の使い方も、これまでのように、単年度の予算を余らせないようにしようとして、行政府が不要不急の事業をあえて興しては使ってしまうという、各部署の既得権を維持するためだけの無意味で無駄な使い方はもうしないで済むようになる。むしろそのような余ったカネは速やかに住民に返還もできるし、あるいはみんなの了解の上で、これまでの借金の返済に充てたり、あるいはまさかの時のために蓄えることもできるようになるのである。

 つまり、都市や集落が小規模になれば、お金の面でも融通の利いた小回りができるようになるのである。

 またそうであれば、全住民が必要とする食糧(米、小麦、大豆、そば、その他必要な野菜すべて)もエネルギーも自分たちの力で確保しやすくなる(第11章の経済を参照)。

それらの年間の必要総量を人口構成から割り出して、それらを、各役割を決めて、住民も援助するという形態をとって、計画的に生産するということも可能となるのである。

 そうなれば、今日、世界を支配しているグローバリゼーションや、世界の食糧事情やエネルギー事情に振り回されずに済むようになる。

 とくに食糧については、余ったなら、それを近隣の共同体あるいは飢餓に苦しむ世界の人々に送るということも、全住民の合意さえ取り付けられれば、いつでも可能となる。

それ自体、立派な国際貢献となるであろう。そしてそれはそのまま、自分たちの地域の安全保障にもなるのである。そしてそれは、それだけ自分たちの地域としての意見や考えを、臆することなく、中央の政府に主張できるようになるということでもある。

 小規模でなくてはならない3つ目の理由は、その規模を小規模化すればするほど、そこでの建造物はもちろん、いわゆるライフラインといった社会資本もすべても小規模化でき、それだけ地中に設けられる基礎構造の規模も小規模化できて作動物質の循環を妨げる度合いは格段に減ると同時に、廃熱や廃物の量も、格段に減らせるようになるからである。それは同時に、そこに住む人々にとっては、都市や集落の空間は、これまでの超々高層ビルや超高層ビルが林立する巨大都市がそうであったような、そこに住む人々に威圧感やストレスをもたらす空間ではなくなる。建築物は、特別なものを除くすべてを地元産の木材からなる木造とすることができるようになるだろうし、その高さは樹木の高さを超えることはないようにすることもできる。都市を構成するシステムも、その他のあらゆる社会システムも、すべて等身大のシステムとすることができる。そうなると、たとえそのどこかで故障を生じても、オートメーションシステムによって作られた製品がそうであったような全取っ替えすることなく、その場で技術者の手で修復できるようになる。それは、それだけ資源の無駄遣いを抑えられることだ。そして建築物の周囲には、緑地帯が広がり、そこには、小動物や昆虫類や鳥類その他の多様な生き物たちも共生し、それはそれで住む人々に安らぎと癒しをもたらしてくれるのである。

 また、小規模となれば、その共同体社会では、「資格」とか「看板」といったものも不要となる。そのようなものはなくとも、住民は、互いに、誰が何をしているか、誰が何が得意か、何は誰に頼めば安心して実現できるかを自ずと知るようになるからだ。それだけに、その集落や都市では信用・誠実というものがいっそう大切になる。またそうなれば、これまでのような、全体の調和や美観を損ね、ただ目立てばいい式の看板や旗などはまったく不要になる。設けるとしても、控えめではあるが気の利いた、見る者や歩く者の心を安らげ、そこの店主の人間味を感じさせてくれるような「看板」がふさわしいものとなる。そしてそれは、街を歩く人々の心をどんなに和ませてくれるかしれないのである。

 小規模でなくてはならない4つ目の理由は、小規模であればあるほど、生産者と消費者との距離、売り手と買い手との間の距離が縮まり、それだけ両者間での移動と運搬の距離も縮まり、エネルギー消費量も減るのである。それは、これまで当たり前のように言われてきた“田舎では、車がなくては生活できない、車は必需品なのだ”を、昔の観念とさせることを意味する。つまり、特別な場合を除いては、その共同体内では、マイカーは必要ではなくなるのである。

そこでの人々の往来は基本的には徒歩あるいは自転車によるものとなり、あるいは公共交通乗り物か馬車によるものとなる。したがってそれまでの自動車のための道路は解体され、元の生態系に戻され、分断された自然がそれだけ回復して行くのである。

 車が不要になることの効果はそれだけにとどまらない。これまでの都市や集落は、当然のごとくに車中心の社会構造とするために、結果として、特に都市は無計画で、かつ無秩序に拡大して行った。それがどれだけ都市の静けさを失わせると同時に空気を汚し、交通事故死者数を増やし、人々にストレスをもたらしてきたことか。どれだけの回数、コンクリートまたはアスファルトの路面をはがしてはそれを時には不法投棄をするということをも繰り返して遠方に運び、代わりに遠くの自然を壊してはそこの土を運び込むということを繰り返しては化石資源の浪費と大気の汚染を進め、それをもってGDPやGNPという数値を増やしては「経済発展を遂げてきた」としてきたことか。そしてその結果、どれだけ他生物の生息域は分断され、田畑や自然が失われてきたことか。

 小規模化された集落や都市では、車中心の街ではなく、人間中心の街、弱者中心の街、歩く人間中心の街となるのである。もちろん、そこでは、「交通安全週間」など過去のものとなる。「交通事故死」についてもである。

 なお、一つの集落ないしは都市と、他の集落ないしは都市との間の行き来の手段については、後述する(第13章)。

 小規模でなくてはならない5つ目の理由。

 実はこの理由こそが、今日、全地球的デジタル監視社会に生きている私たちにとっては、今後は、最も重要な意味を持ってくるものかもしれない。というのは、とくにアメリカ政府内のNSA国家安全保障局)を中心とした高速デジタル通信システムは、一人ひとりは知らないうちに、そのプライバシーを丸裸にしてしまっているという現実があるからだ。

 そもそもそれぞれの都市が拡大するとともに、それらが互いに密接につながり合えば合うほど、統治する政府の側としては、治安の維持、安全の維持のためには、高速で広域のデジタル監視がどうしても必要となってくる。

しかし、いつも互いに顔と顔を合わせ、行きちがい、また交流する集落や小規模化された都市では、そんな高速デジタル通信システムそのものが不要となる。従来のアナログ通信システムで十分に対応できるからだ。

というより、そこでは、もはや政府による「統治」という概念そのものもそれほど意味をなさなくなる。したがってまた「監視」するという必要性もなくなる。むしろ小規模になればなるほど、そこの人々は、互いに支え合い、協力し合い、絆の深い共同体が形成されて行くようになると期待できるのである。なぜなら、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」のだからだ(E・F・シューマッハー「スモールイズ ビューティフル」講談社学術文庫p.97)。そしてそこでは、人々は、自分にも他者にも、そして自然に対しても誠実で思いやりのある生き方を自然とするようになるとも期待できるのである。そうなれば、そこに住む人々にとっては「孤独死」「自殺」「終活」などはまったく無関係なものとなるだろう。

 

 では小規模といった場合、人口面で、あるいは地理的面積の面で、具体的にはどれくらいを想定したらいいのであろうか。

その点について、私見を言えば、人口面から見ると、集落であったなら、せいぜい500人、都市であったなら、せいぜい1万から2万人程度が限界であろうと思う。

また面積的規模について言うと、集落だったら、健康な大人が1〜2時間で集落の端まで歩いて行って、また戻ってこられる距離に相当する面積、都市であったなら、同じく大人が、昼間、すなわち明るい間に、歩いて端まで行って、また戻ってこられる距離に相当する面積が適切なのではないか、と私は考える。

 面積についてそう考える根拠は、1つは、前提として、自動車がなくても生活できる面積的規模であること。1つは、集落あるいは都市に、人々の暮らしを妨げる、あるいは危機をもたらす重大な出来事が生じ、しかも、一切の通信手段が使えなくなったりしたとき、同じくあるいは、誰であれ、その人にとって、同じく重大な出来事が発生して、しかも誰かに連絡したり、あるいは助けを求めたりしなくてはならなくなったというとき、どんなに時間がかかっても、1日でそれが可能となること。

 では、ちなみに、大人一人が、それも健康な人が、1時間で集落の端まで歩いて行って、また帰ってこられる距離とはどのくらいだろうか。

それは、大人が普通に歩く速さを時速4kmとすると、集落の形状を仮に円とすれば、直径が2kmの円の大きさになる。

 また、大人一人が、日中のうちに、歩いて都市の端まで行って、また戻ってこられる距離とはどのくらいになるか。

 その場合、冬場を想定して、日中を10時間とすると、都市の形状を同じく仮に円とすれば、直径が20kmの円の大きさになる。

 ただし、小規模化するとは、ただ面積を小さくし人口を少なくするというだけではなく、集落内あるいは都市内のあらゆるモノやシステムの規模をも小規模化し、人間の体の大きさの規模や人間の本来持っている機能の規模と同程度の大きさにする、ということをも意味するのである。

 なお、以上の論理からすると、先に総務省の音頭取りで行われた「平成の大合併」は、これまで述べてきた論理にまったく逆行する事業だったということだ。

 実際、この大合併で、平成7年には3,234あった市町村が、平成25年現在は1,719の市町村へと激減した。それは、平均すれば、統合を選択することによって、1市町村当たり、人口規模はいきなりおよそ2.0倍に膨れ上がったことになる。当然そうなれば、「行政サービス」は向上するはずはない。住民は住民で、合併しても、自分たちの住む地域は自分たちが自分たちの責任において作ってゆき、管理し維持して行くという発想は一向に持とうとはせずに、相変わらず行政に依存したままだ。

 というより、もともとこの合併劇は、地方政府(市町村役場)への統治力拡大と権益の拡大を目論む総務省の官僚の思惑と、無計画なまでに無用な「箱ものづくり行政」等々を行っては巨額の借金を抱えながら自分も何かと「いい思い」をしてきた無責任な市町村の首長の思惑とが合致した結果成り立った事業でしかなかった。市町村の首長の思惑とは、合併すれば、国庫から巨額の「合併特例債」がもらえて、それまでの負債を帳消しにでき、それまでの行政責任をもうやむやにできるのではないか、という思惑だ。一方の総務省の官僚の思惑とは、総務大臣が無能で、自分たちの指示する通りに動いてくれることをいいことにして、国民の金を使って市町村を合併させては総務省既得権益を拡大し、総務省を退職してゆく先輩官僚たちの「天下り」先を拡充するための事業でしかなかったのだ。そしてその時に官僚たちが行使したのが、憲法上からも政治理論上からも彼らには決して負託などされていない権力であり、出まかせの「集積の効果による行政サービスの向上」云々という前宣伝だった。

 

 つぎに、都市や集落が「分散」していることが必要と私が考える理由についてである。

それには大きくは2つあると私は考える。

 1つは、危険を分散させるためである。

一つの都市や集落に人が多く集住すればするほど、まさかの時、犠牲者が多く出てしまう可能性が高いからである。

それを日本に限って見れば、今後、想定される「まさかの時」とは、特に大都市では、一つは何と言っても大地震であり、またそれに因って引き起こされる津波の来襲であり、あるいは高潮である。また内陸部の都市でのその「まさかの時」とは、それらの都市には、どこも、比較的大河が貫通して流れているために、上流域でのゲリラ豪雨や線状降水帯がもたらす豪雨によって引き起こされる大洪水である。

また大都市や都市あるいは集落のすべてに共通して言える「まさかの時」とは、特に感染力の強い、そして人類が未だ免疫を持っていない未知の細菌・ウイルス・真菌・寄生虫・原虫などによる感染症(伝染病)の爆発的拡散(パンデミック)だ。

 ここで少し感染症について考えてみる。

 感染症の拡大をもたらすものとして、いま、とくに怖れられている1つが、「コウモリ」によってウイルスが運ばれるとされる、2014年に出現したエボラ出血熱である。また数匹のサルやチンパンジーを介してアフリカから世界中に拡散したエイズである。また中国から発生し、コウモリなどの野生動物からヒトに感染し、空気感染によって急速に広がったSARS(サーズ)である。

 このように、21世紀の感染症のほとんどは感染源が動物となっているのである。

それも、直接感染する場合の他、蚊などによって感染する場合もある。

その典型がいわゆる「小頭症」という感染症をもたらすジカウイルスである。

このウイルスは、アフリカに出現し、長い間アフリカから外に出なかった。しかし21世紀に入って、南太平洋の島々で、ジカウイルスに因る感染症、ジカ熱が大流行したのである。そのジカウイルスは、2013年頃、ブラジルに上陸したと考えられている。

 さらに、怖れられている感染症にはインフルエンザウイルスによるインフルエンザがある。

そのウイルスについては、ヒトはどのような状態のときに、どのようにしてインフルエンザで死亡するのか、それは未だ解明できていない難問中の難問となっている。

毎年、世界中で流行するインフルエンザについては、私たちは未だ多くのことを知らない。入院する患者は、毎年およそ500万人。命を落とすのは、そのうち、毎年20万人に上る。季節性のインフルエンザも毎年起きている。

 しかし専門家が怖れているのは、ヒトがこれまでかかったことのない新型のインフルエンザである。それも空気感染するウイルスによるものだ。免疫をもつヒトがほとんどいないからだ。そしてウイルスに感染したヒトの多くは、症状に気付くまで時間がかかる。ウイルスを体内で培養しながら、病気だという自覚もないまま世界中を飛び回ることができているのである。

 2009年には、豚インフルエンザが出現した。このウイルスはアメリカの養豚業者に最初に現れ、農産物などの展示会で人に感染した。一年あまりの間に、およそ13億人が豚インフルエンザにかかった。人数の点では、人類最大の共通体験だった。感染のしやすさと死者の多さにおいて、インフルエンザは世界で最も恐ろしい感染症の1つなのだ。

 鳥インフレンザも出現している。致死性の高いこのインフルエンザは、今のところ、ヒトに感染した例はごく少数だが、野鳥や食用の鳥の間では急速に広がっている。

専門家は、これが新たな感染症の脅威になるのを怖れているのである。

 世界中の易学者のうちの大多数は言う(2006年)。“今後2、30年の間に、莫大な数の病人と死者をもたらすパンデミック(全世界的流行病)が起きるだろう”と。

 インフルエンザについてみると、1968年と同じ規模のインフルエンザが再び流行すれば、その時は、死者の数はおよそ200万人になると予想されている。1918年に流行ったときと同じ規模になれば、世界での死者の数は2億人、その数は、ドイツとイギリスとスペインの総人口に匹敵する数に及ぶだろうと(以上、NHK BS世界のドキュメンタリー 2018年2月6日「見えざる病原体」)———参考までに言えば、1939年から1945年にかけて行われた第二次世界大戦での全死者数は、およそ7500万人とされている———。

 そして今、インフルエンザをもたらすのではない別のウイルス、ご存知「新型コロナウイルス」と呼ばれるウイルスが、世界中で猛威を振るい、パンデミックを起こしている。

最初の感染者が報道された2020年1月から3年後の今日、世界ではそのウイルスによる感染者総数は6億7022万人余、死者総数が682万人余に上っている(2023年1月30日現在。NHKの調査による)。

 なお、ここでもう一つ付け加えておかねばならないことがある。それは、今後特に人類が警戒しなくてはならないのは炭疽菌によるパンデミックであろうということだ。これは、地球温暖化が加速度的に進んでいる今、シベリアなどの「永久凍土」が融解し始めているが、その凍土の中に何万年も埋もれていた極めて毒性の強い菌である。

 とにかくパンデミックを防ぐには、感染の拡大をコントロールする必要がある。

そのためには、その感染の拡大を制御する上で最も効果的なのは、一人ひとりが免疫を持つことも大事だが、その前に共同体としての都市や集落のそれぞれを分散させることではないだろうか。と同時に、「小規模」化もある一定数以上には感染を拡大させないという意味で、きわめて有効な感染拡大防止方法になる、と私は考えるのである。

 都市や集落が「分散」していることが必要と私は考えるもう1つの理由。

それは、互いにある一定の距離を隔てて都市や集落が存立し合うことによって、自分たちの共同体の範囲がどこからどこまでを言うのかが住む人々誰にとっても明瞭に識別できるようになり、そのことによって、住む人々一人ひとりのアイデンティティが明確になると同時に、そこに住む人々のその共同体への愛着と責任意識も深まるであろう、というものである。

 今日の日本中の都市は、どこも、まるでアメーバが成長するように無秩序に拡大してしまいながら、そのうえ、互いの行政範囲は間隔を置かずに隣接し合っている。

そのため住人は、見た目にはどこからどこまでが自分たちの街あるいは都市なのかほとんど判らず、地図の上でしか行政上の境界が判らないような状態になっている。

これでは、「これは私たちの街」という郷土愛やアイデンティティなど育ちようはない。そうなれば何かにつけ、そこの住民同士がまとまって何かを始めようとか、「まさかの時」に、速やかに結束して事に当たろうという、同じ共同体の一員としての意識は育ちにくいし、自分たちの地域は自分たちの手で守り、管理してゆくという、いわゆる「自治」の意識も育ちにくい。

 

 以上の理由から、もはや、都市や集落づくりにおいて目指す方向とは、あくまでもそこに住む住民の一人ひとりがそこを自分たちの共同体であると自覚でき、それだけに愛着と責任を持ってそこの運営に関われると思えるような、そして、自分たちの運命は自分たちで決めるのだと思えるような規模の都市と集落の建設であろう、と私は考えるのである。

それだけにその方向は、これまで、この国の中央政府の官僚たちが明治期以来築いてきた中央集権という中央の官僚にとってのみ都合のいい発想に基づく都市や集落づくりでないことは言うまでもないのである。

 

(2)経済的に自立した都市と集落、あるいはその連合体であることが不可欠な理由

 とにかく、既述してきたように、これからの経済のあり方は、もし現役世代だけではなく将来世代にかけて、人類が生き残りたいのならば、もはやあらゆる意味で、資本主義ではないだけではなく、市場経済でもなく、またグローバル化の方向でもないことは明らかだ。なぜなら、今日、人類に「その存続危うし」として突きつけている地球温暖化生物多様性の劣化という難問は、突き詰めれば、少しでも多くの利益を上げることを全てに優先させることを宿命とする資本主義市場経済システムがもたらしたものだからだ。

ではその資本主義に取って代わるべき、本質的に資本主義とは異なる経済の仕組みとはどのようなものか。

それについては、後の第11章にて具体的に詳述するとして、ここでは、ともかく、これからの環境時代の都市と集落、あるいはその連合体は、経済的にも自立していなくてはならない理由について考える。

 その場合まず考えるべきことは、経済は、そこに住む人々が生きてゆく上で、他のあらゆる社会制度と比べても、最も深い関わりを持つ、不可欠な仕組みであることだ。

実際、従来の経済とは次のように定義されてきた。

「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれらを通じて形成される人と人との社会関係の総体のこと」(広辞苑

 したがってその経済は、そこの共同体やその周囲の共同体にどのような事情や変化が生じようとも、そこの共同体での「人と人との社会関係の総体」は維持されているようでなくてはならない。

 このことから、その共同体としての都市や集落、あるいはその連合体は、他に依存することなく、経済的に自立していなくてはならない、あるいは自立を維持できていなくてはならない、となる。

 では、自立あるいは自立を維持するとは、どのようにして可能なのか。

それは、逆説的に言えば、少なくとも、資本主義経済とはその本質において逆の方向を目指す経済、となる。

ではその資本主義経済の本質とは何か。ここでは簡単にその特性だけを箇条書き的に述べるが、詳細は、やはり第11章をご覧いただきたい。

・ありとあらゆるものを、「商品」、つまり「値段」をつけては「売れるもの」としてしまおうとするシステム。

・人が人間として生きる上で不可欠なもの(例えば、大気、河川を流れる水、自然、多様な他生物、個人の能力、労働力、一人ひとりの肉体や精神、日々の平安で豊かな暮らし)よりも、「売れてお金になるもの」の方が「価値」があるとしてしまうシステム。

・そしてそのことに貢献できる人間こそが「存在価値」があり、「高く評価されるべき人間」と見なしてしまう社会をもたらしてしまうシステム。

・本来比較のできないもの(例えば、物の質、人間の能力や個性)まで比較できるようにし、そして「貨幣」を介して交換できるようにしてしまうシステム。

・本来みんなの共有財産だった「富」(例えば土地、自然、人間個々人が持っている能力や労働力)までが一部の人間(資本家)に独占されてしまい、貨幣を介して、交換可能な「商品」にされてしまうシステム。

・その「商品」に値段をつけてくれるところこそが「市場」である、とするシステム。

・そしてその市場では絶えず「競争」が行われるシステム。

・だから、「お金」あるいは「貨幣」というものが絶対に必要となるシステム。

・その商品を「売る」あるいは「売り切る」までは非常な関心を持つが、売ってしまえば「お終い」として、その後のことは、何がどうなろうと、一切関心を持たない、また持たせないシステム。つまり「始まり」と「終わり」を持ち、その範囲の外では一切責任を持たない、一方通行のシステム。

・際限なく「生産力」をあげ続け、「利益」を上げ続けなくては存続できないシステム。

・必然的に恐慌とバブルを繰り返し、大量の失業者を生み、しかも、必然的に経済的格差をも拡大させて、失業者と就業者とを分断してしまうシステム。

・それだけではなく、精神的労働と肉体的労働との関係も分断してしまうシステム。

・個々の人間を次のような状態に陥らせてしまうシステム。人間の一面化あるいは断片化。人間の孤立化。人間の心の空洞化あるいは空疎化(真下真一「著作集第1巻」青木書店p.118〜133)。

・そこでの活動には道徳や倫理は不要、としてしまうシステム。

・したがってその社会には必然的に犯罪を増やし、自殺者を増やしてしまうシステム。

・結局、価値を増大させることを全てに優先して、その価値を果てし無く増大させることを至上の目的とするこのシステムは、必然的に自然を侵し、人間を冒してしまうシステム。

 こうした諸特性を総合すれば明らかなように、その経済システムは、自然界から見ても、人間社会から見ても、また人間個々人から見ても、いつか必ず、つまり時期は特定はできないとしても、必然的に行き詰まり、破綻せざるを得ないシステムであって、決して持続可能なものではないということである。

 しかし、この結論はもっと単純に考えても、論理的に容易に導ける。

それは、今は論理を単純化し、問題の本質を掴みやすくするために、社会での生産力と、それを支える資源やエネルギーという観点にのみ絞って考えてみるだけで十分なのである。

 人間が何がしかの「商品」を生産するには、必ずそのための資源とエネルギーが要る。その資源やエネルギーをもたらしてくれるのは地球であり、地球の自然なのである。それも地球が何万年、いや何億年というヒトの生命の期間のスケールをはるかに超えた年月の中で作り出し、また蓄えられてきたものである。つまり人間の目からは、ほとんどその量は増えないと同じなのである。

 ところが、人間が社会でイノベーションによってであろうがどのような方法によってであろうが、生産力を上げれば上げるほど、消費する資源とエネルギーの量は増大する。そして生産活動をする際には、これも必然的にではあるが、同時にCO2、つまり温室効果ガスを発生する(3.1節)が、その生産活動を活発化させて生産力を高めれば高めるほど、資源とエネルギーの消費速度も量も増大する。そしてそれと並行してCO2の発生量も増大する。

 つまり、地球の資源とエネルギーはいつか必ず枯渇する。あるいは資源やエネルギーの枯渇という事態よりも早く、これまで大量に大気中に放散してきたCO2の蓄積によって、地球の温暖化は止めどなく進んでしまい、世界の人々の暮らしと産業に、もはや継続不可能という状況を生んでしまう。

 このように、事柄を単純化しながらも最も肝心要のところに注目して、その成り行きを理性的に想像して見るだけでも、これまでの資本主義市場経済システムは、早晩、必ず行き詰まり、破綻するのは明らかなのだ。

 したがって、本節にて念頭に置く経済とは、既述の経済の定義を踏まえながらも、上記のような、あらゆる面でいずれ必ず破綻せざるを得ない特性を持つ資本主義の経済をも克服した経済である。

 ではこれからの経済は、都市や集落、あるいはそれらの連合体においてなぜ自立していなくてはならないか。

 それは、特に今後、日本にも世界にも、前例のない事態や現象がますます起こりうると想定されるのであるが、そしてそのような事態や現象がたとえ生じても、都市や集落、あるいはそれらの連合体は極力耐性を持っていなくてはならないと私は考えるからである。その耐性を持たせる上で、何はともあれ、真っ先に重要となるのが、人が人間として生きて行けるための社会システムとしての経済なのだ。

 例えば、“今後、世界の経済がどうなるかは、ひとえに中国経済がどうなるかによる”、といった事態に振り回されずに済む経済である。あるいは、これまで食糧を輸入してきた国々(例えば、ロシア、カナダ、オーストラリア、ウクライナ)の内部が干ばつや自然災害等が理由で食料の輸出禁止に踏み切っても、それにうろたえなくても済む経済である。

 また逆に、この国の都市や集落、あるいはそれらの連合体が経済的に自立できていれば、もしも外国で、食料援助を求める国があった場合、そうした被災地域の被害者に速やかに救援の手を差し伸べられる国にもなれるからである。

 

(3)都市と集落あるいはその連合体が政治的に自決できていることが不可欠な理由

 現在のこの日本という未完の国家において、自治体と一応は呼ばれてもいる地方公共団体のうち基礎的自治体とされる市町村とは、そもそも何のためにあるのだろうか、そしてその意味とはどういうものなのか。

それは、日本国憲法第13条で、【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】として「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を要する」に基礎に置いて定められた地方自治法第1条の2の条文「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする」としてあるものだ、とされる(池上洋通「市町村合併の考え方と住民参加で作るこれからの自治体」自治体問題研究所)———しかし私には、地方自治法第1条の2の条文には、憲法第13条が謳う、特に「全て国民は『個人として尊重』される」という視点が欠落しているように思われるのである———。

 具体的には次のものが市町村の政治と行政の基本目的となる、とされている。

①住民の生命と健康、生活の保障

②住民の生涯にわたる発達の保障

③住民生活の基盤となる環境の整備

④住民の働く場の保障と地域経済システムの確立

⑤自然環境と歴史的・社会的・文化的財の保全と継承

⑥住民の政治的・社会的参加システムの確立

 そして基礎自治体としての市町村の意味は、次のように理解されている。

「単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が、経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とするものと言うべきである。」(1963年最高裁判決 池上洋通氏の前掲文献より)

 

 私は先に、「都市あるいは集落という共同体の規模は、住民が責任の持てる規模でなくてはならない」と述べた。それは、共同体を構成する一人ひとりは、みな、共同体を維持・管理する上での責任者であるという意味でもある。この考え方を主体的かつ発展的に考えれば、共同体が独自に相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を有する必要があるという考え方は必然的にたどり着くものと思えるのである。

 では、現状、この国では、基礎自治体である市町村を含む地方公共団体は、こうした共同体意識に基づく立法と行政が普通になされているだろうか。

 その答えは明らかに「ノー!」である。まず国民あるいは住民の側は、地方公共団体と言った場合、多分その大多数は、それは自分たちのことではなく、市町村役場のこと、あるいは都道府県庁、つまり役所のことだ、という理解が一般的になっているように私は思う。

だからそこには、当然ながら、「自分たちの地域は、自分たちの責任において、自分たちの手で作る」という発想はない。まちづくりや地域づくりに対する関心の低さがそれを象徴している。

 一方、立法する側、即ち国民から選挙で選ばれた政治家たちは、既述したように(2.2節)、やっていることの実態は、もっぱら役所の役人に何から何まで依存しては追随しているだけだ。

つまり、議会など、実質的に飾りだ。ないと格好がつかないから、という程度のものだ。事実やっていることは行政府の者への質問だけなのだからだ。それも、住民の福祉の増進を図る目的で、現状を大きく変えるような本質的で根本的な「質問」ではなく、どちらかといえばどうでもいいような内容の質問を繰り返しているだけだ。

彼らには自主立法権や自主財政権という地方自治の基本的権能を有する必要があるという考え方など、私の見たところ、到底持ってはいない。持とうともしていない。

というより、彼らは、そもそも、自分たちは主権者の利益代表であり、したがって共同体の代表でもあるという認識も理解もない。関心があるの、見ていると、直近の選挙で、再選されることだけだ。

 では行政を行う側、すなわち役人たちはどうか。彼らは建前上は「国民全体の奉仕者」すなわち「国民のシモベ」とはされているが、実態は全く違う。彼らは、少なくともその圧倒的多数は、地方自治法第1条の2の条文にある「住民の福祉の増進を図ることを基本」になどして行政を行なっているわけではない。常に自分たちの仕事があり続けること、自分たちの既得権が失われないようにという観点のみで行政を行っているだけだ。そこでは自分たちは返す意思もない借金も平気でする。もちろん、自主行政権、自主財政権などの地方自治の基本的権能を有する必要があるという考え方なども持たないし、持とうともしない。「縦割り」の組織構成を堅持する中で、市町村役場は都道府県庁に、都道府県庁は中央省庁に追従しているだけだ。

 

 これら住民と政治家と役人の現状あるいは実態を象徴している事例の一つが、私は、いわゆる「平成の大合併」であろうと思っている。

 そこでは、住民は、主権者でありながら、主権者、すなわち「国の政治のあり方を最終的に決定しうる権利を有する者」として行動しようとはしなかった。一人ひとりが互いに、経済的文化的に密接な共同生活を営んでいるという共同体意識を持っている風にも見えなかった。もちろん自主立法権、自主行政権、自主財政権などへの関心も、事実上皆無だった。

また、住民の代表である議会の政治家も、この合併劇にはほとんど関心を寄せなかったように私は思う。というより、彼らは合併することによって自分たちの地方公共団体としての財政がどうなるのか、ということにはまるで無関心で、もっぱら役所任せという感じだった。

 そんな中、この合併劇に関心を寄せ、積極的だったのは、役所の役人であり、またそこの長だった。

 彼ら首長にすれば、期限内に合併を果たせば、総務省から「合併特例債」をもらえて、その結果、自分たちがやってきた無謀な主に「箱物づくり」という公共事業で累積してきた膨大な借金(国債や地方債)を返済し得て、これまで自らの行政の無責任をうやむやにできるという「タカリ根性」と責任逃れ根性があった。

 一方総務省の官僚たちも、地域団体に相当程度の自主立法権・自主行政権・自主財政権等を付与するつもりなど毛頭なく、つまり地方公共団体の「自治」など二の次にして、相変わらず「寄らば大樹」の価値観を植え付けたまま、中央集権体制を維持しながら、地方公共団体に対する統治権益を拡大させることができ、それはまた自分たちの先輩官僚たちの「天下り」先を拡充できて、所属組織内での評価が高まるという思惑の下にこの合併劇を推進したと思われる。

 そこでは、総務省官僚たちは、合併すれば、「経済の効率」、「規模の効果」、「集積の効果」が得られ、「行政コストの削減」ができるとけしかけた。

 しかし、結果は、今日の全国津々浦々の市町村の実態を見ればわかるように、その合併劇に踊らされた市町村はどこも「こんなはずではなかった」となり、ますます公共団体としての維持が困難となり、住民へのサービスもますます低下するどころか、「限界集落」という言葉も生まれたように、消滅寸前にまで疲弊しきっているのである。

 

 なお、これからの時代、都市と集落そしてその連合体は、政治的に自決できていることがどうしても必要であると私が考える理由はもう1つある。

それは、統治者が一方的に統治者の都合によって、国民あるいは住民の、人間としての普遍的な価値とされる「自由・平等・平和・民主主義・法の支配」を侵す、いわば法とは言えない法の成立を企むことを、最初から不可能とさせてしまうためである。

 それは、例えば、思想・信条の自由というこれも普遍的な人間の権利を侵して、国民や住民の一人ひとりの心の内にまでドカドカと入り込んでは、その心を取り締まる治安維持法共謀罪あるいはテロ等準備罪について、その成立どころか、それを発案すること自体を封じてしまうことでもある。特定秘密保護法についても同様である。

そうした法律を統治者が強行成立させようとすることは、結局のところ、彼らが、どんなに口では“自由と民主主義は人類の普遍的価値”と言おうとも、本心は、自国民を信頼していないからであって、また統治に自信がないからだ。むしろイザッというとき国民が政府に対して立ち上がり、自分たちの立場・地位を脅かしてくるのではないか、という恐怖心からなのだ。

 権力を所持する統治者が、本来、その国の最高で最良の財産である国民を信頼し、その国民の福祉をひたすら願う統治を行い、国民から信頼され誇りに思われる国づくりがなし得ていたのなら、必然的に治安は安定する。そうであったのなら、どうして憲法を無視してまで、国民の内面にまで踏み込む法の成立に固執し、その実現を強行する必要があったろう。

 

 

4.3 人間にとっての基本的諸価値とその階層性

 

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前回は「全地球的・全生命的指導原理としての三種の原理」について、私なりの見解を発信してきました。

今回は、人間にとっての基本的価値というものと、それらは階層性をなしているのではないか、ということについて、やはり私の見解を述べてみようと思います。

前回の三種の原理といい、今回の人間にとっての諸価値の階層性といい、こういうことも、「持続可能な未来」を着実に築いてゆく上では、決しておろそかにしておいてはならないことだし、曖昧なままにしておいてもならないことではないか、と私は考えるのです。

とにかく、この国では、明治期以来、こうした原理原則論については、特に本来はそれを考えなくてはならない立場の政治家という政治家は全く考えてはこなかったのですから。

もちろん彼らは、国のゆくべき方向も、あるべき姿も、つまり明確なヴィジョンも示すことさえなく、常に目先のことだけでした。

なお、この節の内容も、今年の8月3日に発信しました「持続可能な未来、こう築く」という具体的な構築シナリオを示す「目次」の中に位置付けてお読みいただけましたなら幸いです。

itetsuo.hatenablog.com

 

4.3 人間にとっての基本的諸価値とその階層性

つぎに人間にとっての基本的諸価値とその階層性ということについても述べてみようと思う。これも私なりの考え方である。

人間には人間に固有の掛け替えのないさまざまな価値がある。たとえば、自由、平等、友愛、民主主義、公正、健康、幸せ、便利、快適、あるいはお金、・・・・・、というように。

ではそれらの価値は、特定の個人にとってということではなく、人間一般にとってという観点から見た場合、たがいに同じ重みを持っているものなのだろうか? そしてそれらは互いに何の関係もなく、バラバラな価値としてあるものなのだろうか?

これがそもそも私のこの節の表題である「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」という問題の出発点となった疑問である。

そしてその疑問に対する私の答えは、そうではないのではないか、というものだ。

そう考えさせる第一の根拠は、人間は誰も、生まれも育ちも違い、したがってその過程や境遇の中で身につける価値観も皆違うはずだ、というものである。しかし、とはいえ、自由、平等、友愛、民主主義、公正、健康、幸せ、便利、快適、あるいはお金とかというものは誰にとっても価値あるものであることには変わりはないであろう、というものである。第二の根拠は、人間誰も、一人で生きているのではなく、誰もが社会および自然に属している、という事実に拠る。すなわち、社会や自然から離れては、誰一人生きてはゆけないし、暮らしてもゆけないだろう、というものである。第三の根拠は、ところが人間を生かしてくれているその社会も自然も、実はそれら自体が規模と質の違う無数の部分からできているという事実に拠る。

人間は、誰も、生まれついた時に直面する共同体は家族だ。そしてそれが最も小さい規模の共同体であろう。しかし長ずるにつれて、規模と質の違うさまざまな社会という共同体の中に生きることになる。あるいはそれぞれの中で生かされて行くことになる。

その社会とは、たとえば、規模の小さい方から言えば、近隣地域であり、小中学校であり高校であり、市町村であり、都道府県であり、国である。もっと広く活躍する人にとっては世界もある。そしてそれと並行して職場という共同体もある。

しかしそのさまざまな社会という共同体は、いずれも、自然の中にあって初めて共同体として成り立ち得ているし、存続できている。ところがその自然自体も規模と質の異なるさまざまな自然から成り立っている。身近な所としては、川、林、森、丘、高原、山、湖、海等があるだろう。

また見方を変えれば、規模と質の異なる自然については、その成り立ちをこう捉えることもできる。

現在のところ最も小さな規模と見られているのは素粒子の世界である。その次は、原子核の規模の世界である。次は原子や分子の規模の世界。次は人間を含む生命の規模の世界。次はその生命を含む生態系の規模の世界。次は地球の規模の世界。次は太陽系の規模の世界。次は銀河系の規模の世界、そして宇宙の規模の世界、・・・・というように、である。

この事実は、つまるところ、人間あるいは生命体一般も、また社会や自然も、それらの間で階層をなしているが、それら一つ一つ自身もその内部では無数の階層から成っている、ということを私たち人間に教えているのである。となれば、そうした無数の階層からなる社会や自然の中に生きる、というより生きなくてはならない人間にとっては、先に挙げた人間にとっての諸価値はもちろんその他の諸価値も、そうした階層に対応して、同様に階層をなしていると考えざるを得ないし、また見ざるを得ないのである。

つまり、個々の人間、その人間の集団である社会、そしてそれらすべてを内に含む自然界には、人間にとって、「存在の次元」とも言い換えられる規模の階層的秩序とか、「意味の段階」とか「価値の階層」とも言い換えることのできる質の階層的秩序が存在していると考えられるのであるシューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 p.123)。

したがって、反対に、規模であれ質であれ、それらのそういう階層的秩序の存在を認めないことには、私たち人間は、自分自身が今どこにいるのかという位置も、なぜここにいるのかという意義も、自分で納得できるようには認識できないのである。

そのことは例えば、自分が、ちょうど周囲には何も見えない、どこまでも平たくだだっ広い大海原にいるとした場合とか、あるいは自分が辺り一面銀世界の大雪原の中にいて、そこには家も樹木も何も見えない状況の中にいるとした場合を想定してみればわかるはずだ。

つまり、私たち人間は、そのような階層的秩序があり、それを認識できて初めて、自分の人生にはより大切にしなくてはならない価値より意味深い仕事より重点を置いて為さねばならないことがある、ということを確信を持って判断することができるようになるのである。

実際、たとえば「自由」という価値一つとってみても、その中には質の異なる無数の階層的レベルがあることが判る。

「我がまま」という言葉が象徴する、他者のことなどおかまいなく、何でも自分の好きなことを好きなようにできることが自由の意味であると捉えるレベルから、自分の欲しい物をいつでも手に入れられることが自由の意味であると捉えるレベルもあるし、自分が正しいと信じていることを誰に阻まれることなく表現できることが自由であると捉えるレベルもある。さらには、自分の欲望に縛られたくはないとすることも含めて、自らの精神が他のものに囚われたり支配されたりせずに、つねに自らの判断と納得に基づいて選び取れるようになることが自由という意味であると捉えるレベルもあるだろう。さらにはそのようにして選び取った結果において生じる全ての結果を自ら引き取る覚悟を持てることまでも含めて自由であると捉えるレベルもある。これらはいずれも同じ「自由」という言葉で表現されるものではあっても、その価値のレベルまたは質のレベルは、その人個人にとっても、また社会にとっても、決して同一ではないことは明らかであろう。

未来に向かって私たちが何か行動を起こそうとする時、そのときの方法は過去の経験から得た知識や情報によって導かれるものである。そしてそのとき私たちは、その過去にあったことをより正しく、しかもできるだけ整然と整理された形で理解していればいるほど、それを拠り所にして、より自信を持って前に向って歩み出せるものである。

反対に、人間にとって、あるいは個人にとっても、すべての知識や情報が同じ価値と重みを持つ事象のごちゃ混ぜの集合体であったりしたなら、あるいはすべてが同じ価値と重みを持つ事象であるかのように信じさせられ、また思わせられたなら————私は、日本の文部省や文科省の学校教育における児童生徒への知識の植え付け方は本質的には正にそれだった、と思う————、そのとき人は誰も、それぞれの事象に対して合理的な説明をできなくなるだけではなく、事象全体の流れの方向も見出せず、先の未来をより正しく見通すことはできなくなってしまう。それでは不安をもたらすことにしかならないのだ。

こうしたことから、たとえば、歴史を時間の流れに沿って正確に知って理解することがどれほど大切か、その意義も明確になるのである。

私たち人類は今後、好むと好まざるとに拘らず環境時代という前人未到の困難な時代を生きて行かねばならなくなると私は思うのであるが、その時、一人ひとりが少しでも確信を持って前に進んで行くことができるようになるためには、既述のように、個々の人間、その個々の人間の集団である社会、そしてそれらすべてを含む自然界との間には規模の階層的秩序とか質の階層的秩序があることを認め、かつ、人間一般にとっての諸価値の間にも質的階層があることをも認め、それらを規準あるいは公準とすることがどうしても必要なのではないか、と私は考えるのである。

それを、私なりに表わせば、次の図のようになる。

 

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この階層図の見方はこうである。そしてその図は、私たち人間に次のことを教えてくれるのではないか、と思うのである。

もっとも下層の位置には、ヒトあるいは人類を含む地球上のすべての生命が存続できるための、しかし人間の力ではどうにもならない、いわば「絶対」条件としての原理が占める。

それは、既述のエントロピー発生の原理》であり、《生命の原理》そのものである。

そしてその原理が実現されている限りにおいて、それから上に位置する人間にとっての諸価値は実現しうるし、また意味を持ちうる、とするのである。すなわち、その絶対条件が成立している限り、人間が生きて行く上での基礎的な価値も、人間の意思いかんにより持続的に成り立たせ得るし、また意味をも持ち得るのである。

そして人間にとってのそうした基礎的な価値あるいは条件が持続的に成り立ち得て初めて、人間集団としての社会も社会として存続し得、そこでの価値も意味を持つようになる、とするである。すなわち、人間にとっての社会的価値も成り立ち、またそれが持続し得るようになるのである。

逆に言えば、「絶対」条件としてのこの原理が成り立っていなかったなら、その上に来る基礎的価値も社会的価値も実現し得ることはない。たとえいっとき実現し得たとは思っても、たちまちにしてそれは崩れ去り、砂上の楼閣に終わるのである。

こうして、上記階層図は、各階層とその各階層に属する諸価値が土台から順次、着実に実現されて行って、初めて、社会や自然に属する人間は、それぞれ、ただ生きている、あるいはただ生かされているというのではなく、自分自身の存在の意義・役割・自分の為すべきより意味深い仕事とは何かというものがはっきりと見えてくるようになるし、さらには、人間として目指すべき至高の価値とは何かということも、ぼんやりとではなく、はっきりと理解できるようになる、ということを表しているのである。

 

しかしここで、これらのことをもっと深く考えてみると、私たちはこの図から、さらに重大な真理気付かされるのである。

それは、人間が人間にとっての至高の価値と考えられる「しみじみとした幸せ感」を手に入れられるようになるのには、贅沢品はもちろん、「あれば便利」「あれば快適」という類いの物品の類いも全く不要だった、という事実である。それは、この階層図の中には贅沢品も「あれば便利」「あれば快適」という類いの物品の類いも、何1つ登場して来ないことから判る。と言うよりもむしろ、この階層図に載ってくるようなモノ・条件・しくみは、そのほとんどが「お金」では買えないものであるということだ。実際、この階層図には「お金」すらも、直接的にはどこにも現れては来ない。

このことから私たちは次の、真理あるいは箴言と言ってもいいであろう重要な結論を導き出すことができるのである。

それは、人間は、社会の中に「人間」として生きて行く上では、必ずしも「お金」は必要ではない、ということである。

と言うよりも、お金や贅沢品や「あれば便利」「あれば快適」という類いの物品の類いは、またそれらへの欲求・欲望・拘りこそが、個々人をして、時には、人間にとって本当に大切な、意味のある価値を見失わせて来てしまったのだし、社会に無用な、あるいは不幸な事件を頻発させて来てしまったのだ。

この真理を噛みしめることの意義は、いま、日本国内を見渡しても、また世界を見渡しても、とくにアメリカ並の生活レベルの実現を目指して経済発展を遂げようとしている途上国や新興国を見ても、どんなに強調してもし過ぎるということはない。そしてそのことは、「資本主義経済」とその「システム」はこれからも人間にとって本当に必要なものなのか、という問いの答えを示唆してもいるのである。

実際、地球温暖化も、生物多様性の消滅の危機も、核戦争の危機も、その最も根本のところでは、世界の圧倒的に多くの人々が、いつの間にかこの「お金に頼らなくとも、あるいはお金(貨幣・紙幣)など社会に流通させなくとも、この階層図にあるような条件・状態が自然や社会において不断に実現されてさえおれば、それで人間としては十分に生きて行けるし、むしろ生きて行く上での至高の価値をも見出せ、感じ取れる」という真理を、あるいは箴言を忘れてしまっているところから生じていることなのではないか、と私は思うのである。

 

これまでは「お金がなくては生きては行けない」、「お金さえあれば何とかなる」という強迫観念をいつも抱かされてきた私たち近代の人間であるが、それゆえにほとんど反射的に、資本主義も、市場経済も、グローバル経済も、新自由主義も必要と人々には信じられ受け入れられては来たのだが、よくよく考えてみれば、それは虚構あるいは作られた話に過ぎなかったということが判るのである。そして実際、その虚構に踊らされて来たがために、世界では、これまで、一体どれほどの数の人間が、また社会あるいは国が、そして自然が傷めつけられ、壊されてきたことか。

それゆえに、この真理———人は、人間として生きて行く上では、「お金」は必ずしも必要ではない———を明晰に認識することこそ、私は、現在の全人類をして、「近代」との決別を果たし、「環境時代」という真に持続可能な時代へと歩み入って行く勇気と決意をもたらしてくれる原動力になるのではないか、と思うのである。

そしてこの認識は、政治においてはもちろん、後述する経済システムのあり方や税金の使途とその優先順位を決める上でも、決定的に有益な示唆を与えてくれるのではないか、とも考えるのである。

それは、この階層図が示すように、政治諸課題に「優先順位」をつけ、それらを、その底部から上層に向って一つひとつを着実に実現させて行くことが、遠回りのようでいて、あるいはまどろっこしく感じられるようでいて、結局は様々な難題を次々と解決させてゆく上で、最も確実で、最短コースとなるだろうからだ。

しかし残念ながら、現実のこの日本では、最高の立法権を持つ議会という議会の政治家という政治家も、執行権を持つ政府という政府の政治家という政治家も、そうした優先順位など少しも考えないで、茶番の議会ごっこをしたり、場当たり的な行政を続けているだけなのだ。

それでは、この国全体は、早晩、世界に先駆けて、“万事、休す”という事態を招き寄せることになるのは明白なのに、という危機感すらないのだ。否、「自己の保身」だけが彼らの唯一至高の価値なのかもしれない。



4.2 全地球的・全生命的指導原理としての三種の原理

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これまでは、当初、紙による本にしようかと考えていた書名「持続可能な未来、こう築く」についての「目次」(2020年8月3日に公開済み、以下にリンク掲載)の中の第1章の全ての節と、第2章の1節、2節、3節そして6節、第3章の全ての節、第5章の全ての節を公開してきましたが、今回公開するのは、第4章の2節です。

itetsuo.hatenablog.com

 

それを、「目次」で表現される本書の全体構成の中に位置付けてお読みいただければ幸いです。

なお、公開済みの章の中には未だ公開していない節のある章もありますが、その節については、今後、世の中の状況を見て、できるだけタイムリーに発信してゆこうと思っています。

 

ここで述べる三種の指導原理は、本書の中で最も重要な位置を占め、それだけに全編を貫いて、本書に現れるすべての考え方や判断の仕方の規準となっているものである。

そもそも原理とは、前節でも定義して来たように、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のことである。本書では、それを、「社会」あるいは「自然」の中を貫いてそれらを成り立たせている、人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟である、としている。

したがってそれは、人間の側の気分や都合あるいは利害関係とは一切無関係なものであり、したがってそのようなものによって影響を受けることは一切なく、不変不動のものであるとする。であるからそれは、たとえば、既存の社会制度の中で何がしかの既得権を得ている人にとっては不都合なものと感じらようとも、また反対に、大多数の人々にとってはむしろ好ましいものと思われようとも、そういうこととも無関係な規準なのである。

なお、規準とは規範であり標準とするものとの意味であり、比較して考えるための拠り所としての基準とは異なる。

そういう意味で、ここで言う原理は、人間がものごとを考えたり判断したりする際には、いつでも、どこでも、公平で公正な規準となり、それ自身が拠り所となり得るものなのである。

そしてここで言う三種類の原理とは、その一つひとつが、そういう位置づけを持ったもの、と私は考えるのである。

ではその三種の指導原理とはどのようなものを言うのか。

そのうちの一つは、私が「生命の原理」と呼ぶものである。

それは結論から言うと、生物一般について成り立ち、その生物生命の多様性と共生と循環の三つの要素からなる原理のこと。

その三つの要素のうちの1つが「生物の多様性」であるが、それは、前節の定義にも記したように、人でも他生物でも、命あるものはどんなものでもすべて、互いに生き方は異なってはいるが、そのどれも自然界にあって存在価値がある、と言うよりも、多様であることで初めて互いの生物は安定して存続できる、とする考え方を言う。

それが意味していることを人間だけの社会に狭めて当てはめてみれば、次のようになる。

互いに生き方が異なっていて当たり前である、と言うより、互いに生き方が異なっていてこそ各々の人間としての生命はその存在意義をより明瞭に確保でき、かつその人々の社会は安定して維持できる、とすることである。

すなわち、「生物の多様性」とは、人間社会に限ってみれば「自由」という概念に相当し、したがって「生物の多様性」を尊重するとは、人間社会では、どんな人でも、互いの自由を尊重するということである。逆の言い方をすれば、人間にとっての自由とは、生物一般の生存する自然界における「生物の多様性」の特殊ケースに過ぎないということである。

また、その三つの要素のうちのもう1つが「生物の共生」であるが、それは、人でも他生物でも、命あるものはどんなものでもすべて、互いにその存在をもって自然界におけるそれぞれの役割を担いながら生きてこそ、互いの生物は安定して存続できる、とする考え方を言う。

これも、それが意味していることを人間だけの社会に狭めて当てはめてみれば、次のようになる。

個々の人間は互いに分け隔てなく支え合ってこそ存続でき、かつその人々の社会は安定して維持できる、とすることである。

すなわち、「生物の共生」とは、人間社会に限ってみれば「平等」という概念に相当することが判るのである。逆の言い方をすれば、人間にとっての平等とは、生命一般の生きる自然界における「生物の共生」の特殊ケースに過ぎないということである。

三つの要素のうちの3番目が「生物の循環」であるが、それは、一見、相矛盾しているかに見える「生物の多様性」と「生物の共生」との関係の間にあって、その両者を、個々の種の間での「喰って喰われて」という関係を通して成り立たせている状態、と言うよりも、「喰って喰われて」という関係が成り立っていてこそ、互いの生物は安定して存続できる、とする考え方を言う。

これも、それが意味していることを人間だけの社会に狭めて当てはめてみれば、次のようになる。

一見対立しているかのように見える自由と平等という概念の関係にあって、その間の架け橋となって両者を成り立たせる「友愛」という概念に相当し、それがあってこそ自由と平等は共に安定して成り立ちうる、とすることである。

すなわち、「生物の循環」とは、人間社会に限ってみれば「友愛」という概念に相当することが判るのである。逆の言い方をすれば、人間にとっての友愛とは、生物一般の生きる自然界における「生物の循環」の特殊ケースに過ぎないということである。

こうして見ると、この三つの要素が揃っての生物の「多様性・共生・循環」とは、近代以来の人間の、もっと狭めれば市民だけの指導的価値観であった「自由・平等・友愛」を超える、生物一般に当てはまる普遍的な価値原理であるということが判って来る。逆に言えば、「自由・平等・友愛」は人間社会、もっと言えば市民社会にだけ当てはまるもので、それは生物一般における「多様性・共生・循環」という捉え方の特殊的なケースに過ぎないものだった、となるのである。

実はこのことは、「近代」においては、今日に至ってもなお、地球上において、一貫して圧倒的支配力を発揮して来たニュートン力学ではあるが、その力学は、いわば、地球と宇宙とを一体に考えなくてはならなくなったこれからの時代にこそ威力を発揮するであろうアインシュタインの相対性原理の特殊解に過ぎなかったということとちょうど同じ関係にある、と解釈することができるのである。

以上のことから判ることは、人間にとっての自由と平等と友愛の三要素が一式揃って近代の指導原理(パラダイムとしての意味を持って来たように、その近代という時代が終焉を見たと考えられるこれからの時代においては————私はそれを「環境時代」と名付けるのであるが————、生物一般についての多様性と共生と循環の三要素が一式揃ってこそ意味を持ってくるということである。

だから、今後、環境政策を考える場合も、また生態系の蘇生を考える場合も、例えばこの国の政府(環境省)が唱えるような共生だけではほとんど意味をなさないし、また循環だけでも意味をなさない。つねに三要素を一体にして統一的に捉え、それらを同時に実現するようにしなくては意味をなさない、ということである。

ということで、私は、この三つの要素を一体とした、生物の「多様性・共生・循環」のことを「生命の原理」と呼ぶことにするのである。

三種の指導原理のうちの二つ目は、私が「新・人類普遍の原理」と呼ぶものである。

それは私たちの日本国憲法の前文に登場する「人類普遍の原理」の中身を普遍化した原理である。

憲法前文を見ていただきたい。そこにある「人類普遍の原理」とは、そしてその中身とは、大雑把に言えば、近代市民個人の「生命・自由・財産」は国家によって保障されねばならない、というものである。つまりこれを守ることが、近代においては、国家の使命となるのである。

しかし私がここで言う「新・人類普遍の原理」とは、日本国憲法が言う原理を人を含む生物一般にまで拡張したもので、生物一般の「生命・自由・財産」は、やはり環境時代の国家によって保障されねばならない、とするものである。

なお、「新・人類普遍の原理」には、生物一般の生命が含まれていることから、これ自身、ある意味では先の「生命の原理」をも包含している原理、と見ることができる。

そしてそのことから直ちに判ることは、この「新・人類普遍の原理」が国家によって実現されるということは、破壊され汚染されて崩壊しつつある生態系が蘇ることでもあるのだ(4.1節)

三種の指導原理のうちの三つ目のものは、エントロピー発生の原理」である。

それは、既述(3.1節)したように、「一人ひとりの人間も、産業も、また個人の集合体である社会も、国も、つまりどんな社会的存在といえども、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、活動したそのときには、『エントロピー』という用語で表現される物理的状態を表す量が、そのときに発生する物(廃物)と熱(廃熱)に付随しながら必ず増える。同時に、それだけ『汚れ』も増える」とする原理である。

 

以上が私の考える三種の原理であるが、もし今を生きる私たち人類が、私たちの子々孫々どころか、これまで500万年にわたって人類がこの地球上に生き続けてくることができたと同じくらいの時間的長さをこれからの人類も生き続けて行って欲しいと心から願い望むのならば、その時は、好むと好まざるとに拘らず、言い換えればどんな経済システムを持った社会を望もうとも、上記三種の原理こそが私たち人類が、つねに、また無条件に従わねばならない原理であろう、と、私は考えるのである。

したがって、例えば、今後、私たちの国日本を「環境時代」にふさわしい国家として根幹からつくり直して行こうと考える時、上記の三種類の原理こそは、とくに国家として、あるいはその代理者である政府として、また地方政府としても、そして国会を含むあらゆる共同体の議会としても、何をどうすべきか、何をしてはならないかと判断する際には、いつでも、明確な方向づけを与えてくれる拠り所となりうるものである、と私は考えるのである。

そしてそれは、環境を再生させる仕組みを考える場合はもちろん、経済的仕組みのあり方を考える場合も、また教育制度のあり方や福祉制度のあり方、そして税制のあり方等々を考える場合にも、大きくその方向を間違えることはない解決の基本的な方向づけを与えてくれる羅針盤となりうるのである。

そういう意味で、私は、以上の「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」の三種の原理こそが、環境時代に生きる人類を根源から救う、人類の、人類による、人類のための指導的スローガン、あるいは全地球的・全生命的指導原理となるものであろう、と考えるのである。

なお、上記三種のそれぞれの原理が持つ意義を考えると次のように説明できるのではないか。

三種の原理のうちの前二者は、人間の理屈や弁明など一切通用しない、人間が生きて行く上での指針とすべき原理である。三番目は、もし人類が存続を望むのなら、人間の経済活動を含むあらゆる活動をする際、これ以上のエントロピーを地球上に発生させてはならない、あるいはこれ以上のエントロピーを地球上に貯めてはならないという意味での、全地球人にとっての足かせを明確に提示する原理なのである。

以上の考察により、私は、今後、本書の中では、一貫して上記の三種の原理のことを指導原理と呼んで行こうと思う。

念のために、上記三つの原理のうちの前二者について、対応する近代の原理と比較して示すと、それぞれ次のようになる。

 

表 近代の「市民の原理」と環境時代の「生命の原理」との関係

近代における「市民の原理」

環境時代における「生命の原理」

「市民」個人の自由

生命の多様性

「市民」個人の平等

生命の共生

「市民」個人の友愛

生命の循環



表 近代の「人類普遍の原理」と環境時代の「新・人類普遍の原理」との関係

これまで(近代)

これから(環境時代)

近代の市民中心の価値原理

人類の存続を可能とさせる

全地球生命的な価値原理

「市民個人」の生命の尊重

「市民個人」の自由の尊重

「市民個人」の財産の尊重

「多様な生物」の生命の尊重

「多様な生物」の自由の尊重

「多様な生物」の財産(生態系)の尊重

人類普遍の原理

新・人類普遍の原理

 

なお、上記2つの表を見比べると気づくのであるが、自由と多様性という概念を介して、生命の原理と新・人類普遍の原理とは重なっている。

このことから、その都度両原理を区別するのも煩わしいので、今後は、本書の中では、この両原理、つまり「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」とを一緒にして「生命の原理」と呼んで行くことにする。

したがって、人間がものごとを考えたり判断したりする際には、いつでも、どこでも、公平で公正な規準となり、それ自身が拠り所となり得るものと考えられる全地球的・全生命的指導原理は実質的には「エントロピー発生の原理」と「生命の原理」の二種類となる。

ところで、この両表からも明瞭なように、そもそも近代の人間には、市民にとってさえも、彼等の価値観や自然観の中には他生物という存在は入ってはいなかった。したがって、他生物の自由などといった概念も、当然ながら念頭にはなかったのである。

 

なお、ここで、この国の国会と中央政府の「自然環境」や「生態系」等に対する考え方が今後とも大きく変わらなかったなら、上記二種の指導原理のうちの最初の生命の原理の方は実現され得ないままに終るのではないか、と危惧される根拠を2つだけ指摘してこの節を終えたいと思う。

その1つは、環境省が定めているこの国の「環境の憲法」とも言うべき環境基本法に見られる問題点であり、もう1つは、文科省が全国の小中学校の生徒に配布している文科省の官僚のお手盛りの「検定」不要の道徳の教科書「心のノート」(第10章に詳述)に見られる問題点である。

具体的にいうと、前者については、環境省は、環境の総合的かつ計画的な施策を推進するためにということで「環境基本計画」(1994年12月16日、閣議決定。以下、「基本計画」と言う。これについても、国会は関わってはいなかったのだろうか?!)を定めてはいるが、これが、これまでの文脈からすると、致命的欠陥を持っていると言える環境基本計画だからである。

この基本計画は、聞けば、環境庁(当時)内での「中央環境審議会」の答申に基づき、そこの官僚がつくったもので、それを当時の内閣がわずか15分程度の閣議で決定したものだという。

基本計画が閣議決定された1994年当時と言えば、既に国連でも日本でも、生物種の激減あるいは特定生物種の絶滅が叫ばれていたし、したがって「中央環境審議会」の委員となるような「有識者」であったなら誰も生物種の「多様性」の大切さについて知らないはずはなかった。

ところが、である。この基本計画には「多様性」という最も重要なキーワードが含まれていないのである。基本計画がキーワードとしているものは「循環・共生・参加・国際的取組」の4つだけ。

では、「多様性」がキーワードとして含まれていないのは果たして偶然なのか故意なのか。

私は確信を持って言う。これは間違いなく「中央環境審議会」を実質的に取り仕切って来た官僚の故意に因るものだ、と。

そもそも環境をよくするためには、活動に「参加」するのは当たり前のことだし、また参加しなければ何事も始まらないのだから、そのような文言は、とくにキーワードとしては全く不要なものだ。それに、この「参加」はキーワード「国際的取組」と同質同類のものでもある。

むしろ自然にとって最も重要とも言える多様性を基本計画の中から欠落させてしまったなら、それに基づいて人々がどんなに循環と共生を心がけ、また国際的取組みに参加したところで、実効は上げられないどころかかえって自然を壊してしまう結果になるのは目に見えている。

なぜなら、多様性がなく、同一の生物種の個体数をどんなに数増やして共生させても食物循環は成り立たず、自然の循環も成り立たず、生命を主要な要素として成る自然は早晩、維持できなくなるからだ————先に私が、人間にとっての自由と平等と友愛が一式揃って意味を持って来たように、生命一般についても、多様性と共生と循環の三要素が揃っていてこそ意味を持ってくると強調したのはそのためである————。

つまり、この国の政府が掲げるこの「環境基本計画」のままでは、日本では「生命の原理」は実現され得ない可能性が高いのである。それでは、日本が、世界の環境行政の足かせになるだけではなく、逆行しかねないことを意味する。

実はこれと実質は同じことが、文科省が全国の小中学校の生徒に配布している文科省の官僚のお手盛りの、「検定」不要の道徳の教科書「心のノート」にも見られるのである。それが後者の問題点である。

その内容そして構成は、一見、非の打ち所がないように見える道徳の教科書ではあるが、その中身を何回熟読しても、人間個々人にとって最も大切と思われる文言が一カ所たりとも見当たらないのである。

それは、児童・生徒一人ひとりの人間としての自由の尊重、ということに関する文言だ。

ではそれは、うっかりミスによる欠落なのか。絶対にそんなことはない。そんな重要な文言をうっかり落としてしまうことなど考えられない。いやしくも学校教育を司る文科省なのだ。それは、文科省の官僚が意図的に省いた結果なのだ。私はそう確信するのである(後述の5.2節および10.1節を参照)。

人間一人ひとりの自由には言及しないということは、これまでの論理からすれば、それは生命一般に置き換えてみれば明らかなように、自然界における生命の多様性を認めようとしないことに等しいのである。

そしてそのことは、実際、この国の文科省の統制下にある学校教育が、どこの小・中・高等学校でも、公立学校である限り、例外なく、正義よりも集団の中での秩序を重んじ、個性を育くむよりも均質化・画一化した児童生徒を教育することに重点を置き続けている現状と符合するのである。

この国では、政府自身が、明治時代から、琉球民族アイヌ民族、その他にも異民族がいたのにも拘らず、一貫して「一民族・一言語・一文化」政策を国民に対して強制してきた歴史がある。それは人間相互の自由と多様性を認めようとはしてこなかったことでもある。そして今また、人類がその存続危機に直面している中で、1992年6月には、157カ国が署名して生物多様性条約」が国際条約として採択され、同年12月末に発効しているのに、この国の似非国家としての政府は、環境時代に臨むに当たって、生物一般の多様性も認めようとはしていないのである。

なお、このことは、今(2015年現在)、欧米社会は「移民」や「難民」を何万人〜百万人という規模で受け入れているのに対して、日本は、経済大国を自認しながらも、その数は欧米と比べたら実質ゼロに等しいという状態となっていることと、根底の理由は同じだと私は思う。

要するに、政府、それも実質的に政策を決めている官僚は、統治に自信がないのだ。国民が多様であること、多様になることに、明治期以来、恐怖しているのだ。

私はそう確信する。

しかし、である。

こうなるのも、結局は、政治家たちが、国民から自身に課せられた役割や使命をほとんど果たさずに、そして国民の声に耳を傾けずに、また国の現状に注視せずに、付託された権力をもっぱら官僚に委譲し、立法も放任し、むしろ官僚に追従して来たからであろうと思う。

以上が、このままでは、この国では、「生命の原理」「新・人類普遍の原理」が実現されることはほとんど期待できないと私が考える根拠である。

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件 ——————その2

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今回公開する内容は、前回の同名のタイトルの節の下での「その1」に続くものです。

 

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件——————その2

では第3の問いに対する答えはどうなるのか。

これに答えられるためには、まずは第1の問いが答えられていることが前提となる。

しかし、今のところその答えは、既述のとおり私には不明である。

そこで、ここでは、見方を少し変えて、地球の表面上にて発生させることが許される最大のエントロピーの量とは一体どれほどか、ということを考えてみようと思う。

なぜそれを考えようとするか。それは、これまで地球は、その誕生以来、何十億年と地球としての機能を維持してきたわけで、それはこれまで述べてきたエントロピー的観点から見れば、地球表面上で発生してくるエントロピーの総量は地球の機能を維持する上ではまだ十分な余力があったということであり、そしてそれだからこそ地球上には豊かな自然が育まれ、またその中で様々な生命が営まれてこれたのであるということなのであるが、そこで、では、地球としてのその機能を維持しうる範囲内で、地球上に存在することが許容される最大量のエントロピー量とは一体どれだけか、ということを考えてみることは、次の意味で、十分意義があることだからである。それは、人類が地球上に生き続けられる限界の地球表面上でのエントロピーの総量はどれだけかということを考えることでもあるからだ。

つまりこれを考えることこそが、「地球に生命が今後とも存在し続けられるための条件とは何か」を考えることであり、「人類存続可能条件とは何か」を明らかにすることでもあるのである。

言い換えれば、それは、この広大無辺な宇宙にあって、地球は、スペースシップ・アース(宇宙船地球号)として、人類が人種や民族を超えて運命を共にする、今のところ多分唯一の運命共同体」と言ってもいい天体なのであるが、その「運命共同体としての存続可能性を考えることでもある。

そしてその条件こそが、人類が今後の文明のあり方を考える上では、何にも優る、そして何にも増して重視しなくてはならない、客観的で科学的な判断材料となり、また制約条件ともなるのである。

ところで、それが計算できるためには、エントロピーはつねに廃熱や廃物に付随して廃熱や廃物とともに移動する物理量であるということから判るように、地球の温度そのものではなく、地球と宇宙との熱の出入り、または収支が判っていなくてはならない。

そこで現在判っているその熱の収支を基に、地球の表面上にて発生させることが人類にとって許される最大のエントロピー具体的な量を計算してみようとは思う。

先ず、地球上における人間の経済活動を含むあらゆる生命の営みと非生命の活動によって、地球上で毎年生成されている総エントロピー量をGt、地球がその表面から、同じく毎年、宇宙に向けて捨てることができている総エントロピー量をGsとしたとき、その両者の差(Gt−Gs)について考える。この差(Gt−Gs)が、地球上に存在し続ける総エントロピー量、ということになる。

その際、考えられる場合の数は以下の3種類である。

一つは、(Gt−Gs)<0の場合。

この場合には、人間の経済活動を含む、地球上におけるあらゆる生命の営みと非生命の活動によって発生するエントロピーの総量には、エントロピー的にはまだ発生余裕がある。地球が宇宙に捨てているエントロピー量の方が地球上で生み出されるエントロピー量より大きいからである。

もう一つは、(Gt−Gs)>0の場合。

この場合には、地球上におけるヒトを除くあらゆる生命の営みと非生命の活動にさらに人間の諸活動が加わることによって生じたエントロピーの総量の方が、地球が宇宙に捨てることができているエントロピー総量より多いので、地球表面上には、エントロピーが溜まり続けているということになる。言い換えれば、地球上には「汚れ」が溜まり続けているということだ。

これでは、前回公開した、同節の「その1」での例を挙げて述べてきたことからもわかるように、地球はどんどん「病んでゆく」ことになり、これを放置しておいたなら、早晩、「死に至る」、ということになる。

そしてもう一つは、(Gt−Gs)=0の場合。

この場合には、人間の経済活動を含む、地球上におけるあらゆる生命の営みと非生命の活動によって生じる総エントロピー量が、そっくり宇宙に捨てられるようになっているということになるので、地球上でのエントロピー収支はバランスを保っていて、エントロピー量の増大はない、ということになる。

以上のことから、地球の表面上にて発生させることが許される最大のエントロピー具体的な量とはGsとなる、ということが判る。すなわち「人類存続可能な限界条件とはGsである」となるのである。

あるいは、Gtは地球上における人間の経済活動を含むあらゆる生命の営みと非生命の活動によって、地球上で毎年生成されている総エントロピー量であり、Gsは地球がその表面から、同じく毎年、宇宙に向けて捨てることができている総エントロピー量であるということを踏まえるとき、Gs≧Gtでなくてはならないということは、人間の経済活動を含まないGtとGsの関係は、地球誕生以来(Gt−Gs)<0の関係を満たしてきたことを考えれば、少なくともGtに寄与する人間の経済活動が生み出す総エントロピーは、それを加えても、Gt としてはGsを下回っていなくてはならない、となる。

ではGsとはどんな値となるのであろうか。

そこでそれを槌田の書に拠り計算してみようと思う。

そのためには、便宜上、Gsを地球の単位表面積当たりについて考える。それを今、gsとする。

ただし槌田はその際、次の3つの仮定を置いている。

1つは、地球を、作動物質の1つである「養分」を除いた、化学変化のない、内部で熱の高温部と低温部を生じる物理変化のみの「熱機関」として考えている。

熱機関と考える根拠は次のとおりである。

地球表面上での作動物質とは「大気と水」であり、「高温部分」とは地表面を指し、「それよりも高温の熱源」とは地表面に降り注ぐ太陽光によってもたらされる「熱源」のことを指しているからである。また「低温部分」とは地上から「上空へ、およそ5000m地点」のことを指し、そして「低温部分よりも低温の熱源」とはその上空からさらにその外側へと続いて広がる「宇宙空間」のことを指すとしているからだ槌田敦氏の前掲書p.126〜129)

2つ目の仮定として、地表面の温度を15℃、地表面での太陽光の熱的大きさを257kcal/cm2/yearとしている。

これは、1975年当時の地球の平均熱収支(日本気象協会報告書(1975)に片山が加筆修正したもの)に基くものである。

3つ目として、地球への熱の入力については、1975年当時の地球を取り巻く空気の温室効果に因り、地球の位置では太陽光の熱的大きさの30%となる、としている。

 

そこで、q1を地球熱機関への熱入力、q2を地球熱機関からの熱出力、T1を地表温度(15℃)、T2を上空5000mの温度(−23℃)とすると、地球熱機関としてのエネルギー収支は

q1=q2

エントロピー収支は、

q1/T1+gs=q2/T2

と数式表現できる。ただしgsは余分のエントロピー量である。

ここに「余分の」とは、(q1/T1)で表わされる“太陽熱を15℃で引き受けて地表面上で発生する熱エントロピーの他に”、という意味である。言い換えると、それは、地表面上の物質循環により処理されるべきエントロピーは既に処理されているから、ここではその未処分の「残り」、という意味である。

そしてこのgsこそが、今、求めようとしているエントロピー総量となる。

これらから次式が得られる。

          gs=(1/T2−1/T1)q1           (※)

ここで地球への熱入力q1は、地球の位置での太陽光の大きさをq0とすると、その30%であるから、

q1=0.30×q0

 ここに、地球の球面に注がれる太陽光のエネルギーq0は、平均257kcal/cm2/yearである。

これらの値を(※)式に代入すれば、地球が宇宙に捨てている余分のエントロピーgsは41cal/(deg・cm2・year)ということになる。

ただしT1=15+273=288K°、T2=−23+273=250K°とする。

この数値「41カロリー/k°・cm2・年」こそ、上記仮定に基づく「人類存続可能な限界条件」となる。

つまり、大気と水のみを作動物質と仮定する地球という熱機関において、その大気循環と水循環とが順調に働いていれば、この「41カロリー/k°・cm2・年」という量の余分のエントロピーは、地球熱機関によって、いつでも、宇宙にそっくり捨てられるのでる。

このことはまた、もし、地球上における人間の経済活動によって生じるエントロピー総量がこの範囲に留まっているならば、その時には、地球には“エントロピーの増大”、つまり“汚れ”の量が増えるという事態は生じず、その限りでは、地球上に存在するすべての生命はその存続を保証される、ということを意味している。そしてそのことはさらに、生命にとって必要な資源はつねに自然が生み出してくれてきたことを思い浮かべる時、地球が地球の機能を維持し続けられるということは、人間にとって必要な資源も、自然の循環が保証し続けてくれる、ということをも意味しているのである。

しかし、である。人間社会におけるさまざまな活動によって、地球が熱化学機関として機能する上での養分という作動物質をも加えて計算した場合にはこの限りではなくなるだけではなく、さらにはこうした大気と水と養分という作動物質の中で、とくに水と養分の循環が途中で遮断されたり破壊されたりした場合には、事情はこれとは大きく異なってくる。

それに、ここで求められた数値は、あくまでも1975年当時の地球の平均熱収支に基づくものであるということを忘れてはならない。

したがって「人類存続可能な限界条件」と言える最新の、そしてより正確なgsを求めるには、やはり最新かつ、より正確な「地球の平均熱収支」に基づいて計算し直す必要がある。

参考までに記せば、この年1年間の世界における人為的に排出された、“温室効果”という観点に基づいて炭酸ガスに換算した総排出量はおよそ300億トンであったIPCC AR5 WGⅢ SPM.1)

実際、同上IPCCの資料によれば、2010年1年間のCO2に換算された温室効果ガス総排出量は490億トンとなり、1975年時の1.6倍強である。

こうなるのは、とくに2000年以降は、地球上での人間の経済活動は、とくに新興国や途上国においてとくに急速に拡大していること、それに伴って電力需要も急増して、燃やす化石燃料の量も莫大な量に急増しているなどの理由に拠るものと推測される。

したがってそのことから、宇宙に向って熱が捨てられる地上面からの高さもはるかに高くなっているだろうことが推測されるし、その層を通した熱の授受およびその層による地球に対する温室効果も変化し、その結果地球の平均の熱収支も大きく変動しているだろう、ということも推測される。

こうして判るように、「人類存続可能な限界条件」を決める上で重要な要素は、温度そのものではない。温室効果ガスを含めた地球を取り巻く大気がつくる層と地球表面との間で出入りする熱量の大きさとなるのである。

ところで、ここまでは、こそ、上記仮定に基づく「人類存続可能な限界条件」としてのgsは「41カロリー/k°・cm2・年」であるとは判ったが(1975年時)、ではそれを地球上の人間一人ひとりから見たとき、個々の人間としてはどれだけのエントロピー量を生じさせることまで許されるのか、ということは未だはっきりしない。それがはっきりしないと、各自にとってのエントロピーの制限数値が判らない。

そこで、つぎに、それもきわめて概略的にではあるが求めてみる。

その際、これまでgsを求めるにあたっては、地球上での経済発展の程度による先進国とか新興国とか途上国という区別はせずに地球全体について考えて来てことに注意しながら、さらに次のような大胆な仮定を設ける。

仮定① 地球人口は70億人とする。

仮定② gsはすべて、地球表面上の陸地部分での人間の経済活動のみによって生じるものとする。

その場合、陸地と海との面積比は、1995年版理科年表によると、

148.890×106km2:361.059×106km2=1:2.42

結局、このとき、人類がこの地球上に存続できて行くために、地球上の人間一人当たりが一年間に発生させることを許容されるエントロピーの総量は、

87.207×10kcal/K°

となる。

この値は、地球上の現在世代の一人ひとりが、将来世代や未来世代から生成を許容される一年間での総エントロピー、と解釈することもできる。

ところで、それが87.207×10kcal/K°となるとは、具体的にどういうことを意味するのだろうか。

それは、任意の物体の温度がT、その物体に流れ込む熱量をQとしたとき、その両者からなる比Q/Tの一年間当たりの最大値、ということである。

したがって、87.207×10kcal/K°=Q/Tと置くと、

温度が年間平均して仮に20℃、すなわちT=20+273=293K°の環境下にいるとすれば、Q=(87.207×10kcal/K°)×T=87.207×10(kcal/K°)×293K°=25551×10kcal

灯油1kgの燃焼による発熱量は12,000kcalである。したがって、25551×10kcalを生じうる灯油の量は、25551×10kcal kcal/12000(kcal/kg)=2.1×10kgとなる。

これから、「どこの国の人々も、灯油だけをエネルギー資源としたとき、一人当たり、年間、210トンの範囲内まで灯油を使用することが許容され、その範囲で使用している限り、人類は存続できる(1975年時)、ということになる。

なおここで忘れてならないことは、ここでの結果はあくまでも地球を熱機関と見なし、「養分」の循環を無視しての話であるということである。

またこの灯油210トンの中には、人間個々人の日常生活面においてだけではなく、その個々人のあらゆる経済活動やあらゆる移動に伴って消費され、燃やされるあらゆる種類の燃料を、その発熱量に依って灯油の量に換算している、ということは忘れてはならない。

たとえば自動車等による地球上のあらゆる陸上交通・輸送のために燃やされる燃料(ガソリン、軽油等)、あらゆる船舶による海上交通・海上輸送のために燃やされる燃料、あらゆる航空機による空の交通や輸送のために燃やされる燃料、地球上のあらゆる火力発電所が発電のために燃やす燃料(石炭、液化天然ガス等)、さらにはあらゆる宇宙ロケットを飛ばす際に燃やされる燃料等々のすべてについてである。

 

以上で、本節のテーマについての考察は終えるが、これまでの考察の過程からも判るように、人類の存続可能性を考える場合には、「エントロピーを捨てる」、あるいは「エントロピーを捨てることができる」ということが特別に重要な意味を持ってくるのである。

そこで、本節の最後に、「エントロピーを捨てる」ということの意味と、これに関連して、「もしエントロピーを捨てられなかったなら」ということの意味を、私なりにもう少し掘り下げて考えておこうと思う。

既に私は、熱化学機関とみなせるそのシステムの空間に生じたエントロピーをそれを取り囲む外の空間に捨てることが困難となって来た時、人間も生命一般も生態系も社会も地球も「病気」にかかり———具体的にどのような種類の病気にかかるかはともかく———、エントロピーをその外の空間に捨てられなくなったとき「死」に至ると述べ、結論として、「物質循環、とくに作動物質の循環が持続できることこそが、物理学的には熱化学機関とみなせる人間・生命・生態系・社会・工場等々そして地球が存続できるための条件となる」と述べて来た。そして、そもそも熱化学機関は孤立しては存在し得ない、とも述べてきた。

この両者を考え合わせることによって、「作動物質の循環が維持されている」ということは、その熱化学機関の中に生じたエントロピーをその熱化学機関の外に「捨てることができている」、ということと同義である、ということも判るのである。

その観点から、地球について考えてみる。

地球の作動物質は「大気と水と養分」である。

果たして、今日、この日本という国に限ってみても、この作動物質の循環は、国土の中で、あるいはそれぞれの地域の生態系の中で、十分に維持されているだろうか。

私は、はっきり「ノー」、と答える。むしろ至る所で、その作動物質の循環は遮断され寸断されて阻まれている。

遮断し、あるいは阻んでいるその最たる例は、私は大都市と高速道路だと考えている。

なぜか。

大都市、それは、熱力学的に見れば、莫大な数と巨大な建築物が林立し、また莫大な数の住宅も密集して、人口が極度に集中しているために、そこから昼夜を分かたずに莫大な量の廃熱や廃物(排ガス)が発生している人工空間である。当然そこは、廃熱や廃物に付随して同じく莫大な量のエントロピーも発生している空間でもある。

つまりそこでは、廃熱も廃物も、そしてそれに伴うエントロピーも、巨大な固まりとなっているのである。

その上、これは決して大都市に限った話ではないが、中小の都市という都市も、ほんの一部を除けば、その地表面のほとんどはコンクリートまたはアスファルトで皮膜のように覆われていて、都市が熱化学機関として機能する上で必須の作動物質としての大気と水と養分が地中部と地表面との間で行き来できない、つまり循環できない状態にもなっている————もし、地表面が大気と水と養分が通える構造になっていれば、例えば集中豪雨のたびに下水道が溢れ出たり、家屋が浸水したりするという事態も、ほとんど解消されるのだろうが————。

それだけではない。都市の圧倒的な面積は、オフィスビルや住宅で占められているがために、緑は圧倒的に少ない。あっても、そのほとんどは背丈の低い灌木からなり、それだけに、その根が到達している深さは浅く、また根を張る面積も狭い。つまり、地中深く、また広く根を下ろす樹木からなる林や森林ではないということだ。そのことは、都市は、地中深くから水を吸い上げて、地表面から高い位置に蒸散させうるようにはなっていないということであるし、葉で作られた栄養が地中深くに運ばれるようにもなっていないということだ。

さらに大都市に林立するビル群は、高層になればなるほど、上部構造の安定を維持することを目的にして基礎部分はかなり深くまで構築されているがために、高層ビル群はそれ自体が、地下水脈を含め、地中での作動物質の流れを妨げてしまっているのである。

さらには、各住宅やオフィスあるいは工場等から出る排水自体にも、循環を考えるとき重大な問題を含んでいる。

そこには、人の排泄する屎尿だけではなく、さまざまな種類の化学合成物質や薬物が混入している。決して循環させてはならない毒物をも含んでいる可能性も高い。それは、例えば、有機塩素化合物(たとえば塩化ビニール)と有毒重金属、毒性金属元素そして放射性物質である。

その化学合成物質の中には、界面活性剤の入った洗剤、食品に添加された保存料(防腐剤)、着色料、人工甘味料、さらには抗生物質等が混ざっている。

そうした排水が、無数に張り巡らされた下水道管を通じて汚水処理場に集められては、そこで、塩素を添加して「消毒」したことにされ、また莫大な電力を用いて「浄化」したことにされて————実際には、化学合成物質は分解もされず、ほとんどそのままにされて————、結局は河川に大量放出されるのである。

これらのことから容易に判るように、都市は、大都市になればなるほど、作動物質は循環するどころか至る所で遮断され、また寸断されてしまう構造となっているのだ。つまり、大都市になればなるほど、その空間にはエントロピーが充満し、溜まる一方となっているのである。

私は、つい先ほど、「作動物質の循環が維持されている」ということが、その熱化学機関とみなすことができる空間の中で生じたエントロピーを滞ることなくその熱化学機関の外に「捨てることができている」ことであると結論付け、またそのことこそが、その空間が熱化学機関として持続しうることである、とも記してきた。

このことを踏まえるならば、都市生活者の方が田舎暮らしの人よりは概して病弱な人が多いとか、心身を害してしまう人が多いとはよく言われてきたことだが、このことも、これまで述べてきた《エントロピー発生の原理》から、定性的にではあるが、説明できるのである。

いずれにしても、日本のみならず世界中にこういう都市を作ってきたのは、「近代」という時代に生まれた土木技術であり、それに基づく都市づくりの考え方なのだ。

最近はあまり聞かれなくなったが、一頃、よく「都市はヒートアイランド(熱の島)」などと呼ばれてきた時もあった。しかし、以上のことからもわかるように、むしろ「都市はエントロピーアイランド(エントロピーの島)」と呼んだ方が熱力学的にはよっぽど適切な表現のように私は思うのである。

高速道路についてもその理由は都市の場合と同様である。

高速道路は、何十メートルもの幅で、延々何百kmから、延べ何千kmにもわたり、表面がコンクリートまたはアスファルトで覆われていて、道路の両側の生態系を完全に分断する遮断帯を構成している。

それ自身が野生動物の行き来を遮断しているのである。またその表面自身が、作動物質である大気や水や養分の通りを帯状に、何百キロメートル、何千キロメートルという距離にわたって、循環を遮断している。

それは、雨水の地下浸透を遮断し、水分蒸発のできない帯を形成していることでもある。

それだけではない。高速道路は、都市と同様、昼夜を分かたずに、膨大な数の自動車が総量にして莫大な量の排熱と廃物(排ガス)を吐き出している空間であり、アントロピーが滞留している空間でもある。その上、とくに夏場などは、路面からの照り返しによる大量の熱の帯をも形成してしまう空間でもある。

 

こうして判るように、都市も高速道路も、国土が、そして地球が熱化学機関として働き続ける上での作動物質である大気と水と養分の循環を大規模に妨げ、あるいは遮断してしまい、元々は1つの連続した広大な生態系であった自然をいたるところで分断し、またバラバラにしてしまっているのである。つまり、ますますエントロピーを捨てることができない自然や国土や地球にしてしまっているのである。

なお、都市と高速道路について具体的に述べてきたが、実は、程度の差こそあれども、その他、貯水ダム、河口堰、砂防ダム、法面を覆うコンクリート、トンネル等々の大規模土木構造物も全て、作動物質である大気と水と養分の循環を妨げるものとなっているのだ————そういう意味でも、後々言及するが、E.Fシューマッハーの主張する「スモール イズ ビューティフル」という考え方が、人類の存続を願う私たちに極めて有益な示唆を与えてくれるのである————。

なおここで、蛇足とも思われるかもしれませんが、読者の皆さんにも考えてみていただけるとありがたいことがあります。

近年、日本国内では気象が至る所で、それも頻繁に、局所的であったり、局時的であったりするという現象に出会ったりすることが多くなりましたが、皆さんはそういう体験はありませんか。例えば、雨が降る際の降り方にしても、車で走っている時、さっき通った場所ではどしゃ降りだったのに、ここに来ると、すぐ隣なのに、嘘みたいにまるっきり降ってはいないといった現象とか、あるいは、さっきまで晴れていたかと思うと、急に曇ってきて、雨が降り出したという現象のことです。

あるいは「ゲリラ豪雨」と呼ばれる、文字通り奇襲するような雨の振り方がそれです。

実は私は、こうなる理由は、既述した近年ますます都市化が顕著になってきている都市づくりや高速道路造り、あるいはその他の作動物質の循環を妨げる構造物の影響なのではないか、と推理するのです。

つまり、こうした循環を大規模に妨げる土木構造物あるいは建築構造物によって、大気や水(地下水も含む)の循環が妨げられたために、あるいはそれらから吐き出される排熱や廃物(排ガス)があまりに巨大であるために、いつまで経っても周囲の空間と混ざり合って均一化することができなくなり、その結果、風が吹いてもいつまでも均一にならずに、固まりのまま移動するために、そこに温度や気圧の変化も加わって、気象現象が局所的になったり、局時的になったりするのではないか、と。

読者の皆さんは、気象のこうした局所的現象、局時的現象はどうして生じると考えますか。

ですから私は、こうした現象はあまりにも変化が激しいために、気象予報が不可能な状況となっているのではないか、とも思うのです。

 

ところで近代において科学や技術が「発達」するとは、科学については、科学がその時の技術を使って次々と新たな諸法則を発見できるようになることであり、技術については、科学が発見した諸法則に基づいて、技術がそれを法則的に応用することでこれまで自然界や社会にはなかったものをより次々と創り出すことができるようになることであった。

一方、経済が「発達」するとは、科学や技術が生み出した物やシステムを用いることにより、人や物品や情報がより広範囲に、より多く、より早く「行き渡る」−−−これは「循環」とは異なる———ようになることであった。

しかしそこで言う科学や技術が生み出し、経済によって行きわたる物は、そのほとんどは、熱化学機関である生命体が維持される上で必須の、既述の意味での「純」なる大気と水と栄養の循環を促すものではなかった。生命活動にとって必須なものでもなかった。食い物も、食料「品」とも呼ばれていることからもわかるように、純な栄養ではなかった。というより、生命体にとってはほとんどが異物の加わった食い物でしかなかった。

実際、スーパー・マーケットに食材を買いに行くたびに、私は石油からできたシートによって一個一個ラップされて並べられている商品を手にとってその裏底を見るのだが、なぜこれほどの種類と数の材料を加えて食料品という「商品」を作る必要があるのだろうかと考えさせられてしまう。

中には、一つの商品の中に、保存料・着色料・化学調味料・PH調整剤から始まって、グリシン、酒精、リン酸塩(Na)、ソルビット、凝固剤、乳化剤、酵素、加工澱粉、水酸化Ca等々が加えられ、混ぜられている。しかもそれらの添加物の一つひとつだって、実際には何を混ぜて、どのようにつくられているのかさえ、それを使用して店頭に並べる者にとっても不明なのだ。

つまり資本主義経済システムとは、たとえば「価値とは何か」としてその意味をも明確にしないまま、「付加価値」と称して、つまり価値が付加されているとして、結局は、本物をどんどん駆逐してしまうしかないシステムなのだ。ここでいう「本物」とは純なる物と言い換えてもいい。

そのシステムの本質は、結局のところ、いかにコスト(費用)を抑えて商品をつくり、それをいかに短時間に多く売るか、そしてそのことによりいかに多くの利益を上げるかということだけに関心を持ち、売ってしまった後のことは一切感知しようとはしないことだ。したがって文字どおり利己的で無責任なものであり、もっぱら生産者の側、売る側の立場に立ったシステムなのだ。

だからそこでは、宣伝文句はどうあろうとも、また安全と安心をどんなに謳い文句にしようとも、消費者の健康といったことは二の次、三の次であって、商品を売ることでしかない。

しかしその場合、私たち人間は、ここで、いつでもきちんと頭に抑えておかなくてはならないことがある。それは、ヒトを含むあらゆる生物は、それまでに体内に取り込んだモノによってその体が出来ている、という真理である。

つまり、異物をより多く、より頻繁に体内に取り込む程、その異物の量がどんなに「許容量」の範囲といえども、それを取り込んだヒトを含む生命体の体は、これまでの《エントロピー発生の原理》が教えてくれているように、余計な量のエントロピーを蓄積させてゆき、その結果、次第に不健康にし、病気になりやすい体にさせてしまう、と言えるのである。

熱中症」を防ぐには「水」をこまめに摂るようにとはよく言われるが、また健康を維持するには、適度の運動が良いとも言われるが、その本当の理由についても、《エントロピー発生の原理》がわかりやすく説明してくれる。

体内に生じた廃熱や廃物に付随するエントロピーを拾い、移動させ、対外に捨てさせてくれるのは主に体内を巡る血液の流れである。その血液は大部分が水である。その血液中の水の量が少なくなって行ったなら、流れが鈍化し、廃熱や廃物、すなわちそれに付随するエントロピーをも捨てにくくなってしまう。

それを防ぐためにはどうしても「水」を、それもできるかぎり異物の混入していない純な水を、そして循環をより促進してくれる適量の養分を含んだ水を、外から絶えず補い摂る必要があるのである。

適度の運動をし、適量の水を補給するのがよいとされるのは、それが体内での循環を促進し、廃熱や廃物と共にエントロピーをどんどん対外に捨ててくれるようになるからである。

こうしたことから判るように、本当に怖いのは「脱水症状」つまり水分が少なくなることではない。水が血液中に少なくなって体内の循環が順調に行われなくなること、循環する量と勢いが減って行くことそのことなのである。そうなれば、エントロピーを体外に捨てることを難しくさせてしまうからである。

 

ここから先は本節の主題から離れてしまうので簡単に留めるが、以上の論理に基づく推論がもし正しければ、人類が、今後は、できる限り薬というものに頼らずに、みんなが等しく少しでもより健康になるためにはどうしたらいいのか、という問いを発した場合、その答えとしては、直ちに次のことが提案できるのである。それも《エントロピー発生の原理》に依るものなのである。

 それは、地球を含むあらゆる生命体を熱化学機関とする作動物質である大気と水と養分を、至る所で、すなわち国土生態系においても、地域生態系においても、人体においても、可能な限り、純な、あるいは異物の混入していない大気と水と栄養からなる循環を積極的に促すことである、と。

なぜなら、これまでのような薬に頼った対症療法によるのではなく、みんなが病気にならないように環境を整えることこそ、最も苦しみも少なく、コストも安く済むのだからだ————そういう意味では、まずは身近な川を汚さないことであろう————。

私は、この回答の日本版としての具体化の一例を本書の12.6節において、今後この国において行われるべきであると考える「真の公共事業」として示すつもりである。

とにかく、その空間からエントロピーをその外に捨てることを難しくさせてしまったり、難しくなって行くような状態をつくり出したりしてしまうことこそが真に怖いことなのである。

資源がなくなることも、それ自体はそれほど恐ろしいことではない。「大気と水と栄養」の循環が順調であれば、人間が必要とする資源は自然がもたらしてくれるからである。

そういう意味では、もうこれからの戦争の意味も仕方も軍備の考え方も、すべて考え直さなくてはならないと私は思う。こちらが軍備を増強すれば、相手もそれに負けまいとして、それ以上の軍備をする。それではイタチごっこで、際限がない。それで喜ぶのは「死の商人」だけだ。資源を求めて他国の領土を侵略したり、また侵略したそこで人々や自然を搾取したりするなどということはもはや意味はない。それに、そうした戦争観はもはや「近代」の遺物でしかない。

エントロピーを外界に、そして究極的には宇宙に捨てること、そのことこそが人類が永続的に生きて行けるためには最も重要なことなのである。それだけに、それができなくなることの方がはるかに恐ろしいのである。そしてそうなった時には、もはや科学も技術も無用で無意味で無価値になってしまうのである槌田敦p.160)。

科学や技術はけっして無制限に発展しうるものではない。その限界は厳然とあり、それはエントロピーの限界によって決まってしまうのである。

(→ここに、槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.161の図8.3の(a)を転載させていただく)

 

私は、20年この方、一貫して、一滴も農薬を使わず、一握りの化学肥料も使わないで野菜を栽培し米を栽培して来ているが、それらは、食する際、せいぜい塩(NaClという食塩ではなく、精製塩でもなく、ミネラルの種類をより多く含んだ塩、いわば海水から水だけを蒸散させた塩)、醤油、食用油(ただしサラダ油ではなく、オリーブオイルかごま油)、そして上記の塩と麹と無農薬栽培の大豆から造った味噌といった天然材だけからなる基本調味料を加えるだけで、ときにはそこにハーブを少し加えることもあるが、それだけで十分に美味く喰えるのである。

本物の食材とはそういうものなのではないか、と私は常々考えている。

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件 ——————その1

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3.1節では人類の存続を可能とさせる条件について考えてきました。
そこでは、私は、人類が存続可能となりうるか否かは、大きくは、核戦争の脅威から人類が解放されるか否かということと、広義の意味での環境問題を克服できるかどうかの二つにかかっているとしてきました。その場合、環境問題も、もう少し具体的に見ると、地球温暖化とそれに関連していると見られている気候変動の問題と自然界における生物多様性が失われてしまう問題とに分けられる、ということも見てきました。

その際、生物多様性が失われてゆくという現象は、一度生態系の中でそのことが生じると、その現象の持つ性質上、その後は加速度的に進むものであって、それはもはや人間の手では止めようがなくなる現象でもあるとして、その理由も考えてきました。しかも、生物多様性が失われてゆくという現象は、災害の多発化や大規模化等を通じて人の目に見える地球温暖化および気候変動とは違って、目にはなかなか見えにくく、また気づきにくいために、それだけに私は、誰もが「まずい」と感じた時にはすでに「万事、休す」の事態になっている可能性も高いのではないか、とも記してきました。

それに対して、地球温暖化と気候変動による危機については、人間の側の決意と覚悟如何によっては制御できる問題であるとしてきました。そしてその場合も、制御するのに、私は、ひょっとすれば「パリ協定」で結ばれてきた温暖化阻止の方法よりももっと具体的で効果的な方法があるかもしれないとしてきました。それは物理学の世界では一般に「熱力学の第二法則」とも呼ばれている法則を応用する方法です。拙著では、参考にさせていただく物理学者が用いている表現を借りて、その法則を《エントロピー発生の原理》と呼んで行きます。

今回は、その原理を応用して、人類の存続を可能とさせる具体的でかつ数値的な条件を、私なりに考えてみようと思います。

しかし、ここで、私たちは、誰もがあらかじめ心に明記しておかねばならないことがあるのです。それは、生物多様性の危機や、地球温暖化・気候変動による危機に対して私たち人間がどんなにそれらを克服しようと努力しても、もし、それもたとえ偶発的にであれ世界のどこかで核戦争が起これば、各国間での利害関係が複雑に絡み合っている今日の世界では、それはたちまち第三次世界大戦へと拡大してしまい、そうなれば、それだけで人類は破局を迎え、そうした努力は全て、瞬時にして水泡に帰してしまうということです。

なお、この3.2節でも、全体は長いので、2度に分けて公開します。

 

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件
——————その1


では、そもそもエントロピーとは何か。

それは物理学では厳密に定義され得るものであって、その場合にも、2通りの定義がある。1つは古典熱力学的な定義、もう1つは統計力学的な定義である。詳しい説明はしかるべき物理学書に譲るとして、いずれの定義においても、物理学的に最も重要なことは、そこで定義されるエントロピーなる量は、現象の起こる方向を与えるもので、その値は常に最大値に向かって変化する、ということである(J.D.ファースト「エントロピー」市村浩訳 好学社)。

それは、普段見かける多くの部分から成る物でも熱でも、その状態をよく観察すれば判るように、自然のままでは、つまり人がその状態に対して何らかの人為的な働きかけをしない限りは、それらは常に拡散する方向へと状態は変化するという感覚的経験を物理学的に厳密に表現したもの、とみなすことができるのである。

しかし、ここでは、エントロピーを生命や人間社会や環境をも扱えるように、こうした本来の近代的定義の仕方を超えて、エントロピーとは物や熱の拡散の程度を示す定量的指標のことである、と定義し直す。
というのは、既述のエントロピーの古典熱力学的な定義と言い、統計力学的な定義と言い、それらはいずれも、少し難しい言い方をすると、平衡系または閉鎖系(孤立系)にのみ当てはまる定義であって、そのままでは生命や人間社会や環境という開放系にはとても適用できないからである。

なお、開放系とは閉鎖系(孤立系)とは反対に、外界との間で物や熱に関する相互作用を持つ体系のことである。
しかしその場合でも、エントロピーとは、物や熱そのものではなくあくまでもその属性であって、物や熱に付随してしか移動することのできないものであるとする(槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.35〜36、94、52)。

では、表題にある「エントロピー発生の原理」あるいは「エントロピー増大の法則」とも呼ばれるそれは何のことであり、そしてそれは人類に何を教えてくれているものか。
その核心部分を、本書の主題に引きつけて説明すると、次のように表現できる原理または法則なのである。
「個々の人間も、個々の産業も、また個人の集合体である社会も、つまりどんな社会的存在といえども、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの動きあるいは活動をすれば、それに応じて必ず熱の拡散ないしは物の拡散が生じるが、そのときには、発生する物(廃物)と熱(廃熱)に付随して移動する、『エントロピー』という用語で表現され、しかも実測が可能な物理的状態を表す量が必ず増える。」

なおここで、熱の拡散とは、高温物体から低温物体へ熱が移動することをいい、物の拡散とは、高濃度の物質が低濃度の空間へ拡散することを言う。そしてその場合の拡散の程度は、日常用語で言い換えると、熱に対しても物に対しても、「汚れ」、それも質的にではなく量的な意味での「汚れの度合い」と言い換えることもできる(同上書p.36)。
このことから判ることは、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、そのとき必ずエントロピーという汚れが発生し、したがってその活動を続ければそれが蓄積してゆき、それが物と熱に付随した汚れであるが故に、発生し蓄積したそれをどこかの過程で、その空間の外に捨てない限り、つまりその空間を浄化しない限り、人も、産業も、社会も、そして自然あるいは地球さえも、汚れが蓄積した結果として活動できなくなり、やがては死に至る、ということである。
このことは、身近な例で言えばこういうことである。

ある閉め切った部屋でガスストーブでも石油ストーブでも燃やしつづけると(たとえ完全燃焼し続けた場合でも)、炭酸ガスという廃物と熱(廃熱)が出て、それが部屋に充満してゆく。だから時々は窓を開けて炭酸ガスや熱を部屋の外の空間に捨てないと、炭酸ガスがどんどん高濃度化し、また出た廃熱によって高温化し、その部屋の中の人は息苦しくなるし、高温に耐えられなくなる。これを我慢していたり、あるいはそこに貯まった廃物と廃熱をたとえば窓を通じて部屋から外に捨てることができなかったりしたなら、その部屋の中では人は活動できなくなり、やがてはその人は死に至る。

人間の小腸は免疫機能を司るきわめて重要な一機関であることはよく知られているが、その小腸で発生するガス−−−それが外に発せられたものが「オナラ」である−−−が体の外に放出されなかったなら、小腸はその免疫機能を継続し続けられなくなり、その場合もその小腸は病気になると共に、やがてはその人も生命が重大な危機に陥ることになる。

尿についても同じで、そこには体の隅々から出た老廃物が含まれているだけに、それを適宜、体の外に捨てないと、その溜まった尿が逆に身体中を巡ることになり、体の諸機関の働きを損ねてしまい、それはそれでその人は生命が重大な危機に陥ることになる。

そもそも人間が日々生活しているということは、同時に、あるいはそれと並行して、ゴミという名の廃物(排水を含む)を出し、汚れという跡を残しながら、また熱も廃熱として出し続けているということなのだ。そうしたものを家庭内から適宜家庭の外に捨てない限り、その家庭内での生活の続行は困難となり、さらにそのままにしていたのでは、精神的にも肉体的にも病み、やがては生きてゆくことさえできなくなる。
あるいは、そもそも人間が生きているということは、外から絶えず酸素と食い物と水を取り込んでは、それを体内で化学的に熱とエネルギーに換えると同時に、外に対して「仕事」ができる体力ある体を維持しながら、その一方で、息を吐くことをしながら、日に幾度か、体内に溜まった廃物(尿を含む)や排熱を排便・排尿という形で体外に捨て続けてもいるということなのだ。その時、溜まった排便と排尿ができなくなったなら、それは体内に溜まってゆき、そのままにしておいたなら、いつかはその体は死を迎えることになる。
このように、人が生きることや生活することを含めて、人が日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、その過程においては必然的かつ不可避的に廃物や排熱が生じるのであり、その活動を続けるためには、生じたその廃物や排熱をそれを生じた空間の外に捨てるということが絶対に必要となる。これは好き不好きの問題ではない。ところが、その際、もし、生じた廃物や排熱を外の空間に捨てることができなかったなら、あるいは捨てることができなくなったなら、これまでの活動は確実に継続することができなくなるのである。

実はこのような事情は、人や家庭に限った話ではなく、たとえば工場においても、さらには社会一般においても、まったく同様に言えるのである。

工場とは、物(製品)を作る場あるいは空間のことであるが、そこがその目的を継続的に維持できるためには、工場の外から資源とエネルギーつまり熱と燃料を空気(酸素)とともに持続的に取り込んで来ることができると共にに、それを燃焼させて機械に「仕事」をさせる能力を生じさせ、その過程で不可避的に出る廃物や排熱をその機械の置かれている空間、さらには工場という空間の外に捨て続けることができることが絶対に必要となる。

つまり、燃料と空気を持続的に取り込めなくなったり、廃物と排熱を工場の外の空間に捨て続けられなくなったりしたなら、工場は製品をつくり続けられなくなる。すなわち操業できなくなる。廃業である。

この場合、資材や材料をどう確保するか、労働力をどう確保するか、コストをどれだけ抑えるか、利益をどれだけ見積もるか等は経営的な話で、ここでの物理化学的な議論では本質的なことではない。
人間の集団として定義される社会についても同様だ。そこが人々の暮らしと産業が成り立つ場であるためには、たとえば行政区のように一定の統治面積で区切られたその面積の中に、先ずはその外から水や食糧、鉄その他の金属といった資源、そして燃料、電力あるいはガス等のエネルギーを持続的に取り込むことができるようになっていなくてはならない。そして、それらが必要な量だけ、各家庭や工場、商店あるいはオフィスに供給され、その各々はそれらを使用しては熱とエネルギーを生じさせながら「仕事」ができるようになっていなくてはならない。しかし、社会が持続的に成り立つためにはそれだけでは不十分で、同時並行的に、その一方で、それらの過程で不可避的に出る廃物や排熱をその社会の外の空間(環境)に捨て続けなくてはならない。それはどんなにコストがかかろうとも、である。

それができて初めて、社会の各構成員はそれぞれの目的を、物理学的には持続的に実現できるようになるのである。すなわち、社会が社会として持続可能となるのである。

以上の事情はさらに、一国全体についても、地球全体についても同様に言える。
国については、その国が一定の領土と人口を抱え、国民が生活でき、産業が成り立ち、国家としての機能を持続できるために満たされなくてはならない必須条件は上記の社会の場合と同じである。

地球についてみても、地球がヒトを含む生物すべてが生き続けられる地球であるためには、人が日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動を通じて生じさせた廃物や排熱を継続的に地球の外の空間、すなわち宇宙に捨て続けられることが絶対に必要となるのである。

なお地球の場合には、他生物の活動による廃物や排熱も、また自然界での諸活動によって生じた廃物や排熱も考慮しなくてはならないが、人類が誕生する前までは、あるいは少なくとも産業革命前までは温暖化問題は問題とはなっていなかったのであるから、他生物の活動や自然界での諸活動による廃物・排熱の処理を考えることは、ここでは本質的なことではないであろう。

とはいえ、要するに、一国全体についても地球全体についても、人が出し、他生物が出した、さらには自然の諸活動によって生じた廃熱や廃物を地球の外、すなわち宇宙空間に捨てることができなくなったなら、その時、一国も持続的には成り立ち得なくなるし、地球の自然も成り立ち得なくなるのである。

以上の具体例は、いずれを取っても、また誰にとっても、経験から理解できることであり、また類推できることであろう。つまりそれらは証明することを要しない真理を表わしているのである。そういう意味で、こうした諸現象を統一的に説明できるエントロピーに関する真理は原理なのである(5.1節の「原理」参照)。

その真理を、つねに廃物や排熱に付随して、廃熱や廃物とともに移動するエントロピーという物理量をもって一般的に表現すると次のようになる。
「人も社会も自然も、またそれらのすべてをその表面上に抱える地球も、すなわち万物は、それぞれの営みないしは活動において絶えず発生し続けるエントロピーを、それぞれが占める空間の外の空間に捨て続けなくては、あるいは捨て続けることができなくなったならば、人も社会も自然も地球も、それぞれが本来持つ機能を発揮させることも維持させることもできなくなる。つまり、それらは、必ず病気になり、いずれ、どれも、死を迎えることになる。」

この真理から、次のことが導き出されるのである。
それは、万物は、そのどれをとっても、それ自身単独で存続して行くことはいついかなる場合にも絶対に不可能であり、つねに外界という空間に囲まれていて初めて存続し得る、ということである。
しかもその時、それ自身が存続あるいは持続できてゆくためには、それ自身とそれを取り囲む外界との間には、それ自身が発生するエントロピーをよりよくその空間を取り巻く外の空間に捨てられるようにするために、あるいは捨てられるようになるために、つねにある条件がついて回る、ということである。
 実は、その条件なるものを明確に教えているのが《エントロピー発生の原理》ないしは《エントロピー増大の法則》と呼ばれるものなのである。

この法則は、ニュートンの発見した「万有引力の法則」と同様、私たちの身の丈の世界———つまり、原子核や原子や分子の世界、および宇宙を除く、現象と変化がすべて非可逆な世界———ではいつでも成り立つ法則である(槌田敦「熱学外論」朝倉書店 p.41)。それも、対象を「熱と物」の範囲内で扱う限り、自然現象についてだけではなく、社会現象に対しても適確な判断を与えてくれる法則なのである(槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.52)。

それゆえ、《エントロピー発生の原理》ないしは《エントロピー増大の法則》は、私たちが人類および生命一般の存続あるいは永続を真剣に考える場合には、だれでも、一瞬たりとも忘れてはならないものといえる。とくにこれからの時代には、それぞれの国において、人々が幸せに、かつ安定的に生き続けて行けるためにこれまでにはなかった大胆な政策を打ち立てて行かねばならない事態に直面して行くだろうことが想定されるが、そのとき、それぞれの国内にて国民の代表として最も重大な使命を負う政治家という政治家は、この《エントロピー発生の原理》をつねにあらゆる政治的発想の根底に据えて行かねばならないものだと私は考えるのである。

そしてその場合、先のいくつかの例からも容易に推測がつくと思われるが、エントロピー発生とその量に最も大きな影響を与えるのは、広い意味で人間の経済活動であるということだ。そしてその経済活動は、いつ、どこにおいても、人間が生きてゆく上で基本的に不可欠な活動である。それだけに、エントロピーは大量に発生しても、経済活動は持続させ得るようにしておかねばならない。そのためには、これまでの説明からも明らかなように、発生するエントロピーをその空間を取り巻く外の空間によりよく捨てられるような仕組みや制度を考え出し、それを実現させておくことがどうしても必要となる。

では、そのような仕組みや制度とはどのようなものなのか。
また、それを考え出し、実現させてゆくためには、予めどのようなことを考えておく必要があるのだろうか。

そのためには、せめて次のような幾つかの問いを発し、その答えを見出しておかねばならないと私は考えるのである。
(第1の問い)

そもそも、個々の人間あるいはその集団である社会は、さらには世界各国では、地球上では、一体どれだけのエントロピーを、これまで、そして今日、平均総量として、1年間に発生し続けているのか?

こうした問いを発するのは、先ずは現状を知っておく必要があるからである。
(第2の問い)
 人間や社会(産業)あるいは自然のすべてをその表面上に抱える地球は、人間や社会あるいは自然の活動から絶えず発生してくる汚れとしてのエントロピーを、これまでは、どのようにして地球の外の空間、すなわち宇宙に捨てているのか。そのメカニズムとはどういうものか?

それは、そのメカニズムが明確に掴めていない限り、新たな経済のしくみや制度について考えようがないからである。
(第3の問い)

では、人間や社会(産業)あるいは自然が発生させたエントロピーのその1年間当たりの総量を、地球は宇宙に捨てることができているのか、それともできていないのか?
できていないとすればそれはどうしてか。また実際に捨てることができている量とはどれだけか?

こうした問いに答えられたとき初めて、私たち地球人は、地球の温暖化あるいは高温化を阻止しようとする場合にそうであったような、単なる「できるところから省エネすればいい」、あるいは「○○年のときと比べて、△△%の温室効果ガスを削減しなくてはならない」といった漠然とした努力目標や削減目標を掲げるしかなかった状態から抜け出すことができるのである。
あるいはまた、“今後温暖化がどう進むかは継続的に観測してみないと判らない”という観測頼み一辺倒の状況や姿勢からも脱しうるようになるのである。それも温室効果ガスの排出量ではなく、またどれだけ温暖化しているかという温度の観点からでもなく、エントロピーという明確な物理量に着目することに拠って、である。

それだけに、地球の温暖化阻止を考えるとき、というより人類の存続の可能性を考えるときには、エントロピーに関する先の3つの問いに対する答えを明確にしておくこと、それは、人類にとってこの上なく重要なことになるのである。
そしてこれを明らかにするのは、まさしく地球温暖化問題を研究している世界各国の科学者やIPCCの科学者の皆さんの役目なのではないか、と私は考えるのである。

とは言え、まるっきりその時まで答えを待っているわけにはいかないので、ここでは、槌田氏の力を借りて、私に出来る範囲での答えを見出してみようと思う。
そこで、先の第1の問いの答えについてであるが、それは今の私には無理である。答えられるだけの資料もデータも持ち合せていないからである。

第2の問いに対する答えはどうなるか。
これについては、地球は物理学的に見れば熱機関であると同時に熱化学機関でもある、ということから得られる(槌田敦の前掲書)。

では熱機関あるいは熱化学機関とは何か。
詳細な説明は槌田氏の書を見ていただくとして、簡単にいえば、次のようになる。

熱機関とは、資源としての燃料と空気が機関内部を「作動物質」となって流れる過程で、高温部分よりも高温の高熱源から熱を取り入れ、また低温部分よりも低温の低熱源に熱を捨てることにより、そしてその際、作動物質が循環的に流れることにより、物理学で言う「仕事」をなし得る能力としての動力を外部に向かって持続的に生み出すことができる装置のことである(前掲書p.103)。

 

一方、熱化学機関とは、基本的には熱機関と同じであるが、熱と仕事の出入りのほか物質も出入りし、機関の内部で作動物質の化学反応を伴ない、その化学反応により自己を循環的に復元する機関のことを言う(前掲書p.112)。
いずれにしても、熱機関および熱化学機関の本質は、作動物質が循環することでサイクル運転が持続し、1サイクルごとに熱を内に取り込み、外に対して仕事をする、というところにある(前掲書p.105)。

そしてここで言う「資源としての燃料」については、人の場合にはそれを「水と栄養」と考え直すことができるものであり、工場の場合には「資材と資源としての燃料」、社会の場合には「水と食糧とエネルギー資源」と考え直すことができるものである。
このことから、人を含む生命一般も、生態系も、そして工場も社会も、そして地球も、その本質は、物理学的に見れば熱化学機関とみなせる、となるのである。
なお、第2の問いに完全に答えるためには、ここで次の問いをも発し、その答えをも見出しておく必要があるのである。
それは、とくに熱化学機関と物理学的には見なせる人や生命一般あるいは人間社会は、どういう条件が満たされたとき動いて働ける活力を持続的に生み出せるのか、同じく、どういう条件が満たされたとき工場は物理学で言う「仕事」あるいは動力を生み出すような活動(操業)を持続できるのか、同じく、どういう条件が満たされたとき生命系の自然と非生命系の自然とからなる生態系や地球はその機能を持続できるのか、ということである。
実はこの答えを得るヒントは、すでに熱機関あるいは熱化学機関というものの本質の中に見出せるのである。
そこで次のように考える。

一般に、循環という現象がうまくいかなくなるのは、循環して巡る物質−−−これまで「作動物質」と呼んで来たもの−−−がその循環経路から流出したり、循環経路内のどこかに固着したり、あるいは循環経路を構成している物質または循環を維持している構造物が壊れたりする場合である。
ところで、先に、エントロピーは物質あるいは熱に付随して移動する汚れであるとしたことから判るように、こうしたいずれかの理由から物質あるいは熱の循環がうまくいかなくなれば、エントロピーも循環しなくなって、循環経路内のどこかに溜まり、かつそこで増え続けて行く。
しかし、流出した作動物質を補充したり、壊れた構造物を修理したりするという作業は、《エントロピー発生の原理》が私たちに教えてくれているその核心部分によって、新たに余分のエントロピーを必ず発生させてしまう。また、どこかに作動物質が固着してしまうと、それが障害となって流れを阻害していっそう作動物質を多く固着させてしまう。

こうして、循環がうまく行かなくなれば、順調に循環が行われていた時に発生していたエントロピーに加えて、補充や修理で発生したエントロピー、固着していっそう増えたエントロピーまでも捨て続けなくてはならないということになるのであるが、そのことは、それだけその熱化学機関にとっては大きな負担となる。

とは言え、この「捨てる」という作業に伴う負担に耐えられている間は、その熱化学機関としての人間・生命・生態系・社会・工場・地球は本来の機能を維持し続けられ、「生き続ける」ことができる。しかし、エントロピーという汚れをその循環システムからそのシステムの外に捨てることが困難になったときにはその熱化学機関は「病気」になったことを意味し、さらに、いよいよそれを捨てることができなくなったときには、熱化学機関は機能不全を起こして「死」を迎えた、ということになる。

こうして、先の第2の問いの答えは次のようになる。
「人間・生命一般・生態系・社会をその表面上に抱える、物理学的には同じく熱化学機関と見なせる地球は、その表面上で発生するエントロピーを、エントロピーはつねに廃熱と廃物に付随して移動しうるものであるだけに、地球表面と宇宙空間との間での物質と熱の循環に乗せて宇宙空間に捨てている。」

このことは、見方を換えれば、「エントロピーを宇宙に捨て続けられるためには、地球上での物質循環は絶やされてはならない」ということになる。

ところで、その物質循環を持続させようとするとき、十分に注意しておかねばならないことがある。それは、毒物を循環させてはならないということである。
それも、自然界において分解されない毒物、あるいは分解されにくい毒物についてはとくに注意を要する。
結論から言えば、そのような毒物———それは物質であれその物質を含む材料であれ———は最初から製造しない方がよい。その毒物に当たるのは、現在の段階では、化学物質、そのうちでもとくに有機塩素化合物(たとえば塩化ビニール)と有毒重金属、毒性金属元素そして放射性物質である。それらは最初から製造しない方がよいとするのは、たとえ単体では毒性がないとされている化学物質でも、現実には、既に自然界には2万4千種類以上の化学物質が入り込んでいるとされる中で(エントロピー学界編「循環型社会を創る」藤原書店 p.149)、それらが互いに反応することでどんな毒性ある物質が新たに生み出されているか、そしてそれがどれほどの毒性をもっているか、検証のしようがないからである。

そのことを考えると、毒物としての化学物質は製造そのものを止め、天然素材に切り替えて行くべきなのである。

とにかく、エントロピーを宇宙に捨て続けられるためには、地球上での物質循環は絶やされてはならないとは言っても、分解されない毒物は循環すればするほど自然界と人間社会に拡散し、またそれが生物濃縮という事態を引き起こしてしまう。それに、ひとたび拡散してしまったものは、「覆水、盆に返らず」の喩えの通り、その後どんな科学や技術の力をもってしてもそれを元通りに集めることは不可能なのである。そこでは、「いずれ、科学技術が解決してくれるだろう」などという期待は絶対に通用しないのだ。

ところで今は先の問いの2番目について、人がその上で生き、生活させてもらえている地球という熱化学機関を考えているのである。

では、その地球が熱化学機関としての機能を維持させるのに必要な作動物質とは何か。また、その作動物質が地球という熱化学機関内部を循環する時に、刻々と生じるエントロピーの発生場所はどこか。

その場合の作動物質は「大気と水と養分」となる。そして、エントロピーの発生場所は、その作動物質が地球表面上を循環する過程そのものであり、人間の諸活動を含む地球上のすべての生物がその営みを行う場と、生物とは違うすべての無機的な自然が活動する場である。
そしてそうしたすべての営みと活動の過程で生じたエントロピーを捨てることのできる場所は、地球にとっては、唯一、「宇宙空間」となるのである。

こうして、地球は宇宙の中で物理学的に孤立した存在となっているのではない、ということを知るのである。そもそも孤立していては熱化学機関として存在し得ないのだ。
宇宙に向かって熱や物質を放出したり、また宇宙から太陽の熱を受け取ったりと、つねに宇宙との間で熱のやり取りをすることでその熱や物質に付随して移動する汚れとしてのエントロピーをも捨てることができ、その結果として地球は生きている、つまり地球は熱化学機関としての機能を果たし続け得るのである。

以上で、先の第2の問いに答えられたことになる。

 

では第3の問いに対する答えはどうなるのか。
以下は「その2」で考えてみようと思います。